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なぜ顔を逸らす
「なぜ顔を逸らす?」
すすり泣く声が部屋に満ちる。男は首を傾げながら彼女に問いかけた。
何でもない風に振舞うが、髪に、頬に、そして今も手放さない剣先に生温かい臓物と鉄臭い体液がこびり付いている。
視線は伸びる影に隠れた君の傍。肉と骨が分断されたモノのことなど些末だと言わんばかりに、彼は一歩近付いた。
彼女の奥歯が鳴らす音。呼気と吸気が狂う音。
……上乗せして、心臓の音もここまで届けばいいのに。男は笑顔を浮かべて剣を床に放る。君の怯えるさまも愛らしいが、必要以上に苦しめる理由なんてどこにもない。あやす声色で彼が言う。
「ああ、刃物が怖かったのだな。すまない、気が付かなくて」
男は君の肩に指を乗せ、静かに頬へ触れる。
君は恋人だった。ずっとずっと、愛していた。彼女はこの世界で唯一の——姫、薔薇、小鳥、宝石。どんな言葉も泥を塗ってしまうと感じるまでに。
本当は抱き寄せたかったが、そうすることは叶わなかった。汚らしい血で汚れている。互いに。
君は問いかける。「どうして」ようやっと捻りだした言葉を、男は懐かしいものを見る目で転がした。
「護りたかっただけだ」穏やかな声。不気味なほど優しい声で、彼は言う。比較的汚れていない逆手で君の髪を愛撫する。愛おしいものに触れる手。今すぐに命が奪えるはずの、汚れた手。
君の息が詰まる。今しがた零れたものが最後、それきり涙すら途切れる。「あの男に騙されていたのだよ、君は」
「そんなことない」
君は必死に弁解する。愛おしかった人のこと。「あなたが殺しただけ」愛する者を傷つけられた怒りというのは、死してなお残っている。
「愛してたのに」
言い終えると、君は枯れたはずの涙をわんわんと流す——男の表層から、それまで浮かべていた笑みが消える。
「……いけないな」
酷く冷えた声。氷よりも凍えた音。男はすっくと立ちあがり、服を着た肉の塊を見下ろす。
これは蛆虫を生む醜悪なものだ。あまつさえ、君を騙した毒だ。男は片脚を上げる。
君が出来たことと言えば、瞳孔を開くことだけ。
「穢れた身体で、彼女を、傷付けて。心すら歪めて」
言葉を区切りながら、男は靴裏で死体を転がす。仰向けにすれば、もう呻くこともないのに腹へと足裏を突き立てる。細胞が血管が壊れる単純な音がした。
「この男に何をされた?」ぷち、ぷち。「抱きしめられたか? 髪に触れられたか? 手を繋いだか? 唇は、抱擁は。同じ食事を作ってやったのか? 夜も——」乾いた笑み。「抱かれたか?」
男は罪を数える。死体の罪を数える。一つ、一つ。その行為に罪が乗る。
髪に触れた本数。抱きしめた回数。指に触れた回数。君に偽りの笑顔で塗りたくった回数。罪状を反芻した回数。
ああ、君が泣いている。彼女は何も悪くないというのに。……まだ、醜悪なこの生き物に囚われたままだ。
「よい、構わぬ。君に罪はないのだ」
男は君に向き直り、再び君に笑いかけた。怒りで浮かんだ乾いた笑みも、愛おしさが潤してくれる。男は……球を取ってきた犬のような表情で、だがそれより思い切り歪んだ顔で、君の下に片膝をついた。
「君は無辜だ。純真だ。無垢だ。……私の夢だ」
男は騎士のように跪き、君の指を絡める。
糸のような美しい指。震える先に口付けて、笑った。君は今も何かを口にしかけるが、息を吸うことで精一杯だ。
「もうこの住まいも君には必要ない。我が城で永遠を過ごそう」
君の反論がないのを良いことに——あったとしても絡めとられるだけだ——男は君の手を引く。その背後には魔力が宿る。迎える準備などとうにできていた。ただ、君を探しそびれていただけだった。
「外の世界など毒に満ちているに過ぎん——さあ、帰ろう。我が姫君」
言葉と同時に、君を魔力が包み込む。あのひとに貰った服が、思い出が、書き換えられていく。虚空の色に染まる中、君は男が本当に愛しているのか、甚だ疑っている。
「君を護れるのは、私だけだろう?」
大切なものを壊しておいてむしろ、満ち足りたように笑っているのだから。