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第2話:失われた空白の四十年
「湊……? 嘘でしょ、ねえ」
横たわる彼の顔は、私の知っている二十代の湊ではなかった。目元には深い笑い皺があり、髪には雪が降り積もったような白さが混じっている。けれど、その穏やかな眉の形は、間違いなく私の愛した湊だった。
「……奥様、しっかり」
背後から声をかけてきたのは、いつの間にか大人になった――いいえ、もう三十歳を過ぎたように見える、見知らぬ男性だった。彼は湊によく似た面差しで、ボロボロと涙をこぼしている。
「母さん、父さんは最後まで、母さんに会えて幸せだったって言ってたよ」
母さん? この人が、私と湊の息子なの……?
混乱で視界が歪む。私はたった今、ソファで湊に頭を撫でられていたはずだ。ほんの数秒前まで、私たちは若く、未来は無限に広がっていたはずなのに。
「う、嘘よ。だって、私たちはまだ結婚だってしてないし、ポテチの袋も開けてない……っ」
私の狂乱じみた言葉に、息子と呼ばれた男性は悲しげに顔を伏せた。
「母さん、ショックなのはわかるけど……二人はもう、四十年も一緒にいたじゃないか」
四十年。
その言葉が脳内に響いた瞬間、ダムが決壊したように「記憶」が溢れ出してきた。
そうだ。私たちはあの夏の日、小さな教会で式を挙げた。
湊はタキシード姿で照れくさそうに笑って、「一生、遥を甘やかすよ」と誓ってくれた。
二人で古いアパートを借りて、お金がないから公園でお弁当を食べて。
私が仕事でミスをして泣きながら帰った夜、湊は何も聞かずに一晩中私を抱きしめてくれた。
子供が生まれて、反抗期に手を焼いて、二人で白髪を数え合って笑って。
「……思い、出した……」
断片的だった記憶が、鮮やかな色彩を伴って繋がっていく。
私は確かに、この人と四十年の歳月を歩んできたのだ。
幸せだった。とことん甘やかされ、愛し合ってきた。
けれど、その人生は今、終わろうとしている。
「嫌。行かないで、湊。まだ、何も返せてないよ」
私は冷たくなり始めた湊の手に縋りついた。
その指先は、さっきリビングで私の髪を梳いてくれた時の熱を、もう失っている。
絶望が、冷たい水のように足元から這い上がってきた。
🔚