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89
テストの点数を見た時、心臓が跳ねた。冷や汗がどっと噴き出した。先生はよくやったなと笑っていたけれど、私の頭浮かんだのは、叱られるという予感だけだった。そして、それは的中した。
「どうしてこんな点数とってきたの!!」
答案用紙を渡して数秒、頬に平手が飛んできた。ぱんっという音が響く。一瞬、息が止まる。少し遅れて、滲むような痛みが頬に広がった。熱い。
「89点って、こんなんじゃいい大学に行けないよ。あんたは…お母さんを裏切るつもり?お姉ちゃんみたいになるつもり?」お母さんは答案用紙をぐしゃりと握り締め、わずかに震えた声でつぶやいた。苦しそうな顔をしていた。私は何も言えなかった。お母さんへの罪悪感と、自分への嫌悪が心を蝕んでいた。視線を足下に落とした。「本当に…出来損ないだね。」お母さんはそこで言葉を止め、重いため息をついた。「しんどい。もう無理。」それが本音だと理解して、心がぞわりとした。見捨てられたと思った。怖かった。私だけはしっかりしないとダメなのに。私だけはお姉ちゃんみたいになったらダメなのに。ごめんなさいと掠れる声で言った。返事はなかった。お母さんは答案用紙を私の真上にもってきた。反射的に顔を上げると、その瞬間、答案用紙がビリビリに引き裂かれた。やけにゆっくりと迫ってくるそれの一部が視界に映った。くすんだ色をしていた。
「ゴミよ。こんなもの。」
冷徹な声だった。下唇を強く噛み締めすぎて、血の味がした。「ゴミを量産するのはいい加減やめなさい。」続いた言葉に、胸が潰れそうになった。私の今までの人生全てがゴミだと言われた気がしてならなかった。涙が落ちた。頬をつたる感触がやけに重たい。お母さんは何も言わずにキッチンに歩いた。これから晩御飯を作るのだろう。顔をあげ、涙で滲む視界のまま、お母さんの背中に視線をぶつけた。その後、しばらく動けなかった。台所から、いつもより少し乱れた包丁の音が聞こえてきた。野菜の青臭さが音に重なって、我に帰った。私は破かれた答案用紙を回収して部屋に戻った。パズルのようにひとつひとつ合わせ、テープで繋げた。テープがよれた。その度やり直した。紙はボロボロになっていった。それでもやっていると、やがて、私の目の前には元の答案があった。どうしてゴミ箱に捨てずに繋ぎ合わせたのか、私にもわからなかった。でもそこには89という数字が確かにあって、確かに輝いていた。そのことが、少しだけ嬉しかった。
翌日、学校から帰った時、家の中はやけに静かだった。お母さんの姿が見当たらないのだ。それは単純に外に出ているだけだからかもしれないが、その上で異質な気がした。違和感を抱きつつ自分の部屋に向かっていると、ドアが開いていることに気づいた。部屋の中の様子を伺う。部屋の真ん中、お母さんがこちらに背を向け、静かに立っていた。その手には、不恰好でくちゃくちゃの答案用紙。昨日私が繋ぎ合わせたものだ。「お母さん。」私が声をかけると、お母さんがゆっくりと振り返った。その顔は怒っているわけでもなく悲しんでいるわけでもなかった。なのに腕にブワッと鳥肌がたった。皮膚がピリピリと痺れた。指先から感覚が失われた。この体は何を感じ取ったのだろう。お母さんは口を開いた。
「バカみたいだわ。」少しがさついた声だった。その言葉が落ちるまでに、数秒かかった。誰に向けたものなのか、わからなかった。わざわざ答案用紙を繋ぎ合わせるなんてことをした私へのものかもしれないし、そんな私に構っていたお母さん自身へのものかもしれない。お母さんは答案に視線を落とした。少しの間だけそれを見つめたあと、勉強机に置き、部屋を出ていった。部屋には何も残っていなかった。しばらく、心臓が震えていた。いや、全身のどこかの震えが心臓に伝わっているだけなのかもしれなかった。お母さんの表情がまだ視界の奥に残っていた。ああ、本当に見捨てられたんだと思った。部屋に足を踏み入れた。空気が重かった。答案を手に取った。右上に書かれている数字は、昨日のそれと同じだけれど、どこか違う。数字に書かれていない何かが滲んでいた。89。破かれ、繋がれ、机に置かれ、それでもどこにも行かない89。100ではないそれが、私だった。89を引き出しにしまった。外に見せるには、まだ早い。でもいつかきっと、これを誇らしいと思える日がくる。そんな予感がした。