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第6話:予兆の鳴動
愛菜が走り去った後の廊下には、静寂だけが重く沈殿していた。
壁に叩きつけられた真蓮の拳からは、薄く血が滲んでいる。だが、その痛みさえ今の彼には、愛菜の白い肌にあった「指の跡」に比べれば無に等しかった。
(あいつ……どんな思いで毎日……)
いつもならクラスの中心で笑っている真蓮だが、この日の放課後は誰の誘いも断り、一人で校門を出た。
向かったのは、愛菜が消えていった「あの雨の日の通学路」だ。
愛菜の家がどこにあるのか、彼は知らない。
だが、あの時彼女が「傘を受け取ったら怒られる」と、死ぬほど怯えた瞳で言った場所。そこには、愛菜の心を壊し続けている怪物が潜んでいる。
「……絶対、見つけ出してやる」
真蓮は、自分の胸の鼓動が激しく波打つのを感じていた。
それは恋心という甘いものではなく、理不尽な悪意に踏みにじられている「愛」を、力ずくで奪還しようとする戦士の鳴動(めいどう)だった。
その頃、愛菜は暗い自室で震えていた。
袖を捲り、鏡に映る醜い痣を見つめる。
(秋葉くんに、見られちゃった……。嫌われたかな。気持ち悪いって、思われたかな……)
本当は、彼に助けてほしかった。
けれど、「助けて」と言えば、真蓮を巻き込んでしまう。あの真っ直ぐな瞳を、叔父の毒で汚したくない。
愛菜は暗闇の中で膝を抱え、ただ嵐が過ぎるのを待つように息を殺した。
しかし、その夜。愛菜の「静寂」は最悪の形で破られることになる。
ドォォォォン!!
一階で、何かが激しく叩きつけられる音が響いた。
叔父が、いつもより早く、そしていつもより深く酔って帰ってきたのだ。
「……愛菜ぁ!! どこだ、愛菜!!」
地響きのような怒鳴り声。愛菜の心臓が、恐怖で跳ね上がる。
階段を上がる、重く、不規則な足音。
愛菜は部屋の鍵を閉めようと手を伸ばしたが、その前に扉が乱暴に蹴破られた。
「ヒッ……!」
「お前……今日、男と一緒にいただろう。近所の奴が見てたぞ。色気づきやがって……!」
酒の臭い。どす黒い殺気。
叔父の振り上げられた拳が、月明かりに照らされて光った。
――愛菜が絶望に目を閉じた、その時。
カシャン、と庭の柵を飛び越える音がした。
「――おい!! 野平愛菜の家は、ここで合ってんのか!!」
夜の静寂を切り裂く、場違いなほど大きな、そして誰よりも聞き馴染んだ、情熱的な声。
窓の外。雨上がりの庭に、赤髪を逆立てた真蓮が立っていた。
彼の瞳は、怒りに燃える炎のように赤く輝いている。
それは、絶望の淵にいた愛菜にとって、初めて「自分を見つけに来てくれた」光の鳴動だった。
🔚