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く
アビス・マーティン
ファントムハイヴ邸・執務室。
深夜。部屋を照らすのは、デスクの上の頼りないランプの光だけ。
シエルは椅子の背もたれに深く体を預け、じっと天井を睨みつけていた。
「——ジェーン・ドゥ、か。」
昼間にあの奇妙な伯爵、アイリスが残していった言葉。存在しない名無しの異形。
自分と同じ、孤独の穴。
コンコン
「坊ちゃん。お求めの資料が揃いました。」
音もなく入ってきたセバスチャンが、デスクの上に厚みのある古い書類の束を置く。
「早いな。」
「ふふ、これでもファントムハイヴ家の執事ですから。」
シエルはすぐに書類を手に取り、ページをめくる。だが、書類に記載された「事件の記録」を見て、その目がピタリと止まった。
「、、、これは、どういうことだ?」
「ええ。一年前、コーラルウェル伯爵家は違法取引の縺れから、一族や使用人に至るまで、一晩で文字通り『皆殺し』にされています。……ただ一人、アイリス・コーラルウェルを除いて。」
書類に並ぶ、生々しい事件の調書。
あの地獄のような凄惨な現場から、12歳だったアイリスだけが、五体満足で普通に生き残っていた。
「生き残り、か。……あの悪魔の力で、あいつは地獄から這い上がってきたんだな。」
「おそらく、その通りでしょうね。」
セバスチャンが影のようにシエルの背後に立ち、冷たい微笑を浮かべる。
「あちらの悪魔、侍女頭のメイベルは、その惨劇の夜に彼女と契約したのでしょう。そして、生き残った幼い主人の手を引き、裏社会の力を使い、たった一年でコーラルウェル伯爵家をここまで立て直した。実に見事な手際です。」
シエルは思わず自身の右目を抑える。
自分もまた、あの忌まわしい日から悪魔の手を借りて復讐のために生き残り、当主の座に就いた。
境遇が、あまりにも似すぎている。
だが、書類のさらに奥、アイリスの幼少期の記録に目を落とした瞬間、シエルの顔が険しくなった。
「……なんだ、この出生の記録は。」
「ええ。アイリス・コーラルウェルには、男であり女でもある特異な肉体を持って生まれたがゆえに、出生直後から存在を消され、地下に幽閉されていたという噂があります。家族からも『名無しの異形(ジェーン・ドゥ)』として扱われていた、と。」
「……異形、か。」
シエルの脳裏に、アイリスのあの「純白の穢れなき髪」と、拒絶されてもなお本気で首を傾げていた無邪気な瞳がフラッシュバックする。
自分と同じだと思っていた。
だが、違った。
自分は復讐のためにすべてを捨てたが、あいつは最初から、家族の愛すら与えられていなかったのだ。あの惨劇の夜、全てを失ったのではなく、むしろ「当然の報いだ」と笑って、悪魔と手を取り合って自分の足で歩き出した。
「面白いね。」
「ただの有象無象かと思えば、僕以上にしぶとい怪物だったわけだ。」
シエルは書類を乱暴にデスクに放り投げ、不敵に笑った。
「セバスチャン。コーラルウェルが次に仕掛けてくる商談、受けて立つ。あの生き残りの怪物が、僕に何を望んでいるのか、直々に暴いてやる。」
「御意。……ですが坊ちゃん、一つだけ忠告を。」
セバスチャンが少しだけ困ったように、眉を寄せる。
「何だ?」
「あちらのメイド、なかなか執念深いタチのようでして。先ほどから屋敷の結界の周りに、彼女の『カーネーションの使い魔』がうじゃうじゃと群がっております。少々、庭の掃除が面倒になりそうです。」
「チッ、ストーカーめ。さっさと追い払え、セバスチャン!」