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【曲パロ】暮しガスメータ
※この小説は電ǂ鯨様の「暮しガスメータ」の二次創作です。
私の安心はコーヒーゼリーです。
郊外。萎びた小さな町の、ぼろい5階建て団地のA棟。そこが茜と葵の住処だった。ぬるい空気のせいで今日も、葵は眠りと現実の狭間から抜け出すことができなかった。
「葵ちゃん、もうすぐお昼やで」
茜がくたびれたソファーまでやってきて、葵の体を軽くゆすった。小さく葵が何か呟く。どうやら目が覚めたようだ、と茜はそこでゆするのをやめる。
「お姉ちゃん、おはよう」
「おはよう」
葵は身を起こした。今日は茜が一日中家にいるらしいので、買い物でも行きたいなと、眠い目を擦った。ここ最近、毎日寝不足だった。
葵には目星がついているが、解決の仕方が分からない。ぬるい空気が邪魔をする。ぬるま湯に浸かっているみたいに、体力を奪われるのに、脱することができないのだった。
このまま精神を殺されてしまうくらいだったら、お姉ちゃんに相談した方がいいのだろうか。決心も出来ていなかった。どうか、これ以上心を奪わないで。そう願うことしか、今はできない。
完全に目が覚めた葵は、特に今すぐやりたいことがなかった。そのうち茜と買い物には出かけるだろうし、しばらく暇を潰そう。狭い部屋の片隅に放置されていたおもちゃ箱を漁ると、記憶よりがらくたに近づいている人形が出てきたので、手慰みに遊ぶことにした。
「葵ちゃん、それで遊ぶの久しぶりやな」
茜が軽く掃除しながら、壁にもたれかかっている葵に近寄る。
「もうずいぶんぼろいおもちゃになってもたなあ」
そう言って、茜は懐かしそうに笑ってみせる。
おもちゃではなく、旧い友達だ。だからそんな風に。その先頭の中に浮かんでこなくて、葵は反論するのをやめた。おもちゃを友達と呼ぶには、いささか時が経ち過ぎているのだ。もう呑気に遊んでいられる年でもないことぐらい、葵にだって分かっている。幸い、茜は部屋の外にもう出ていた。
一安心したところで、窓の外から声が聞こえ出した。先ほどまで曇り空で、山の木々の緑を映していた窓ガラス。その向こうは今や黒く夜に塗り潰され、腐ったこどもの啜り泣きが煩くこだましている。
その声が、葵は嫌いだった。特に怪異とか、幽霊とか、そういったものは好きじゃないのに、おかまいなしに出てくるからだった。
「あした」「あした、遠足」「行きたかった」。言葉と共に、こどもたちは遠足のしおりやらおやつ代の500円玉やらを葵に差し出す。受け取ってはいけない。葵の生存本能が喚いているから、一度もその手を取ったことはなかった。
頬を冷や汗が伝う。それでも、葵は苦笑いを浮かべることしかできない。窓ガラスを割らずとも部屋にしのびこんでくる手を、困ったように見つめていた。
「あれ、葵ちゃん?」
茜が閉まっていたドアを開けて、再び葵のすぐ側に歩み寄る。
「お姉ちゃん、また見えるようになった」
少しの逡巡ののち、葵は口を開いた。窓を指差した。茜は目を見開いて、そんな葵をこどもたちから守るように、カーテンをぴしゃりと閉める。
「そういう時は、耳を塞いで寝るとええよ」
茜の助言も、対症療法だった。
葵には見えるおぞましいものたちは、他の誰にも見えない。幻影なのか幽霊なのかすらも分からない。診断してもらうお金だって、その日暮らしで精いっぱいな2人は持ちあわせていない。だから、なんとか葵は寒気に、恐ろしさに目を瞑って耐える。
そんな心身を病んだ葵を養うために、茜は必死に働くのだ。貧しくとも、葵がこれ以上心をすり減らすよりはましだと、茜は信じているのだった。
2人のつましい暮しは、当たり前のように続いていく。
時計の針が正午を指す。舞い戻ってきた眠気に抗わずに机に突っ伏していた葵を、茜が朝と同じように揺り起こす。
「葵ちゃん、買い物行こか。郵便局も」
「郵便局」
「ガス代とか払わなあかんやろ」
「払えそう?」
「また1ヶ月暮らせるで」
葵の顔が明るくなる。1ヶ月間何も憂えることなく暮らせるのだ。これで一安心。そう思うとまた体が弛緩するようで、葵は椅子から動きたくなくなる。しばらく部屋の中にこもりきりだった骨が、腱が錆びつくような感覚。
いや、身体構造だけではない。心まで錆びついてしまった。外にはもうこどもたちもいないのに、どこか動ける気がしない。葵はもう、甘んじることに慣れてしまったのだ。
鉛のような体と頭を動かして、玄関から外に出る。団地の廊下によって空は閉じられている。ひどく閉塞的だった。
「いろいろ回らないとあかんからね」
足早に歩き出す茜を葵は追いかける。それに気づいた茜が、少しスピードを落とした。不安も恐ろしいものもなければ、貧しくなかった頃、しっかり者の葵が顔を出す。
「お姉ちゃん、今日何食べる?」
「なんでもええよ」
掃除、洗濯、炊飯、惰眠、それからその他諸々。全部プラスで繋ぐ=暮し。
例えそれがいくら憎らしくても、明日も安心を頼って暮らしてしまう。ぬるま湯に浸かるような暮らしが葵は好きだった。ずっと、気張らずに済んでいたのだから。
「じゃがいも買おか」
「お米、あったっけ。パックご飯でいいかな」
「ええよ。炊飯器ももうボロボロやしなあ」
ぱらぱらと欲しいものをカゴに詰めていく。何を作りたいわけでもなく、そう高くなくて目についたものを入れていく。野菜、値引きシールが貼られた惣菜、カレールウ。関連性なんてまるでない。ただの詰め合わせだ。
「これも買おう。葵ちゃんも食べるやろ」
「まだ家に何袋も残ってるよ」
「そうやっけ」
「お姉ちゃん、結局食べなかったでしょ」
そう言いながらも、レジ直前に仲間入りしたコンソメ味のポテトチップスを葵は返さなかった。ジャンキーな味が、今は少し恋しい。
「うち帰ったら食べよか」
「古いやつからね」
ひとたび外に出れば天気はぐずついている。団地を出た時はまだのっぺりとした曇り空だった。そのうち泣き出すように、ひとつぶ、ふたつぶ、雨粒が落ちてくる。
「降ってきちゃったね」
「これくらいなら大丈夫やで」
茜にとっては、天気よりもついさっき買ったもののほうが関心があるらしい。レジ袋の中を眺めてほくほく顔だった。少しずつ強まる雨の中、傘も差さずに濡れる服を眺める。はたと葵は思い出した。
「ああ、洗濯物の取り込みまだだ」
茜が出かける前に洗濯物を物干し竿にかけるところは見ていたが、その逆は違う。
少し早足になる葵を茜は追いかけた。なかなか追いつかなかった茜の手を引いて、古びたガードレールの坂を上る。
泣いている空とじゃれてびしょびしょになってしまった手すらも葵は拭かずに、両の手を伸ばす。結局どちらも濡れているので結果は変わらない。
「お風呂場で乾かせばいいよ」
それでも呑気でいられるのは、安心のおかげだ。服が濡れて駄目になっても、明日も暮らしていける。
「あ、郵便局行ってへんな」
だから、茜についていくことの方が大事だった。安心を安心でいさせることの方が大事だった。
「急がないと閉まっちゃうかな」
「きっとまだ大丈夫やから」
団地A棟の狭い空の下、2人で駆けていく。水たまりの水が跳ねて、足元をぬるくしていく。
「払ったらコンビニ行こう。カップ麺食べたくなっちゃった」
「今日の夕飯はカップ麺とコンソメポテチやな。葵ちゃん、やっぱり好きやなあ」
「わたしの安心なんだから」
こうして不健康な食にするのだって、表情には出ないけれども葵は楽しかった。
いつものコンビニ、いつものカップ麺、いつも払う数百円。スーパーで買った方が安かったけれど、ただ安さを求めるのとは少し違う。これで暮しがいつも通りになるのなら、安いものだ。あまり暮しに余裕はないけれど、きっと茜もそう思っている。葵はそう信じて、ちらりと茜の顔を見た。にっこりと目を細めるその横顔に仄暗い陰を感じたのは、きっと気のせいだろう。
その日の夜も、葵は幽霊を視る。
子供達とは似て非なるもの、目が一つであったり崩れていたりする丸い化け物たちがけたけたと笑い出す。隣を見れば、茜は既に眠っているようだ。
耳を塞いで寝る。実践しようとしても、なぜか目を離せない。何が面白いのか、葵の方をじっと見つめて、存在しない口から笑い声が漏れている。
そうっと電灯を付けても、それは変わらない。暗がりの中だけが棲家ではないそれらの声は、葵と一定の距離を保ったまま、隣の部屋との薄い壁をすり抜けてしまいそうなほどだ。流石に茜が目を覚ましてしまいそうな気がして、葵は電灯のスイッチに手をかけた。
やはり、一睡も出来ない。
横になっても昼の眠気がやってくることはなく、葵は再び起き上がった。それから、昼間に買ったポテトチップスの袋を手に取った。開いた。つい数時間前に食べたはずだった百うん十円の濃い味を流し込んでいけば、少しだけ張りつくものを忘れられる。
お姉ちゃんには内緒にしなければ。
また買わないといけない、と思いつつ軽くなっていく手元のみだりな安心をつまむ。
内側の銀色が、頼りなく安っぽく青白い光を反射するのを見つめて、横の部屋から伝わる茜の寝息をひたすらに聴いていた。
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久しぶりに夢を見た。
どこか懐かしいメロディをなぞるように、葵と茜は踊っている。それを葵自身は眺めている。だから夢だとはっきり分かったのだ。
ダンス踊って、ダンス、ダンス。ダンス踊って、ダンスっす。ほらダンス踊って、ダンス、ダンス……。
喋って時にダジャレを交えて、幼稚園児がするような簡単な振り付けを2人で大真面目に踊っている。何かに追われ続けているように、夢の中の葵は疲れた表情をしていた。それとは対照的に、茜の声色は明るい。純粋にダンスを楽しんでいるようだった。悪く言えば能天気だ。何も悩みなんてないような、からっと晴れている顔。それが、無性に羨ましくなる。
「お姉ちゃんはいいなあ」
開いていないはずの唇を、葵は震わせていた。夢の中だからだろうか、言葉がしみ出てくる。
「わたしは怖くて怖くて、夜もなかなか寝付けなかったんだよ。外にもお姉ちゃんと一緒じゃないと出られないんだよ」
そうこぼしたすぐ後に、目の前の葵が動きを止めた。座り込んだ。操り人形の糸がぷつんと切れたかのようだった。茜は気遣う様子も見せない。
「ダンス踊ってよ」
間髪入れずに茜が告げた言葉に、ワンテンポ遅れて葵は小さく呟いた。ヤダヤダ。自分の声であるはずなのに、妙に幼く聞こえる。
「ダンス踊って?ダンス、ダンス」
再び何事もなかったかのように立ち上がって踊る自分を、葵は眺めることしかできない。手本を求めるかのように、踊る葵は弱々しく手を伸ばした。
「ダンス踊って、ダンスっす」
窓の外では魚が泳いでいる。水圧に耐えかねて窓ガラスが割れる。水が流れ込んできて、葵の喉も塞ぐ。
こちらの葵は不思議と息ができるのに、向こうの葵は辛そうだ。それでもダンス踊って、と声を絞り出す。鈍くなる動きに対して、無慈悲に茜は唱えた。ダンス踊ってよ。
その瞬間、苦しくないはずの傍観者である葵は叫んだ。衝動的に。
「……できない!!」
飛び起きた。机に突っ伏して眠っていたようだ。額に浮かんだ汗はぬるい空気のせいでなかなか乾かない。
茜が悪夢に出てきたのは初めてだった。こっそりと隣を覗いてみれば、茜はまだすやすやと眠っている。胸を撫で下ろし、夜食の残骸をのろのろと片付け始めた。嫌な後味は、まだ残っている。
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こんな精神状態でも、生活は続いていく。毎日茜は安心を手に入れにいくし、葵も安心を保とうとする。今までと全く同じぼろい暮し。萎びた団地A棟にジャンクな食べ物、くたびれた服。それが揃っていれば、簡単に暮しは成立する。
何も変わっていないのに、葵だけはどこか別世界に移ってしまったかのような感覚だった。いや、幼い頃の感覚に戻った、という方が葵にとってはしっくりきた。
無邪気にダンスを踊っていた、子供時代。こんなに貧しくなるとは思ってもみなかった、わたしたち。
それどころか、びんぼなんてごめんだ、大きくなったらお城に住もう。子供なら誰だって一度は言いそうなことではしゃいでいた白黒の記憶が脳裏に浮かぶ。遠足に回すだけのお金もない今日と、待ち切れずに眠れなかったあの日。
小さな葵が想像していた貧乏な暮しと自分の身なりが重なった。あんなになりたくなかったはずのものに、今自分たちはなっている。それはなぜだろうか。ぬるま湯のせいか。弱い自分のせいか。お姉ちゃんは1人でも楽しそうに踊れるのに、暮らせるのに、どうしてわたしは。
ぽつんと佇む葵に、また手が伸びてくる。こどもたちのあどけない指には何も握られていない。もしくは、葵をこれから握ろうとしているのか。
実態がないので通用はしないが、葵は掃除用のクリーナーを手に取ってみる。こっち来ないで。手を切っちゃうよ。やはり意味はない。伸びてくる手は葵の髪を、シャツを生ぬるく撫でている。生理的に涙が込み上げる。
笑い声が膨らんで、どろどろと濁った。何かが弾けたような気がする。泣き笑いで周りを眺めてみれば、手首から先がなくなっている。葵ではない。こどもたちの笑い声が止んで、グロテスクな腕だけが微動だにせずそこにあった。消えてはくれなかった。
茜が帰ってきた。玄関から軋んだ鍵の開く音がして、茜が立ち尽くす葵を不思議そうに眺めている。
ああ、もう言おう。
「もう大丈夫だよ。わたし、もう何も見えなくなったよ。だからわたしも頑張るね」
茜もぽかんと、立ち尽くす。
優しい茜は、より葵に見えている世界が酷くなったことを悲しむだろう。心配するだろう。結果として茜を騙してしまうような、嘘でもいい。
古びた棚の上で埃をかぶっている写真立て。そこに飾られた2人の微笑みは遠い昔のことだけれど、葵はまた戻りたかった。
もう一度自分の足で生きられると、言いたかった。
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次の朝が来る。葵は珍しく、茜より早く起きた。カーテンを開ければ、切り取られた空の色は澄んだ青だった。久しぶりのことだった。
もう全部不意になったっていい。こんな日なら、彼らに連れて行かれたって、なんにも気にしないだろう。昨日の言葉が曇る。自分が暮らしたいのかそうでないのか、葵は結局分からない。
バラ売りされていた孤独を適当に詰め合わせたみたいな家具一式も、葵の思考も、全部団地A棟の狭い空に吸い込まれてしまいそう。そんな、すっきりと晴れた日のことだった。
暮しが滑った。
「おはよう、葵ちゃん」
身支度を既に整えて、家事を淡々とこなす葵の元へ、茜は伸びをしながらやってくる。
「おはよう」
それから葵は、茜に早速働きに出ることを伝えた。条件を緩くしたらすぐに見つかったので、もう既に目処は立っている。
「それやったら、もう大丈夫やな」
へらりと笑う茜は、大きく欠伸をする。
「おかしいわ。さっきまで寝てたはずなんやけどな」
「疲れが溜まってるんだよ」
「お昼寝しててもええ?」
「うん」
そう言って、茜は椅子に腰かけた。ソファーでもなく布団でもなく、なぜか硬い椅子にもたれかかって、茜は目を瞑る。
「安心やなあ」
ひとりごちた茜は、それ以上何も喋らなくなった。
「お姉ちゃん?」
しばらく経って、得も言われぬ不安にかられた葵は、茜の眠る椅子を揺らす。
茜は気づかない。どく、どくと鼓動する心臓がやけにうるさい。揺らす、揺り起こす、意識を確かめる。茜はそれでも起きない。
恐る恐る、うろ覚えだが脈を測る。熱が引いていく。茜が弱くなっていく。再び茜に触れて、長い長い時間が経ったあるとき、茜の脈はぱたりと途切れた。
茜が事切れる。
葵は足を滑らせた。息が荒くなった。死因は分からない。単に病院に行っていなかったから、茜の体を蝕む病に気づかなかったのかもしれない。過労なのかもしれない。葵の代わりに、幽霊に連れて行かれたのかもしれない。そもそも、あれは幽霊だったのか。幻覚ではないのか。葵に茜の死因が分かるだけの知識はない。
だから、現実=幻想な気がした。本当の団地A棟はこんなに良い天気ではなくて、いつもの張り付いた曇り空なんだ。だから、2人は今も暮らしている。幻想から覚めるためには、どうすれば良いのだろう。これもまた分からない。
つましい暮しは、当たり前のように続いていく。電気と水道とガス代が1人分減るだけだ。
お腹が空いた。汗をかいて服が気持ち悪い。
本能的に苦しくなる。けれど、何かをしようという気は起きない。
茜がいなくなったとて、暮しが続くことは変わらない。暮しを維持するために要求されるものは少なかったはずなのに、前提を忘れていたようだった。初めから自分の足で立とうとしていたわけではなかった。
手当たり次第に部屋を荒らす。あらゆるものを引っ張り出す。アルバムから写真を抜き取って、部屋中に撒いている。ベランダに撒いている。
黄ばんだ茜との思い出が、団地A棟の青く狭い空によく映えた。そのままひらひらと落ちていって、葵の目には映らなくなった。
終わったことはもう見ずに、暮しを続けましょう。