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Friday Night
週末の夜になると、街は決まって息を潜める。人々が笑い、酒場の灯が増えるほど、私の部屋は暗くなる。薄い壁の向こうで鳴る足音やグラスの触れ合う音は、遠い水底から届く泡のようで、現実というより幻聴に近かった。
私は時計を見ない。時間を測る器具は、真実よりも嘘を刻むからだ。代わりに、胸の奥で鳴る鼓動を数える。今夜も、いつものように数が合わなくなるだろう。その瞬間、彼は現れる。
書きかけの原稿の上に、影が落ちた。ランプの火は揺れていない。なのに影は呼吸をするように膨らみ、やがて人の輪郭を持った。〝彼〟あるいは〝それ〟は私と同じだった。似すぎている、と言うべきか。
「これでいいのだろうか」
声は私の喉から出たように聞こえた。私は否定しなかった。否定は彼を強くする。代わりに、机の引き出しから封筒を取り出す。中には、昔の手紙が一通。インクは褪せ、署名だけが妙に鮮明だ。私の名で、私の筆跡で、しかし私が書いた覚えのない文。彼は笑った。ほくろの数まで、私と同じだった。
「忘れるのは簡単だろう。逃げてばかりでは、つけが回る。」
部屋の隅で、壁紙がめくれた。そこから冷たい空気が滲み出し、過去の匂いを運んでくる。雨、鉄、そして病院の消毒液。記憶の扉が、勝手に開く。
あの夜も金曜だった。私は祝杯をあげ、約束を破り、帰り道で選択を誤った。衝突の音、白い閃光、沈黙。誰が倒れ、誰が立っていたのか。報告書には曖昧な言葉が並び、真実は余白に追いやられた。
「君は生き残った」
彼はそう言った。
「だから、私は生まれた」
私は原稿を破り捨てた。紙片は床に散り、黒い蝶の群れのように舞った。だが彼は消えない。むしろ輪郭が濃くなる。彼は私の罪を糧に育つ生き物だった。外で歓声が上がる。誰かの誕生日か、ただの乾杯か。金曜の夜は、理由を必要としない。私はペンを取り、新しい紙に書き始めた。告白ではない。祈りでもない。ただ、事実を、私の言葉で。
書き終えたとき、影は薄れていた。完全には消えない。消えるはずがない。彼は私が私である証なのだから。ランプを消す。闇は静かに戻る。胸の鼓動が、ようやく数と合った。金曜の夜は終わる。しかし次の金曜も、必ず来る。私はそれを待つ。影と共に、真実の続きを書くために。