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名前の温度
放課後の教室は、夕陽に包まれていた。
窓から差し込むオレンジ色の光が、黒板に影を落とし、机や椅子が長く伸びた中ひとりで座っていた。
部活動は終わったのか校内に人気は感じない。
課題だった数学のプリントをめくる手が、わずかに震える。
授業のノートを見返しても、教科書を何度読んでも、どうしてもわからない問題があった。
「……聞くしかない」
自分にそう言い聞かせるように呟いて立ち上がる。胸の奥が妙にざわざわしていた。
職員室へ向かう廊下。
夕方の校舎は静かで、足音がやけに大きく響く。
瀬野先生は文芸部の顧問らしい。一応所属はしているから気まぐれで予定表はもらうが今日活動しているのかすらわからない。まだ学校に残っているのか、どこにいるのかはさっぱり分からない。
職員室、2年棟、体育館、一通り見に行ったが全く姿は見えなかった。
もしかして、と思ってそっと文芸部の部室を覗くと誰もいない静かな部室の奥に先生はいた。
上ボタン2つと袖口が開けられた白いワイシャツ。
シャープペンを指に挟んで、何かを読み込んでいる横顔。
静かで、無駄のないその姿に一瞬時が止まったように、言葉を飲み込んだ。
やっぱりやめようか。
その考えが浮かびかけたとき
「黒崎さん?」
知らないはずの私の名前を先生が知っている。
それは、不意に心臓が一気に跳ね上がる合図だった。
呼び止めたわけでもないのに、なぜかこちらに気づいていた。
どうして。いや、それよりも、なんで、
「え……」
不意に名前を呼ばれるのは、どうしてこんなにも息が詰まるのだろう。
瀬野先生は、気怠そうに椅子を静かに回してこちらを向く。
「何かあった?」
淡々とした声。でも、どこか、柔らかさがあった。
冷たくはない。けれど、あたたかすぎるわけでもない。
言葉の端に少しだけ混ざる温度。それが、心に優しく滲んだ。
「あの、授業のここ……」
プリントを差し出す手がわずかに震える。
瀬野先生はそれを受け取り、目を通した。
「ここの考え方だけど、」
必要な情報だけを必要な順で必要なだけくれる。
雑談も変な優しさも全くない、淡々としていて的確で分かりやすい解説だった。
けれどその中に、無機質なものはなかった。
「なるほど、、ありがとうございます」
「黒崎さん、授業真剣に聞いてくれてるよね」
予想していなかった言葉が、ふいに投げかけられる。
「えっ、あ、はい……」
戸惑いながら顔を上げると、先生はほんの一瞬だけ、笑った。
本当に一瞬で、それはまるで春の風のようだった。
吹いたかどうかもわからないほどの、淡い表情。
私の中で何かがすっと、溶けた気がした。
まだ名前しか知らない。
でも、心がその名前に少しずつ、寄っていく音が聞こえた。
「文芸部員なんでしょ?
いつでも待ってるよ 」
悪戯っぽく言うそんな表情は私の心を苦しくさせる。
「タイミングが合えば行きたいと思ってます」
「ありがとうございます、失礼しました」
部室を出るとき胸の奥をそっと押さえた。
さっき聞いた自分の名前。その響きが、まだ耳の奥に残っていた。
自分の名前なのに自分のものではないような。
同じ名前なのに全く違う新しい宝物のような。不思議で暖かい感覚だった。
名前を呼ばれただけなのに。
まだ出会って数日しか経っていないのに。
そう思いながら、夕陽が差す廊下を静かに歩き出した。
明日は温度が上がりそう。