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1話 世界で一番遠い「初めまして」
新しいストーリー
全50話(予定)
第1話
それではスタート!
第1話:世界で一番遠い「初めまして」
1. 部屋という名の深海
中学2年生の秋。るりの世界は、わずか六畳の自室という「深海」の中に沈んでいた。
窓には、光を一切通さない遮光カーテンが、まるでもう一枚の壁のように立ちはだかっている。部屋の隅に積み上げられた教科書は、数ヶ月前のページで止まったまま、薄く埃を被っていた。
「……あ」
乾いた喉から、小さな吐息が漏れる。
るりは、ベッドの上で丸まりながらノートパソコンを開いた。液晶画面の青白い光が、血色の薄い彼女の頬を冷たく照らす。
半年前。学校という場所が、急に「音の多すぎる巨大な怪物」に見えてから、彼女はそこへ行けなくなった。
最初は、誰かが自分の悪口を言っているような気がした。次は、教室の椅子の軋む音が耳に刺さった。やがて、制服に腕を通そうとすると、喉の奥がギュッと締まって呼吸ができなくなった。
親は最初、心配して部屋のドアを叩いたが、最近ではただ黙ってドアの前に食事を置いていく。
「どこか、別の場所……」
震える指で検索欄に入力する。
現実の自分を知っている人が誰もいなくて、でも、自分の言葉だけは届く場所。
たどり着いたのは、**『コトノハ・ガーデン』**という小さなSNSサイトだった。
「あなたの心の種を、言葉に変えて植えてみませんか?」
淡い水彩画のようなデザインのトップページ。そこには、学校のランクも、不登校という肩書きも関係ない、透明な世界が広がっていた。
2. 「このは」の誕生
新規登録の画面で、るりの指が止まった。
本名を入力する勇気なんてない。今の自分とは全く違う、でも、どこか自分の一部であるような名前。
ふと、机の端にある小さな観葉植物が目に入った。水やりを忘れ、一枚だけ残った葉が、窓からのわずかな隙間風に揺れている。
「……このは」
キーボードを叩く。
【ユーザー名:このは】
【性別:女性】
【学年:中学2年生】
「よし……」
プロフィールを埋めると、真っ白な投稿画面が現れた。
何を書いていいか分からない。でも、何かを外に放り出さないと、自分が内側から壊れてしまいそうだった。
彼女は、祈るような、あるいは叫ぶような気持ちで、短い一行を打ち込んだ。
【タイトル:初めまして!】
「どこかの誰かさん、こんにちは。今日からここに、言葉の種を植えに来ました。よろしくお願いします」
「投稿」ボタンをクリックした瞬間、耳の奥で「トン」と音がした気がした。
それは、半年間止まっていた彼女の時計が、再び秒針を刻み始めた音だった。
3. オレンジ色の通知
投稿してから、わずか数分後。
画面の右上に、小さなオレンジ色の丸がついた。
「えっ……?」
心臓が跳ねる。叩かれるかもしれない。「学校に行けよ」なんて冷たい言葉が飛んでくるかもしれない。るりは、布団を頭まで被り、隙間から画面を覗き込んだ。
ピーナッツサイン:
「初めまして、このはさん!新しい芽を見つけて飛んできました。俺……、私、ピーナッツサインって言います。よろしくね!ここはいい場所だよ。空の色とか、今日食べたお菓子の話をするだけでも、誰かが『いいね』って言ってくれるんだ」
「ピーナッツ……サイン?」
思わず、るりの口元がわずかに緩んだ。
「私」と言い直しているところを見ると、相手も女の子なのだろうか。
その文面からは、るりが恐れていたトゲのようなものは一切感じられなかった。むしろ、ひだまりのような、どこかお節介で温かい温度が伝わってくる。
るりは、おずおずと返信を打ち始めた。
「ありがとうございます。ピーナッツサインさんは、ここの常連さんなんですか?」
4. 繋がった糸
それから、一時間ほどやり取りが続いた。
ピーナッツサインは、同じ中学2年生だと言った。彼女もまた、学校生活に少しだけ疲れを感じていること。でも、部活(テニス部らしい)が好きで、なんとか毎日をやり過ごしていること。
ピーナッツサイン:
「このはさんは、どんな色が好きなの?私は、夕焼けのオレンジ色かな。明日も頑張ろうって思えるから」
このは:
「私は……深海みたいな、深い青色が好きです。静かで、誰も邪魔しない場所の色だから」
そんな会話をしているうちに、るりは不思議な感覚に包まれた。
部屋の空気は相変わらず冷たいけれど、胸の奥だけが少しだけ、お湯に浸かった時のようにじんわりと熱い。
名前も顔も知らない。でも、この世界のどこかに、自分の言葉を待ってくれている女の子がいる。
「このはさん、また明日も話そうね。おやすみなさい」
最後に届いたその言葉を、るりは何度も読み返した。
パソコンを閉じ、真っ暗になった部屋。
けれど、カーテンの隙間から漏れる月明かりが、さっきより少しだけ明るく見えた。
るりは、久しぶりに自分の手足の指先まで意識が通っているのを感じた。
「明日も、ログインしよう」
そう心に決めて目を閉じる。
彼女はまだ知らない。
この「ピーナッツサイン」という少女が、明日、自分の家の前を通りかかる、同じクラスの**サインさんだということを。
そして、この「初めまして」という一言が、やがて二人の運命を大きく変え、彼女を深海から引き上げる、一本の光の糸になることを。