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花火の音に、君への言葉をかき消して
ドォン、と遠くで腹に響く音がした。
まだ夜空は暗いままだ。山の向こうで始まった前座の花火が、街の喧騒に灯りを添えている。
「ちょっと、蓮! 歩くの早すぎ!」
背後から飛んできたふくれっ面に、僕は慌てて足を止めた。
振り返ると、神社の参道の坂道で、葵が浴衣の裾を気にしながら小さな歩幅で歩いていた。いつもは見慣れているはずの、少し癖のある栗色の髪が、今日は綺麗にアップにまとめられている。うなじが白く頼りなげに見えて、僕は気まずくなって目を逸らした。
「わりぃ。浴衣、慣れないよな」
「そりゃそうだよ。蓮が『最後くらい行こう』って誘ったんじゃん。高校最後の夏祭りなんだからさ」
葵は「まったくもう」と笑いながら、僕の隣に並んだ。鼻先をかすめたのは、いつものシャンプーの匂いではなく、どこか大人びた、甘いベビーパウダーのような香りだった。
僕と葵は、家が隣同士の幼馴染だ。
幼稚園から高校までずっと一緒。葵が転んで泣けば僕が手を引き、僕がテストで赤点を取れば葵がノートを貸した。隣にいるのが当たり前すぎて、自分の胸の奥にある「これ」が、単なる幼馴染の情愛ではないと気づいたときには、もう手遅れだった。
夏休みが終われば、僕たちはそれぞれの進路へ進む。僕は東京の大学へ、葵は地元の看護学校へ。
距離にして、新幹線で3時間。いつでも会える距離ではなくなる。
この関係が壊れるのが怖くて、ずっと言えなかった。でも、今日を逃したら、もう二度と言えないかもしれない。
「すごい人だね」
境内に近づくにつれ、人混みは激しさを増していった。浴衣姿のカップル、騒ぐ男子高校生の集団、迷子泣きする子供。色とりどりの提灯が、露店の並ぶ通路を赤く照らしている。
ふいに、後ろから大きな体格の男たちが笑いながら押し寄せてきた。
「あ、」
葵の体が、人混みに押されてよろめく。
僕は反射的に手を伸ばした。
葵の細い手首を掴み、自分のほうへと引き寄せる。
「危ない」
「……あ、ありがと」
至近距離で、葵の大きな瞳が僕を見上げた。提灯の光が、彼女の瞳の中に小さな炎のように灯っている。
掴んだ手首から、トントンと速い鼓動が伝わってくるような気がした。それが僕のものなのか、葵のものなのかは分からない。
「はぐれたら面倒だし……その、これ、持ってろ」
僕は手首から滑らせるようにして、葵の手を握りしめた。
葵の指先は少し冷たくて、だけど手のひらは驚くほど柔らかかった。葵は一瞬だけ身を硬くしたけれど、すぐに僕の手をぎゅっと握り返してきた。
「うん。……離さないでね」
その一言で、僕の心臓は爆発しそうだった。
僕たちは手を繋いだまま、人混みを泳ぐようにして境内の裏手にある高台へと向かった。ここは地元の人しか知らない、花火が一番綺麗に見える秘密の場所だ。
高台に立つと、心地いい夜風が僕たちの火照った肌を撫でて通り過ぎた。眼下には、お祭りの光がまるで地上の星屑のようにきらめいている。
「懐かしいな。昔もここで、迷子になりかけた葵を泣きながら探したっけ」
「ちょっと、昔の話は禁止! あの時は蓮だって泣いてたじゃん」
葵が楽しそうに笑う。その笑顔を見るだけで、胸の奥がチクリと痛む。
繋いだ手から伝わる温もりが、もうすぐ失われる現実が、すぐそこまで迫っていた。
「ねえ、蓮」
葵が前を向いたまま、ぽつりと言った。
「東京、行っちゃうんだよね」
「……ああ。来年の春にはな」
「寂しくなるね。朝、起こしに行ってあげる人もいなくなっちゃう」
葵の声が、少しだけ震えているように聞こえた。
横顔を見ると、彼女は寂しげに微笑んでいた。その表情を見た瞬間、僕の中で何かが弾けた。
言わなきゃダメだ。幼馴染のままで終わらせちゃいけない。
「葵、俺――」
僕が言葉を紡ごうとした、その瞬間だった。
シュルシュルシュル……と、夜空を切り裂くような鋭い音が響き渡った。
一瞬の静寂。
直後、夜空の真ん中で、巨大な大輪の黄金の菊が弾けた。
――ドンッ!!!!
鼓膜を震わせる大音響。遅れて、赤、青、緑の光が、降るような火の粉となって夜空を染め上げていく。
葵が「わあ……!」と歓声をあげて目を見開いた。
光に照らされた葵の横顔は、言葉を失うほど綺麗だった。
心臓が激しく脈打つ。花火の音にかき消されるなら、今しかない。臆病な僕の背中を、光の群れが押し出す。
僕は、繋いだ手にぐっと力を込め、葵の耳元に顔を近づけた。
そして、胸にあるすべての想いを、声に乗せて叫んだ。
「葵! 俺、お前が好きなんだ! 幼馴染としてじゃなくて、一人の女の子として、ずっと前から好きだった!」
次々に打ち上がる連発花火の音が、バリバリと大気を震わせる。
僕の声は、完全にその爆音の中に溶けて消えた。自分でも何を言っているのか聞こえないほどの轟音だった。
言い切って、僕は肩で息をしながら顔を離した。
伝わらなくていい、いや、伝わってほしかった。矛盾する感情を抱えながら、僕はただ、夜空を見上げる葵の横顔を見つめた。
やがて、一番大きな「錦冠(にしきかむろ)」と呼ばれる花火が、夜空全体を真昼のように明るく照らし、ゆっくりと、しだれ柳のように消えていった。
あたりに、静寂が戻る。
遠くで拍手と歓声が聞こえる中、僕たちの間には、ただ夜風の音だけが流れていた。
「……やっぱり、綺麗だね」
葵が静かに口を開いた。
やっぱり、聞こえなかったよな。僕は少しだけホッとして、同時に猛烈な寂しさに襲われながら、「ああ、そうだな」と答えようとした。
しかし、葵は僕のほうを振り返らなかった。
振り返らないまま、ぎゅっと、僕の手を折れそうなほど強く握りしめてきた。
提灯の逆光で、彼女の顔はよく見えない。
だけど、光に透けた彼女の耳の淵が、打ち上がったどの花火よりも、真っ赤に染まっているのが見えた。
「……バカ蓮」
葵が蚊の鳴くような声で呟いた。
「花火の音がうるさすぎて、何言ってるか全然聞こえなかったじゃん」
葵はゆっくりと僕のほうを振り向いた。その瞳には、大粒の涙が溜まっていて、今にもこぼれ落ちそうだった。だけど、唇は嬉しそうに、きゅっと結ばれている。
「聞こえなかったから……もう一回、ちゃんと私の目を見て言ってよ」
夜空には、煙の向こうから次の花火が上がろうとしていた。
だけどもう、僕には花火の盾なんて必要なかった。
僕は葵の正面に立ち、今度はまっすぐに、彼女の瞳を見つめた。
(終わり)
疲れた。