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(上)二
その時間、移動教室の授業の準備をしていた。
「ねぇ……玲、」
玲が友達と話していない間を見計らって、私は玲に話しかけた。
「どうしたの?」
「ちょっと体調悪くって。次の時間、遅れるかもしれない。先生に言っておいてくれる?」
もちろん、体調が悪いなんて嘘だ。
「分かった。伝えとくね。それにしても、具合が悪いって、大丈夫?」
玲の目は本当に心配しているように見える。何とか、不自然なところがないように言えたようだった。
ひとまずトイレに駆け込む。
個室に閉じこもってそう経たないうちに、キーンコーンカーンコーンというチャイムが聞こえてきた。
ふう、と息を吐いて、念の為音を立てないようにひっそりと個室のドアを開けて、トイレから出る。
廊下を歩きながら、ぎゅっとポケットの中のカッターナイフを握りしめた。バクバクと心臓がうるさい。
教室に入ると、真っ先に玲の机が目に入り込んできた。散らかっておらず、整然としている。その主を表しているようだった。冷え冷えとした熱湯が沸き出るような感覚になる。
机の前まで来て、おもむろに中の物を机の上に引き出した。
だいたいの物を引き出し終わる。見ると、一番上に置かれたのは数学のノートだった。そっと手に取って、パラパラとページを繰る。
一言で言うなら、理路整然、という言葉が相応しいだろう。そこに書かれた数式、解き方、全てが美しかった。
薄く嗤った。私では到底、こんなものは書けない。
ずっと握りしめていたカッターナイフをポケットから取り出した。ノートの開かれたページに刃を置き、一回、浅く呼吸する。
手に力を込めて引き裂くと、綺麗に紙が|分《わか》たれた。玲の持ち物が、玲が書いたものが見事に裂かれる。
スッと、氷点下の水のような何かが私の胸の内を走る。耳で聞き取れるほど、鼓動がうるさい。
「あははっ」
なぜか、笑いがもれた。何度も、何度も、力を手に込めた。
やっと私が移動教室の授業にやってきたのは、授業が終わる十分前だった。
「川口、おそいぞ」
「すみません」
教師は睨んできたが、私が体調不良だと言っていたこともあったのか、それ以上は詰められなかった。
ふと玲の顔を見ると、相変わらず心配そうな顔をしている。
滑稽だった。体調不良と偽って、幼馴染が何をしていたかなど、きっと何も知らないのだろう。
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たった十分だけの授業が終わった。先に玲たちが戻るのを見て、私も教室に戻る。
玲はどんな反応をしているのだろう。恐ろしく、そしてそれ以上に楽しみで仕方なかった。
ドアをそっと開けて、教室に入った。刹那、目に見えて空気がシンとする。
みんながこっちを見ていた。
一度も一言も言葉を交わしたことがなく、私をいない者のように思っていたであろう子もこっちを見ていた。|蔑《さげす》むような瞳で。
玲は散らかされた自分の机の上をただ見つめている。俯いていて、その表情までは分からなかった。
「何かあったの?」
何事もなかったかのように聞く。
「何かも何も、川口、お前———」
「よせって、福田」
私に詰め寄ろうとするクラスメイトを、玲が腕を掴んで止める。
「よせも何も、絶対これやったの川口だろ……!」
玲の机をバン!と叩きながら怒鳴った。
「そんなことないって。はるかがこんなことするわけない。なあ?」
玲が顔を上げて、私の顔を見つめた。この期に及んで、私のことを信じているのだろうか?
「教室を出るときはこんなことになってなかった。授業中にやられたんだ。ここに最後まで残っていたのは川口だろ!」
「保健室とかに行ってたんだろ、きっと」
何を言っても、玲が私を疑うことをしないと分かったのか、福田は息を吐いて離れていった。
それが合図か、固唾を呑んで見守っていた周りのクラスメイトが自分事に戻っていく。玲も机の上に無惨に散らかされた教科書やノートを片付け始めた。
「はるか、次の授業の準備でもしてきなよ。はるかは絶対こんなことしないって、俺は知ってるから」
その瞳は澄んでいて、一点の曇りも見出せなかった。心の底から、目の前の幼馴染は無実だと、強くそう思っているようだった。
———玲は、人を疑うことも知らないんだ。
私と違って。どす黒いだけの私と違って。性根が腐っているだけの私と違って。ただ幼馴染を厭うことしかできない私と違って———
バリバリと崩れていく音がした。残骸が、破片が銃弾のように刺さっていく。
教室の中を見渡すと、みんな何事もなかったかのように各々のことを再開していた。
少しの間止まっていた時間が、流れ出す。
それに取り残されたのは、私だけ。