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「クソみたいに不味い飯が世界の全てだった」
クソみたいに不味い飯が世界の全てだった。
穴の空いた一張羅には泥がはね、飼っていた
ちびの犬もいつか死んだ。
姉が最初にいなくなり、次に妹がいなくなった。
身売りという言葉の意味を長らく俺が知らなかったのは、この化け物のせいだ。
化け物。愛しい俺の化け物。そいつは俺が成長すると共にその輪郭をはっきりと表していった。
黒く黒く澱むそいつは、排水溝に溜まった汚い水と似ていた。化け物はいつも俺のことを守った。
腹を壊す食い物を俺が食わないよう仕向けた。誰かが腹立ち紛れに投げた石をはね返した。
嵐の日には自分の澱みの中に俺を隠して、家ごと吹き飛ばされた隣人を嗤っていた。囁きのような嗤いだった。隙間風のような、掠れた声のような、喘鳴のような。
俺はそいつと共にずっと生きてきた。この塵溜めの中で生きてきた。
あの壁を見つけたのも、そいつが俺に教えたからだった。
灰色の壁。無学な塵溜めの人間が知る限りの暴言が書き殴られた壁。俺たちが暖かい服を着て、腹一杯飯を食う人生を拒む壁。
これを壊せばいいと化け物は囁いた。だから俺は、
随分と不吉な夢を見ていたようだ。
スラムのような場所で十五までを過ごす夢だった。
見えるようで見えない、見えないようで見える黒い何かに誘われるまま、高い高い壁の前にたどり着き、外の世界に立った途端夢が覚めた。やれやれ、妙な夢を見たものだ。これから商談が入っているというのに。
「…社長、お時間です」
静かに入ってきた秘書が私にそう告げた。
「ああ、今行くよ」
私は答え、椅子から腰を上げた。
部屋を出て行く社長を秘書は見送った。スーツに包まれた脚からどろりと溶け、黒い何かに変わる。何かが呟く。隙間風のような、喘鳴のような、掠れた声で。
「…잊어버려」
秘書の正体は誰も知らない。