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出会いを、ふたりでやり直す。
|冨谷《とみたに》 |紘矢《こうや》。僕の中では、コウちゃん。
コウちゃんが静かに眠ったまま、昨日で10年経った。
病室で大量の管に囲まれていることには変わりないけれど、頭の包帯はなくなったし、難しい機械も数が減った。
コウちゃんのお母さんは、目を覚ますことを願って、延命治療を10年続けてきた。
僕はそろそろ気づき始めていた。それにはとんでもないお金がかかることを。
だけど、コウちゃんだって、終わりの見えない闇の中で頑張ってるんだ。だから僕も、終わりの見えない世界で頑張らなきゃ――。
浬と別れてから、家にはそうかからない。
歩いてすぐだから大丈夫。
玄関のドアを開ける。
「ただいま」
「あ、唯都。おかえり」
母が迎えてくれた。
「部活、1年生は早上がりなの?」
「いや……ちょっと、学校に救急車が来ちゃって」
それだけで、母は解ってくれた。
「そう……やっぱり治療を始めた方がいいんじゃない?」
「……嫌、かな」
やっぱり、躊躇ってしまう。
「無理はしなくていいのに……」
「大丈夫だよ、まだ」
僕は努めて笑った。
あ、そうそう、吹っ飛んじゃってたけど、と母が言った。
「紘矢くん、目を覚ましそうなんだって」
僕が母と病院についた時には、もう6時半になっていた。雨のにおいがして、遠くで雷が鳴っていた。
「932号室の冨谷 紘矢くんのお見舞いに来ました」
「はい、では入院病棟へご案内いたします」
受付から出てきた看護師さんについていった。8年前からよく見るようになったこの看護師さんは浬のお父さんだ。
「私事になってしまうのですが……最近、浬は学校でどうですか。最近忙しくて、全然話を聞けなくて」
「浬は……特に大変そうなことはないです」
「そうですか」
前、浬の家にゲームしに行った時にはタメ口だったお父さんは、今僕に敬語で話している。それが、なんというか、くすぐったい。
けれど、僕たち親子は、1番懸念すべき事柄をきれいさっぱり忘れてしまっていた。
ここは大病院。入院や問診だけじゃなくて、急患も受け入れている。けたたましくサイレンを鳴らした救急車に運ばれる、急患も。
エレベーターに乗った瞬間、遠くから、それが聞こえてきた。
目の前に、残酷なあの光景が広がる。
本当なら見えている方の光景が、ぐわんと歪む。
植木鉢の割れる音が聞こえる。
立っていられなくなる。
視界のなかの“赤”の割合が、どんどん増えていく。
喉になにか詰まったような感覚がして、息が苦しくなる。
「唯都っ‼」
母が支えてくれたおかげで、かろうじて立っていられた。
上昇する箱の中で座らせてもらい、呼吸を整える。だんだんサイレンは遠くのものになり、やがて聞こえなくなった。
すぐ音が止んだこともあり、回復までは時間がかからなかった。
「……ストレス発作ですね」
浬のお父さんが言った。
「はい……この子、『治療はしない』って頑なに言ってて」
「そうですか……」
寿命の短い会話が聞こえる。
そのうち機械的な声で「9階です」と言いながらエレベーターが止まり、扉が開いた。32番目の病室までは結構歩く。
何度もここを訪れて分かったのは、この病院で1番静かな9階は、寝たきりや植物状態の患者さんの階だってこと。
……いつのまにかコウちゃんが、「植物状態」の側に行ってしまっていたら。
いつもそんな嫌な想像をしてしまう。
けれど今日は違った。コウちゃんは目を覚ます。僕は信じてる。絶対。
病室に入ると、すこし涼しかった。
「コウちゃん……」
僕はそのそばに駆け寄り、来るたびいつもしていたように手を握った。
その瞬間。
ぴくりと手が動いた。
手……。
「起きてるの?」
その顔を、じっと見た。
瞼が動いて、眉や唇も微かに歪んだ。
そして、目が開いた。
「コウちゃん!」
目を覚ましたばかりのコウちゃんは、僕のことをじっと見た。
そして、手を握り返してくれた。
「僕のこと……分かってくれてるの?」
けれど答えは返ってこなかった。
コウちゃんはただ手を握って僕を見つめていた。
あぁ、そうだった。
コウちゃん、喋れなくなっちゃったんだ。
コウちゃんの左脳は、植木鉢に殺された。
あの日、僕の目の前で壊されたんだ。
もし目を覚ましても、もうお喋りできないんだって……。
コウちゃんのお母さんは、そう言って泣いてた。
大きくなったらちゃんと分かった。それが、「コウちゃんが喋れなくなる」だけじゃなくて、「コウちゃんが言葉を理解できなくなる」ってことだって。
言葉を失って、どうやって僕はあの日々を取り返せるだろう。
「なんで……」
僕は繋いだ手に額を当てた。涙がぽろぽろ零れてきた。
暗い空から、次第に雨の音が聞こえ始めて、静かな病室に響いた。
どうしてだろう、これ書いてると無駄に1話が長くなる。
だってこれ2000字オーバー。やばい、飽きられる。