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|早矢《はや》の迷い ――届かない弦音――
2026年5月。連休が明けたばかりの|県立青葉高校《けんりつあおばこうこう》の弓道場は、新緑の匂いと、微かな焼香のような|松脂《まつやに》の香りに包まれていた。
「|長谷川《はせがわ》、|狙《ねら》いが浮いているぞ」
顧問の鋭い声が、静まり返った道場に響く。
|長谷川湊《はせがわみなと》は、左手に握った|弓《ゆみ》の重みに、じっとりと汗が滲むのを感じていた。
|会《かい》――矢を引き絞り、放つ直前の静止。わずか数秒のその時間が、湊には永遠の|砂時計《すなどけい》のように長く感じられる。的までは二十八メートル。その先にある白と黒の円が、今の湊には針の穴ほどに小さく見えていた。
(当てなきゃいけない。外せば、団体戦の枠から外される)
焦りが指先に伝わる。右手の||弽《ゆがけ》が弦の圧力を支えきれず、限界を迎えた。
――|離《はな》れ。
放たれた矢は、鋭い音を立てて空を切ったが、無情にも的の数センチ上を通り過ぎ、背後の|安土《あづち》の砂に虚しく突き刺さった。
「……あ」
情けない声が漏れた。背後から、女子部員たちの視線が突き刺さる。その視線の中心に、彼女――|佐倉陽葵《さくらひまり》がいることを、湊は意識せずにはいられなかった。
陽葵は、湊の幼馴染だ。そして今、この弓道部で最も「美しい射」を放つ次期部長候補でもある。
湊が弓を引くのを止め、肩を落として射場を下がると、入れ替わりで陽葵が|射位《しゃい》に立った。
彼女が弓を構えた瞬間、道場の空気が変わった。
ピンと張り詰めた静寂。陽葵の|凛《りん》とした横顔は、2026年の現代を生きる女子高生というより、古い絵巻物から抜け出してきた|女武者《おんなむしゃ》のような気高さがあった。
――|弦音《つるね》。
パァン、と高く澄んだ音が鼓膜を震わせた。
放たれた矢は、吸い込まれるように的の真ん中を|射《い》抜いた。
「よし」
陽葵は表情一つ変えず、|残心《ざんしん》――放った後の姿勢を数秒保ち、静かに弓を下ろした。その一連の動作の完璧さに、湊は胸の奥がチリチリと焼けるような、憧れと劣等感の混じった痛みを覚えた。
練習後の片付け中、湊は道場の裏手で矢を拭いていた。
「湊」
背後から声をかけられ、肩が跳ねる。陽葵だった。彼女は部活着の上からパーカーを羽織り、スマホの画面を気にしながらこちらを向いている。
「今日の射、全然ダメ。迷いすぎ」
「……わかってるよ。本番に弱いのは昔からだろ」
湊がぶっきらぼうに返すと、陽葵は溜息をつき、自販機で買ったスポーツドリンクを湊の頬に押し当てた。
「冷たっ!」
「頭冷やしなよ。湊はさ、的に当てようとしすぎ。それじゃあ、本当に大切なものは射抜けないよ」
「大切なものってなんだよ」
「それは……自分で考えなよ。鈍感」
陽葵はそれだけ言うと、ポニーテールを揺らして去っていった。
湊は、手の中の冷たいペットボトルを見つめた。
幼い頃は、一緒に木登りをして、一緒に転んで笑っていた。なのに、弓道という「道」を歩み始めた瞬間、彼女の背中は見上げるほど遠くなってしまった。
スマホの通知が鳴る。2026年、部活の連絡網もすべてSNSだ。
『来月の新人戦、団体戦メンバー発表』
そのリストの一番最後、|落《おち》――最後の一射を担うポジションに、湊の名前があった。
そのすぐ上には、陽葵の名前。
湊は、自分の震える右手をじっと見つめた。
的に当てることよりも、隣を歩く彼女の横顔を真っ直ぐ見ることの方が、ずっと難しい。
(言えないんだ、陽葵。お前の隣に立つのに、どれだけの覚悟がいるか)
夕暮れの校舎に、二度目の練習を始める部員たちの弦音が、遠く、鋭く響き渡っていた。
三話構成です!続きもお楽しみに!