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私は、東京の秘密を知っている 二話
週末、表はひとりで下町を歩いていた。
目的は、散歩でもよく目にしていた、古いアパートだ。
壁はかびくさい色に変わり、階段はぎしぎしと音を立てる。
住人はほとんど引っ越して、空き部屋ばかりになっていた。
表は、アパートの前で立ち止まった。
——薄い。壁が、透けている。
角をのぞくと、階段の一段一段が空に溶けるように白く光っていた。
通り過ぎる人たちは気にも留めない。
でも表には見える。
透ける階段の向こうで、子どもたちの声がかすかに聞こえる。
「おーい、こっちだよ!」
「待ってー!」
幽霊でも怪物でもない。
——誰かが、遊んでいた音だ。
表はノートを取り出す。
【アパート。階段が透けている。子どもの声が聞こえる】
ふと、耳を澄ますと、ひとりの声だけ、少し悲しそうに聞こえた。
「……さよなら」
その声は、アパートの中で残されていた最後の子どものものだった。
表は息をのみ、階段をゆっくり上がった。
途中で、風に乗って古い紙くずが舞う。
紙には、落書きや名前が書かれている。
——ここには、人の思い出が積もっていた。
表は心の中で決めた。
——消させない。
アパートの最上階に着くと、窓の外が白く光っていた。
思わず手を伸ばすと、風が頬をなでる。
その感触が、街と時間をつなぐ糸のように感じられた。
帰り道、表はふと思った。
——時計台も、銭湯も、アパートも、消えかけていた。
でも、自分が気づいて、声にして、記録すれば、少しずつ取り戻せる。
その日、表は初めて笑った。
——小さな戦いは、確かに意味がある。
夜、布団の中でノートを開く。
【アパート。透ける階段、最後の子どもの声。白くならずに残った】
ページを閉じると、窓の外で風鈴の音がかすかに鳴った。
遠くの街の音が、少しだけ、戻ってきた気がした。
次の土曜日、表はいつものようにノートを持って商店街を歩いていた。
目的は、最近気になっていた小さな路地だ。
路地は、地図にもほとんど載っていないほど短く、いつも人通りもまばらだった。
でも表には、そこに異変があることがわかっていた。
歩いていくと、路地の入り口に立つ小さな看板が、半分だけ消えていた。
文字は白くぼやけ、「〇〇通り」と書かれていたはずの部分が消えている。
——消えかけている。
路地に足を踏み入れると、周囲の空気が変わった。
音が、極端に少ない。
遠くの車の音も、人の話し声も、かすかにしか聞こえない。
表は息をひそめ、ノートを開いた。
【路地。消えかけている。周囲の音も薄い】
歩いていると、ふと、古いアパートの扉がわずかに開いているのに気づいた。
誰も住んでいないはずなのに。
——誰かいる?
恐る恐る扉をのぞくと、小さな影が、ふわりとこちらを見た。
「……」
その子は、透けたような服を着ていた。
髪の毛も、肌も、少し光を通しているように見える。
でも目だけははっきりしていた。
「あなた……誰?」
表が声をかけると、影の子は小さくうなずき、消えそうな声で答えた。
「……ここにいたんだよ。ずっと……」
表はノートに書き始めた。
【路地の住人——記憶から消えかけた子ども】
影の子は、路地の音や笑い声、階段のきしみを、全部覚えているらしい。
でも、誰も思い出してくれないために、少しずつ消えかかっているという。
表は、息をのんだ。
——この街のほころびは、思ったより大きい。
路地の奥に進むと、壁や看板も半透明になり、まるで街全体が薄紙に包まれているように見えた。
忘れられた場所は、確かに存在しているのに、だれの目にも見えなくなりつつあった。
表はそっと、影の子の手を握った。
小さく震える手を、ノートに書きながら、自分に言い聞かせる。
——私は見たことを忘れない。
——だから、この街を守れる。
路地を抜けると、夕陽が長く商店街を照らしていた。
風が、遠くの銭湯やアパートの音をかすかに運んでくる。
表はノートを閉じた。
——街のほころびは、確かにある。
——でも、ひとりじゃない。
小さな戦いは、まだ始まったばかりだった。
ある朝、学校に行く途中、表はふと街の風景が変わっていることに気づいた。
いつもは賑やかな八百屋の角も、通りを行き交う人も、今日はどこか静かだ。
耳を澄ますと、風の音と自転車のベルだけがかすかに聞こえる。
——あれ、なんだろう。
商店街を抜けて、古いアパートのほうに向かうと、さらに異変が大きくなっていた。
アパートの壁は、昨日よりさらに白く、透けて見える階段も半分消えかかっている。
路地の角の小さな店も、シャッターが半開きのまま、音も光も失っていた。
表は立ち止まった。
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
——街全体が、少しずつ消えていっている。
慌ててノートを開き、見える限りの変化を書き込む。
文字にするたび、少しだけ街の白さが薄れていく気がした。
その時だった。
「……また、見えるのかい?」
背後から声がした。
振り向くと、あの商店街のベンチにいたおばあさんが立っていた。
「はい……。街が、消えそうです」
おばあさんはうなずき、手元の杖をトントンと地面に打ちつける。
杖先から小さな光が街に飛んでいき、半透明の建物や看板に触れるたび、かすかに色が戻る。
「これが、あなたの力よ、音無 表さん。気づいた者だけに見える。そして、記録できる者だけに、街を守る力がある」
表は息をのむ。
——力。
でも、自分ひとりで本当に街を守れるのだろうか。
考えながら歩くと、消えかけた路地の奥に、昨日見た影の子が立っていた。
透明に近いけれど、はっきりと存在を主張している。
「手伝ってくれる?」
表が小さな声で聞くと、子どもはうなずき、にっこり笑った。
その瞬間、風が吹き抜ける。
遠くの銭湯の湯気、アパートの階段の軋み、かすかな時計台の音が、わずかに戻ってくる。
——街は、生きている。
帰り道、表はノートを胸に抱きしめた。
——ひとりじゃない。
——少しずつでも、取り戻せる。
小さな戦いは、まだ続く。
でも、確かに意味がある戦いだと、表は思った。