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その子の笑い方
2025/08/27
初めてみた時、綺麗な子だなって思った。艶やかな長い黒髪、黒曜石のようで吸い込まれそうな瞳、華奢だけど芯がありそうな微笑みを浮かべていた。席が隣だったのもあって、私はその子と仲良くなっていった。毎日、一緒に下校して、途中の公園で遊んだ。寄り道はダメだと先生に言われていたけど、どうせ誰もいないし、夜まで公園にいるわけでもない。
今日も2人で下校する。
「最近、はまってるアニメがあるんだー。」私がニコニコしながら言うと、その子は小さく微笑んだ。それがなんだか大人っぽくて、私も大口開けて笑うんじゃなくて小さく笑うようにしよう、と思った。
「どんなアニメ?」その子が聞いた。例えるなら、穏やかな広い湖みたいな声だった。それもまた参考にしたくなった。「バトル系だよ。今、すごいはやってる。クラスの子達も話してたよ。知らない?」私が訊くと、その子は上品に首を傾げ、困ったように眉を八の字にした。
「アニメ、あんまり見れないから。」そっかー。私はアニメが大好きだったので、その子とアニメの話で盛り上がれないことが、残念でならなかった。
公園に着いた。滑り台や、シーソーや、ブランコがある。けれどそのどれもが錆び付いていて、たいして大きい公園でもないので、人は誰もいない。私たちはやはり錆び付いているベンチにランドセルを置いて遊んだ。15分ほどした頃から、その子は自身のキッズケータイをやけに気にするようになった。そろそろ時間なのかな、と最初は思ったが、それならすぐにごめんねー帰るねと言い出せるだろう。それにまだ4時にもなっていないのだ。「どうかした?」私が尋ねると、その子は画面から顔をあげ、口をもごもごとさせた。「あ、いや…。」その子は一瞬画面に視線を落とし、申し訳なさそうに私に言った。
「ごめん、私帰るね。」「えっ。なんで?」「ちょっと親が…。」その子はキッズケータイをポケットにしまい、ランドセルを背負って帰っていった。私は呆気に取られつつ、その子が、お母さんあるいはお父さんのことを「親」と呼んだことに驚いていた。「ママ」「パパ」「お母さん」「お父さん」と呼ぶのが普通ではないだろうか。それが親。その響きは冷たく、その子と家族との間に、距離や壁があるように感じた。
大人びているんじゃなくて、大人びなきゃいけないような理由があるのかも知れない。嫌な何かが心の底から湧いでていた。
弱々しい風が、私の短い髪の毛をすこしだけ揺らした。
次の日、学校に来たその子に、私は訊いた。「昨日、どうして突然帰ったの?」嫌なら、言わなくても良いんだけど。そう付け足すと、その子は「ごめんね。」と答えた。「親が荒れてたから。」俯きがちにその子は続けた。「あんまり詳しいことは言えないんだけどね。」と言いながら、ランドセルを漁りキッズケータイを取り出した。そして、それを操作し私に画面を見せてきた。
「メッセージ画面。お母さんとの。」私は息を呑んだ。その子のお母さんが送ってきたであろう文面に、驚きを隠せなかった。『あああああああああああああああああああああああああああああああああ』…。もはや文章ですらなかった。相手の叫び声が聞こえてきそうになった。目を見開いている私を見て、その子は再び「ごめんね。」と言った。キッズケータイをランドセルにしまう動作は、やっぱり大人のようだった。「いや…。大丈夫だけど…。」この状況で果たしてなんと言葉をかけるべきなのかわからなくて、私とその子の間には、しばらく沈黙が流れた。
その日、その子は早退していた。
放課後、私は久々に1人で下校しながら、その子について思考を巡らせていた。複雑な家庭環境なんだろうなぁと、そこまでは予想がついた。そこからだ。お母さんはどんな状態なのかとか、いろいろ気になるところはあった。が、さすがに根掘り葉掘り聞くわけにもいかないだろう。私が1人もんもんと考えていると、いつの間にか通学路ではない変な道を歩いていた。ボロボロのアパートや小さな家が立ち並んでいた。ここどこだろう、と慌てながら辺りを見渡していた時だった。ボロボロのアパートの部屋から、人が2人出てきた。私はそれをみて、思わずあっと声を上げた。艶やかな長い髪の毛、黒曜石のような瞳。大人っぽい微笑みではなかったけれど、すぐにわかった。その声で相手も私の存在に気付いたようで、驚いた様子で数秒固まった。
「み、美香ちゃん。」その子は女の人を支えていた。お母さんだろう。整えられていないボサボサの髪の毛、よれよれの服。この人があのメッセージを送ってきたのか。その子は女の人を支えながら、ゆっくりと歩いて私の方に来た。「どうしたの?なんでこんなところにいるの?」焦ったような、しかしやはり綺麗な声で、その子は言った。「ちょっと迷っちゃった。」女の人のことが気になったけれど、触れて良いのかわからず、無難な返事をした。女の人から酒の臭いが漂ってきて、思わず一歩、後退る。
「そう、通学路に戻りたいのね?そしたら、ここを真っ直ぐ行って、あの角で右、そしたらすぐに左に曲がって、しばらく歩いたら通学路に出るよ。手が離せないから、案内できないけど…。」その子はいつもとは少し違う、私のみたことのないような表情を浮かべた。「いや、いや、全然、ありがとう。」私がぶんぶん首を横に振ると、その子は大人びた微笑みを浮かべ、「じゃあ、明日、学校で。」女の人を支えながら歩き始めた。少しずつ、少しずつ遠ざかっていくその背中は、なんだかちょっと、寂しげだった。
「…また明日、また明日ね!」私は大きく手を振った。その子は振り返って、口角を上げた。小さくだけれど手を振りかえしてくれた。それは、大人びた笑顔なんかじゃない、疲れと、希望と、それ以外の何かが混ざった、その子だけの笑い方だった。