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|落矢《おちや》の決意 ――千年の後に響く音――
2026年1月。|県立青葉高校《けんりつあおばこうこう》弓道部が挑む、秋の新人戦・決勝大会の朝が来た。
会場となる武道館の空気は、吐く息が白く固まるほどに張り詰めている。昨夜から降り始めた粉雪が、道場の屋根を薄く化粧していた。
団体戦、予選を勝ち抜いた青葉高校は、ついに決勝の舞台に立っていた。
五人一組で挑む団体戦。その勝敗は、最後の一人――|落《おち》を務める|長谷川湊《はせがわみなと》の肩にかかっていた。
(……寒いな)
湊は|弽《ゆがけ》を差した右手を、懐で温めていた。
隣には、四番目の射手を務める|佐倉陽葵《さくらひまり》がいる。彼女はいつものように凛とした表情を崩さないが、その指先が微かに震えているのを湊は見逃さなかった。
夏合宿の夜、彼女が漏らした「エースであることの孤独」。
今、湊が彼女のためにできることは、ただ一つ。彼女が繋いだ矢を、確実に的へと届けることだ。
「青葉高校、|射位《しゃい》へ」
進行のアナウンスが響く。
湊たちは一列になり、静寂に包まれた射場へと足を踏み入れた。
二十八メートル先の的。それは、千年前から変わらない、真実を映し出す|鏡《かがみ》のようだった。
一人目、二人目……。弦音が響くたび、的中を知らせる白旗が上がる。
そして、陽葵の番が来た。
彼女は深く息を吐き、弓を押し開く。その姿は、冬の陽光を浴びて輝く氷像のように美しかった。
――パァン!
完璧な弦音。矢は的の真ん中を貫いた。陽葵は静かに|残心《ざんしん》を保ち、湊へと繋ぐ。
最後は、湊だ。
対戦相手との的中数は同点。湊が当てれば優勝。外せば、敗北。
湊は、|足踏《あしぶ》みをし、弓を構えた。
視界が狭まる。周囲の音は消え、ただ自分の心臓の音と、横で見守る陽葵の気配だけが鮮明になった。
(陽葵。俺、もう逃げないよ)
弓を引き絞り、|会《かい》に入る。
極限まで張り詰めた弦。指先にかかる強烈な圧力。
これまで「もう言えない」と閉じ込めてきた思いが、全身の血管を駆け巡る。
彼女の隣に立ちたかった。彼女に相応しい男になりたかった。好きだという言葉を、この一射に代えて、今、解き放つ。
――|離《はな》れ。
右手が、背後の闇を切り裂くように飛んだ。
放たれた矢は、鋭い一条の光となって冬の空気を切り裂き、的の中心へと吸い込まれた。
――ドォン!
重厚な的中音が武道館に響き渡る。
一瞬の静寂の後、青葉高校の応援席から大歓声が沸き起こった。
「よし……っ」
湊は震える拳を握りしめた。
射場を降りるとき、隣を歩く陽葵と目が合った。
彼女の瞳には、安堵の涙が浮かんでいた。彼女は口に出さず、ただ唇を動かして「ありがとう」と言った。
大会が終わった後の、夕暮れ時。
二人は、誰もいない道場の裏手、雪が積もるベンチに座っていた。
湊は、自販機で買ったホットレモンを陽葵に手渡した。
「湊。今日の一射、かっこよかったよ」
陽葵が、赤くなった鼻を啜りながら言った。
「……俺、あの時、考えてたんだ。この矢を外したら、一生後悔するって」
「優勝のこと?」
「違う。……陽葵に、自分の気持ちを言えなくなるのが、一番怖かったんだ」
湊は、陽葵の目を真っ直ぐに見据えた。
もはや、弓も矢も必要なかった。
2026年1月。新しい年が始まったばかりのこの空の下で、湊は千年前から続く愛の言葉よりも、もっと切実な今の思いを口にした。
「陽葵。俺、お前が好きだ。エースの陽葵じゃなくて、ただの陽葵が。隣に立たせてほしい」
雪が、二人の間に静かに舞い落ちる。
陽葵は一瞬、呆然とした顔をした後、顔を真っ赤にして俯いた。
そして、湊のパーカーの裾をギュッと掴んだ。
「……遅いよ、バカ湊。私なんて、去年の夏からずっと、あんたに向けて矢を射ってたのに」
陽葵が顔を上げ、最高の笑顔を見せた。
湊は、彼女の温かな手を握りしめた。
的に当たった矢はいつか抜かれるけれど、心に刻まれたこの瞬間は、決して消えることはない。
冬の夜空には、射手座の星々が静かに、けれど強く、二人の未来を照らし始めていた。