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坂本の苦悩 第一章
フリーター――その言葉を聞いて皆は何を思い浮かべるだろうか。
真面目に生きていない、何も考えていなさそう、大半の人がそう思うだろう。全く持って同じ考えだ。
俺は|坂本涼真《さかもとりょうま》。
夢だったT大学に入学し、将来は母親に勧められた大手IT企業に就職するつもりだった。
しかし、全てがどうでもよくなり、入学してから約半年で自主退学してしまった。母親はまだこのことを知らない。
最初の方は「母親と勉強から解放された」などと呑気なことを思っていたのだが、後になって将来への不安が押し寄せる。仕事は? 生活費は? 崖の端に立たされたような気分だった。
そんな時に見つけたのが、一見ただの廃墟のように見えるカフェ。剥げた看板、埃を被った食品サンプル。たまには冒険しようと中に入ると、意外にも繁盛しているようだった。
俺は二百五十円の珈琲をすする。何も感じなかった。それを見かねたマスターが声を掛ける。
「お客さん、どうしたんだい?まるで珈琲が美味しくないみたいじゃないか。」
黙っていたのだが、マスターはいろいろと察してくれた。
「⋯⋯うちで働くか?」
最初は遠慮していたのだが、「人手不足だから」というマスターの押しに負けた。
こうしてマスター、|英雄《ひでお》爺さんの元で働くことになった。
爺さんは奥さんに先立たれているらしく、子供もいないため、俺を可愛がってくれた。可愛がられすぎて常連さんにも「まるでおじいちゃんと孫ね」とよくからかわれたものだ。
働き始めて一年が経った頃、閉店後に爺さんがこんなことを言った。
「入院することになった。」
「は⋯?なんで?」
「ステージ4の大腸がんだった。」
口から出た思いも寄らない言葉。俺は何も言えなかった。
「⋯⋯死んだらこの店よろしくな。」
「そんな⋯⋯店なんていらねえよ!俺は爺さんの淹れるあのマズイ珈琲が飲みたいんだよ!」
あまりにも軽い一言に俺は思わず怒鳴ってしまった。そして扉を思い切り閉めて立ち去ってしまった。そんな俺を慰めるかのように、優しい風が吹いた。
結局俺は爺さんが入院してから、一度も見舞いには行かなかった。ホテルの灯りやキャバクラの看板が、目に刺さる。
「⋯⋯もしもし、坂本です。」
電話が鳴り響く。十川総合病院。
嫌な予感がした。
そして、その予感は的中してしまったのだ。
俺は膝から崩れ落ちた。酔っ払いたちの笑い声も、車の走行音も、その時だけは砂嵐のように遠ざかって何も聞こえなかった。
数日後、俺は爺さんの遺品整理を親友の中村に手伝ってもらっていた。
「手伝ってくれてありがとうな。」
「いや、いいのよ。あなたの恩師なんでしょ?」
手際よく段ボールを組み立てる中村を見て、俺は少しだけ申し訳ない気持ちになる。恩師……か。俺は爺さんに、何もしてあげられなかった。
「おーい、大丈夫?ぼーっとしてたよ。」
彼女の顔が覗き込んできた。石鹸の匂いが鼻をくすぐり、俺は慌てて視線を逸らす。
「⋯⋯ごめん。なんだっけ?」
「これ。」
そう言って中村が差し出したのは、一枚の古い写真。おそらく爺さんと奥さんが旅館の前で撮った写真だろう。奥さんはとても美人で、誰が見ても見惚れるほどだ。
「ここの旅館。前にあなた行ったことあるところじゃない?」
もう一度写真を見る。龍火旅館。俺が母親と行ったことのある旅館だった。嫌な記憶が蘇る。
「せっかくだし気分転換に行ってみたら?」
中村の提案に、俺は少しだけ迷った。
「……中村も、来るの?」
「私と、あと友人の渡辺も誘っていい? 三人なら寂しくないでしょ」
散々悩んだ末、俺はその誘いに乗ることにした。