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永遠の今日の中で老いる私
朝、目を覚ますたびに、時計は午前七時を指していた。
窓の外には、昨日と同じ青空があった。
隣の家の屋根には、昨日と同じ黒猫が座っている。
向かいの家からは、昨日と同じように味噌汁の匂いが漂ってくる。
そして、スマートフォンには昨日と同じ日付が表示されていた。
十月五日。
最初は、故障だと思った。
次の日も。
その次の日も。
一週間経っても、十月五日だった。
一か月経っても。
一年経っても。
世界は、十月五日のまま動かなかった。
不思議なことに、誰もそれを不思議に思わなかった。
母も、会社の同僚も、駅員も、コンビニの店員も、みんな昨日とまったく同じ言葉を口にした。
「おはようございます」
「今日もいい天気ですね」
「いってらっしゃい」
そして、夜になる。
眠る。
目を覚ます。
十月五日の朝になる。
何も変わらない。
ただ一人を除いて。
私だけが、少しずつ老いていった。
*
最初に気づいたのは、髪だった。
鏡の中に白髪が一本あった。
抜いた。
翌朝には三本になっていた。
一週間後には十本。
一か月後には、前髪の半分が白くなっていた。
それでも私は笑っていた。
こんなこともあるのだろう、と。
世界が壊れているのだから、自分の身体がおかしくなったところで不思議ではない。
そう考えた。
しかし、十年目には笑えなくなった。
世界は十月五日のまま。
私は四十歳になった。
二十年目には五十歳。
三十年目には六十歳。
町は何も変わらない。
公園の時計は、三十年前から同じ時刻で止まっている。
桜の木は、春になっても咲かない。
蝉は鳴かない。
雪も降らない。
季節というものだけが、世界から消えていた。
なのに私の身体だけは、季節を数えていた。
六十年。
七十年。
八十年。
鏡を見るたび、そこにいる人間が私なのか分からなくなった。
皺だらけの顔。
曲がった背中。
震える指。
そして、いつまでも二十歳のままの世界。
ある日、私は母の家へ行った。
「お母さん」
呼びかける。
母は台所に立っていた。
昨日と同じ服。
昨日と同じ髪型。
昨日と同じ顔。
母は振り返って笑った。
「おかえり。ご飯、できてるわよ」
私は泣いた。
母は何も変わっていない。
私が老いていくことにも気づいていない。
私は百歳を超えていた。
それでも母にとっては、私は昨日と同じ息子だった。
「俺、もう……こんな歳になったよ」
「何を言ってるの?」
母は笑った。
「あなたはまだ二十歳でしょう?」
その瞬間、私は気づいた。
母は私を見ていない。
昨日の私を見ている。
この世界では、今日に起きたことしか認識できないのだ。
明日が来ないから。
昨日も存在しないから。
誰も、時間の経過を記憶できない。
ただ一人。
私だけが覚えている。
*
私は時間について調べ始めた。
図書館へ行った。
しかし、本の内容も昨日と同じだった。
新聞も同じ。
テレビ番組も同じ。
インターネットの記事も同じ。
何度検索しても、世界は十月五日から一歩も進んでいない。
そんなある夜。
私は、図書館の地下で一冊の本を見つけた。
表紙には題名がなかった。
ページを開く。
そこには、私の名前が書かれていた。
生年月日。
家族構成。
これまでの人生。
そして、最後のページにはこう記されていた。
――本日、午後十一時五十九分。
――あなたは「今日」に食べられる。
私は本を床に落とした。
そのときだった。
「ようやく見つけたね」
背後から声がした。
振り返る。
そこには、少女が立っていた。
十歳くらいに見えた。
白いワンピース。
裸足。
そして、目がなかった。
「誰だ」
「今日だよ」
少女は答えた。
「……何?」
「あなたたちが一日だと思っているもの」
少女は笑った。
「本当は、生き物なの」
*
少女の話は、馬鹿げていた。
時間は川ではない。
時計でもない。
流れるものですらない。
時間には腹があり、歯があり、そして飢えがある。
毎晩、人間の「明日」を食べることで生きている。
ところが、何十年も前に「今日」という時間が病気になった。
明日を生み出せなくなったのだ。
だから、世界は十月五日から進めない。
「じゃあ、どうして俺だけ老いる?」
少女は答えなかった。
ただ私の手を取った。
その瞬間、私は見た。
巨大な何かが、空の向こう側にいた。
それは時計のようでもあり、巨大な胎児のようでもあった。
無数の目を閉じたり開いたりしながら、世界を抱えている。
その腹の中には、無数の「今日」がいた。
そして、一つだけ異様に大きな今日が、私を見つめていた。
「あなたはね」
少女が言った。
「明日になるはずだった人なの」
「……何?」
「あなたが生まれた日は、本当は昨日だった。でも、その日の夜に時間が死んだ」
少女は続けた。
「だからあなたは、世界から一日だけ取り残された」
私は理解できなかった。
「じゃあ、俺は何なんだ」
「余り物」
少女は笑った。
「時間が食べ損ねた人間」
*
午後十一時五十九分。
私は駅前に立っていた。
町には誰もいない。
信号は青。
電車は来ない。
風も吹かない。
空には月が浮かんでいる。
私は少女に言われた。
「あと一分で、今日があなたを食べる」
「どうすれば助かる?」
「明日を作ればいい」
「どうやって?」
少女は私の胸を指差した。
「あなたの中には、まだ明日がある」
私は笑った。
百歳を超えた老人が、明日を持っている。
そんな馬鹿な話があるか。
しかし胸に手を当てる。
心臓が鳴っている。
その奥から、何かが聞こえた。
秒針の音。
いや。
泣き声だった。
赤ん坊のような、小さな泣き声。
「それを出して」
少女が言う。
「そうすれば、明日が生まれる」
「どうやって?」
「死ねばいい」
時計が十一時五十九分五十秒を指した。
私は笑った。
もう選択肢などなかった。
ここまで生きた。
明日を見たかった。
たった一度でいい。
十月六日を見たかった。
私は目を閉じた。
そして、自分の胸に手を入れた。
*
目を開ける。
朝だった。
窓から光が差し込んでいる。
時計を見る。
午前七時。
スマートフォンを見る。
日付を確認する。
十月六日。
私は笑った。
涙が出た。
ようやく。
ようやく明日が来た。
私はベッドから立ち上がった。
鏡を見る。
そこには、二十歳の私が映っていた。
黒い髪。
若い顔。
健康な身体。
私は笑った。
「戻ったんだ」
その瞬間。
鏡の中の私は笑わなかった。
代わりに、ゆっくり口を開いた。
「違うよ」
鏡の中の私が言った。
「あなたが明日になったんだ」
私は振り返った。
部屋には誰もいない。
もう一度鏡を見る。
そこには、誰も映っていなかった。
私だけではない。
部屋そのものが消えていた。
窓も。
ベッドも。
壁も。
世界も。
真っ白な空間の中で、私は一人立っていた。
遠くから声が聞こえる。
「次は、あなたが今日になる番だよ」
少女の声だった。
私は走った。
どこへ行けばいいのか分からない。
けれど、足元から何かが這い上がってくる。
皺だった。
一本。
二本。
無数の皺が、私の身体を覆っていく。
髪が白くなる。
歯が抜ける。
背中が曲がる。
指が震える。
「嫌だ」
私は叫んだ。
「嫌だ、まだ明日を見たい!」
すると、遠くに扉が現れた。
私は必死に走った。
扉を開ける。
その向こうには、町があった。
人々が歩いている。
車が走っている。
季節がある。
時間が流れている。
私は泣きながら外へ出た。
そして、道行く人に助けを求めた。
「すみません!」
誰も振り返らない。
「誰か!」
誰も私を見ない。
やがて、一人の少年がこちらを見た。
「おじいちゃん」
少年が言った。
「どうしたの?」
私は答えようとした。
けれど声が出なかった。
少年の後ろから、母親らしき女性が歩いてくる。
「今日は十月五日だから、早く帰りましょう」
私は凍りついた。
空を見上げる。
太陽がある。
季節がある。
時計も動いている。
それなのに。
日付だけが、
十月五日。
そして、世界中の時計が同時に、
午前七時を指した。
私はようやく理解した。
明日を作ったのではない。
私は――
新しい「今日」になったのだ。
私が死ぬまで、この日は終わらない。
そして誰かがこの世界から「明日」を取り戻すまで、
私は永遠に今日として生き続ける。
老いながら。
忘れられながら。
毎朝、午前七時に生まれ直しながら。
何千年経っても。
何億年経っても。
私は、十月五日の朝を繰り返す。
そしていつか。
この世界に新しい人間が生まれたとき。
その人間が私を見つける。
私はきっと、その人間に言うのだ。
「明日を作って」
けれど。
その人間は、きっとこう答える。
「明日って、何?」
午前七時。
今日がまた目を覚ます。
私は鏡を見る。
そこには、老人になった私がいる。
そして鏡の中の私は、私より先に笑った。
――今日も、十月五日だった。
ども!KanonLOVEです!
えっと、復活しました!
NOVEL CAKEでは普通に活動してたんですが、短編カフェはサボってました、まじでごめんなさい。
これから前のように毎日投稿は無理でも、週に一回は⋯⋯えっと、やっぱ二週間に一回ぐらいは投稿できるように頑張ります。
では!