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白猫の夜
ぎーこ、ぎーこという、私がブランコを漕ぐ音が静かな公園に響いた。ここにはいつも人がいない。数年前からずっとそうだった。かと言って何か特別な問題があるわけでもない。ただ、近くにもっと大きくてもっと遊具が沢山あってもっと綺麗な公園があるだけだ。大抵の子はそこにいくので、このどこかさっぱりしない公園で誰かが遊んでいるところを見たことがない。私はそんな空気が好きだった。居心地が良かった。
草が揺れる音がして顔を上げた。にゃんと鳴きながら白猫が出てきた。不安定な影を揺らし私の足に絡みついてくる。手を伸ばす。触れるとゴロゴロという低い音を出した。しばらくそうしていると、不意に遠くから子供の声が聞こえてきた。それでもう夕陽が沈みそうなことに気づく。ブランコから立ち上がり、白猫に手を振り公園を出る。白猫が寂しそうににゃぁと鳴いた。が、すぐに草の中に戻っていったので、本当は寂しいなど思っていないのだろう。
小石を蹴りながら歩いていると、家が見えてきた。二階建ての一軒家。私の家。自然と足が早くなる。ランドセルから鍵を取り出し、ドアを開けた。無表情な家の中には冷たい空気が漂っていた。階段を上がり自分の部屋に入る。勉強机に向かった時、ドアが開く音が聞こえた。お母さんが帰ってきたのだろう。心が暗くなる。もうすぐお父さんも帰ってくる、その事実が、少し重い。
夜8時ごろ、リビングからはお父さんとお母さんの声が聞こえてきていた。言い争っている声だった。なんの話かはわからない。お父さんが帰ってくる前に夕飯を食べておいたおかげで、あの空気の中に入っていく必要がないことに安心する。安心する上で、それでも心が痛い。さっき食べたご飯が胃の中から込み上げてきそうだった。何を言い合っているのかはわからない。でもきっと辛い言葉を使っている。数年前はいつも笑っていたのにと、幸せだった日々を思い出す。あの頃に戻りたい。毎日考えることだった。私は静かに自室のドアを開け、階段を降りた。リビングの扉は閉まっていたけれど、光と音は漏れ出ている。もう黙ってくれというお父さんの怒鳴り声が聞こえる。お前と話すのが1番ストレスなんだよ。じゃあ帰ってこないでよ。俺だってこんな家に帰ってきたくないよ。お父さんとお母さんの応酬は続く。もう嫌、歩の世話も家事も全部私1人じゃない。お母さんの叫ぶような声が耳をつんざく。今までの私とお母さんとの会話は対等なものではなく、私がお世話されていただけの一方的なものなのだと知った。くちびるが震えた。それでも音を立てないように、玄関へ向かった。靴を履いて家を出た。外はもう暗く、寒い。月は雲に隠れて見えなかった。私は歩いた。明確な目的地があるわけではなかった。何も考えずに、けれど体は意思を持っているかのように迷わず動いていた。公園に、きていた。つい数時間前にいた小さな公園。名前もわからない公園。きっと名前なんてない公園。誰も気に留めない公園。ブランコに腰掛けた。揺らしてみた。ぎーこ、ぎーこ。相変わらず錆びついた音。その音が合図だったかのように、白猫が現れた。ぴょんと膝の上に乗ってきた。いつもは足に絡みついてくるだけなのに。白猫の体は暖かかった。ゆっくりと背中を撫でた。白猫は喜ぶわけでもなく嫌がるわけでもなく、ただそこにいた。何度も何度も撫でているうちに、涙が出てきた。多くはなかった。一粒だけだった。その時だけ、白猫が鳴いた。いつもより大きな声で鳴いた。
どれほどの間そうしていたのか、明確な時間はわからないが、夜は確実に深くなっていた。雲に隠れていた月がいつの間にか顔をのぞかせていた。突然、白猫が立ち上がり、私の膝を降りた。ずっと撫でさせてくれていたのに、やはり猫というのは機嫌が変わりやすいものなのだろう。寂しさを抱えながらブランコを足で軽く揺らす。音は鳴らなかった。静寂に包まれていると、なんの前触れもなく、声が聞こえた。「歩!」私の名前を呼ぶ声だった。肩が跳ねた。反射的に声の方を向いた。息を切らしたお母さんが立っていて、体が固まる。どうしてと思った。お母さんは何も言わずに歩いてきて、私を抱きしめた。強く、強く抱きしめた。苦しさもあった。驚きもあった。困惑もあった。安心もあった。どうしてかはわからないけれど、涙が溢れた。遠くの方から、猫の鳴き声が聞こえた。月明かりが私たちを照らしていた。