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ずっとずっと君の笑顔を見ていられますように
「一人になれない夜を越えて一人になれた朝を迎える。私は。私は。私になってしまった」
朝の光は、腐った果実の匂いがした。
カーテンを閉め切った部屋に差し込む白い筋を見ながら、私はベッドの上で膝を抱えていた。眠れなかったわけではない。むしろ、眠りすぎたような感覚がある。長く深く、どこまでも沈み込んで、それでも水底に届かなかった夢のあとに似ていた。
テーブルの上では、昨日飲みかけた水が曇っている。部屋は静かだった。静かすぎて、私の呼吸音だけが誰か別の人間のものみたいに聞こえる。私は昔から、自分が一人でいる感覚を持てなかった。
例えば小学生のころ。放課後の教室で、誰もいなくなったはずなのに、背後で椅子を引く音がした。振り返っても誰もいない。けれど確かに、そこには「気配」が残っていた。大学時代、一人暮らしを始めてからもそうだった。風呂場の曇った鏡に、私より半拍遅れて笑う顔を見たことがある。終電を逃して歩いた夜道では、背中にぴたりと重なる足音を聞いた。けれど、恐ろしくはなかった。
怖かったのは、そうしたものが現れなくなる瞬間だった。世界から完全に切り離され、本当に自分だけになってしまう予感。それだけが耐え難かった。
昨夜、母が死んだ。電話は二十三時四一分に鳴った。病院の看護師は淡々とした声で、「苦しまれませんでした」と言った。人の人生の終わりを説明するには、あまりに滑らかな口調だった。私は「そうですか」と答えた。泣かなかった。母とは十年近く会っていなかったからだ。最後に顔を合わせた日のことを、私はよく覚えている。
雨だった。母は台所でじゃがいもの皮を剥いていた。換気扇の音がうるさく、私は何度も聞き返した。
「だから、あんたは空っぽなのよ」
包丁を動かしたまま、母は言った。
「人に嫌われないように生きてるだけ。自分がないの」
私は笑って受け流した。そういうことを言う人だった。人を傷つける言葉を、真実みたいな顔で差し出す。けれど、あの時からだ。私が、自分の輪郭をうまく掴めなくなったのは。母の葬儀には行かなかった。行かなかったというより、行けなかった。
押し入れの奥にしまっていた喪服を取り出した時、急に吐き気がして、床に座り込んでしまった。肺の奥に冷たい泥を流し込まれるような感覚だった。私はそのまま、朝まで床にいた。誰とも話さず、灯りもつけず。すると午前四時頃、不意に声がした。
「行かなくていいの?」
女の声だった。私はゆっくり顔を上げる。部屋の隅、冷蔵庫の横に、人が立っていた。知らない女だった。白いワンピースを着ている。長い髪が肩に垂れている。けれど、どこか知っている顔だった。似ている。
「……誰」
掠れた声で訊くと、女は少し困ったように笑った。
「ずっと一緒にいたのに」
その言葉に、胸の奥がざわつく。女は裸足のまま歩いてくる。足音がしない。
「あなた、小さい頃から私を見てたでしょう」
私は首を振る。そんなはずがない。だが否定しようとするたび、古い記憶が浮かぶ。放課後の教室。曇った鏡。深夜の足音。
あれは全部。
『あなたなの』
「そう」
女は私の向かいにしゃがみ込む。
『私は、あなたが一人にならないためのもの』
意味がわからなかった。女は静かな目で私を見る。
『あなたは、ずっと誰かの期待で生きてきたでしょう。母親の機嫌とか、友達の空気とか、恋人の理想とか』
その言葉は、柔らかいのに鋭かった。
『自分の中が空洞だから、人の視線で形を作ってたのよ』
「違う」
即座に否定した。けれど声が弱い。女は笑わない。
『だから、完全に一人になると崩れてしまうの。誰の視線もない場所では、自分が何者かわからなくなるから』
私は立ち上がろうとした。逃げたかった。しかし膝に力が入らない。女はそっと私の頬に触れた。指先が冷たい。
『でもね』
彼女は囁く。
『もう大丈夫』
「何が」
『お母さんが死んだから』
その瞬間、部屋の温度が消えた気がした。私は女の手を振り払う。
「そんな言い方しないで」
『どうして?』
「……母親なんだよ」
『あなたを最後まで否定した人なのに?』
息が止まる。女は続ける。
『自分を憎むことでしか、お母さんと繋がれなかったでしょう』
私は何も言えなかった。図星だったからだ。母は一度も、私を肯定しなかった。太った、鈍い、気が利かない、つまらない。そう言われ続けた。それでも私は、嫌われないように笑った。母に愛される「誰か」になろうとした。空っぽのまま。女はゆっくり立ち上がる。窓の外が白み始めていた。
『だから、もう私はいらない』
「待って」
反射的に声が出た。女の輪郭が朝の光に溶け始めている。
「消えないで」
『どうして?』
私は答えられなかった。彼女がいなくなれば、本当に一人になる。その恐怖だけが喉を塞ぐ。すると彼女は、少し悲しそうに笑った。
『違うわ』
白い光の中で、彼女の姿が透けていく。
『あなたは今、初めて自分になれるの』
「……何を言ってるの?」
『今までは、お母さんの声で生きてたから』
私は息を呑む。女の顔が、ゆっくり私に重なって見えた。同じ目。同じ口元。同じ疲れ。
『私はあなたがお母さんから逃げるために生まれたの』
その言葉と同時に、何かが胸の奥で剥がれる音がした。長年貼り付いていた濡れた布が、皮膚ごと剥がれるような痛みだった。女は微笑む。
『さようなら』
朝日が差し込む。その瞬間、彼女の姿は消えた。あとには静かな部屋だけが残る。冷蔵庫の駆動音。遠くを走る始発電車。濁ったコップの水。私はしばらく動けなかった。やがて、ゆっくり立ち上がる。鏡の前に立つ。
そこには私がいた。ただ一人の、私が。私は鏡に触れる。冷たい。けれど、初めてだった。触れているものが、自分なのだとわかったのは。