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果物
私はイヤホンを耳に挿し込み、集団意識の奴隷となった人間の声を遮断した。そして文字どおり、自分だけの世界へ閉じ籠もった。浴室には本が山のように積み上げられ、その無数の背表紙は、まるで私を見守る番人のようだった。外界から切り離されたこの場所で、それらだけが私に安らぎを与えてくれた。外の出来事は、一度知ってしまえば記憶の奥底に根を張る。忘れたくても忘れられない。だから私は何も知りたくなかった。だから、異物になった彼のことはどうでもよかった。越えてはいけない線を越え、周囲の人間に修復されただけの話だ。関係ない、そうやって自分に言い聞かせて携帯の電源をおとして、濡れた床の上に横になった。
水滴が耳の奥で脈打つ心臓のような音を立てていた。浴室の換気扇は回っていない。湿った空気は逃げ場を失い、天井に貼りついている。私は床に背中を預けたまま目を閉じた。イヤホンから流れる無機質な旋律が、遠い場所から聞こえてくるようだった。何分そうしていたのか分からない。やがて携帯電話の黒い画面が気になり始めた。電源を切ったのは私だ。知りたくなかったからだ。彼がどうなったのかも、誰が何を言っているのかも。だが、知りたくないという感情は、知りたいという感情の裏返しでもある。私はそれをよく知っていた。本棚代わりのプラスチックケースの上に置かれた携帯を見つめる。電源が落ちているだけの四角い物体は、まるで棺のように静かだった。異物。私は彼をそう呼んだ。誰もが暗黙の了解に従って生きている世界で、彼だけが別の規則に従おうとした。だから修復された。それだけのことだ。私は何度もそう考えた。しかし思考は円を描き、結局は同じ場所へ戻ってくる。最後に見たときの、全てを受け入れた表情。まるで何かを諦めた人間ではなく、何かを見つけた人間のような顔だった。不意に耳障りな音がした。浴室の外だ。誰かがドアを叩いている。私は目を開けた。最初は無視した。だが音は止まない。三回。五回。七回。規則正しく続く。私は苛立ちながらイヤホンを外した。「何」苛立ちが現れた声音でドア越しに声をかける。返事はなかった。代わりにまた三回、叩く音が響く。私は起き上がった。濡れた服が肌に張りつく感触が不快だった。ドアノブを回し、少しだけ開ける。誰もいなかった。薄暗い廊下がまっすぐ伸びているだけだった。私は眉をひそめた。いたずらだろうか。しかし、この時間にそんなことをする人間はいない。私はドアを閉めようとして、その足を止めた。廊下の床に紙切れが落ちていた。白い紙だった。さっきまではなかったはずだ。拾い上げる。折り畳まれた紙の内側には、たった一行だけ文字が書かれていた。『本を開くな』私はしばらくその文章を見つめた。意味が分からない。誰の悪ふざけだろうか。だが奇妙なことに、その文字には見覚えがあった。細くて癖のある筆跡。記憶の底から浮かび上がってくる。私だ。異物にも集団意識にも成りたくない全てを拒絶した私の字だった。胸の奥で何かが冷たく沈んだ。あり得ない。私は|外界《あそこ》にはいない。少なくとも集団意識の渦巻きの中には。私は紙を握り潰した。「くだらない」口に出してみる。だが声は思ったより弱かった。浴室へ戻る。積み上げられた本が視界に入る。違和感を感じた。本の山の形が変わっている。気のせいではない。うまく言語化できないが絶対に変わっている。本の配置を覚えている。毎日見ているのだから当然だ。一番上に置いていた青い表紙の文庫本が消えている。代わりに別の本が置かれていた。見たことのない本だった。表紙には題名も著者名もない。ただ黒い。墨で塗り固めたような黒。私は立ち尽くした。換気扇が止まった浴室は異様なほど静かだった。恐る恐る手を伸ばす。本は冷たかった。まるで外気に晒されていた金属のように。私は紙の言葉を思い出した。本を開くな。だが人間は禁じられるほど確かめたくなる。私は例外ではなかった。表紙を開く。最初のページは白紙だった。次のページ目も。その次のページ目も。何も書かれていない。安堵と失望が入り混じる。馬鹿らしい、そう思いながらさらにページをめくった。そして途中で手が止まった。文章があった。黒いインクで印刷された文字列。私は読み始めた。『私はイヤホンを耳に挿し込み、集団意識の奴隷となった人間の声を遮断した』息が止まった。それは私がさっきまで考えていた内容だった。いや、違う。考えていたのではない。現実だ。つい先ほどまでの私自身だ。ページをめくる。そこには浴室に閉じ籠もった私の行動が、記されていた。床に横になったこと。携帯の電源を切ったこと。ドアを叩く音を聞いたこと。白い紙を拾ったこと。すべて。私は震える指で次のページを開いた。まだ起きていない出来事が書かれていた。文字を読む前に、手から本が滑り落ちた。鈍い音が浴室に響く。私は後ずさった。喉が渇く。心臓が速くなる。ページに書かれた通りだった。『本を落とす』そう書いてあった。偶然、そう思いたかった。だが次の行が目に入った。『忘れる』と。だが、その文は現実にならなかった。何も起こらなかった。安堵したように私は本を拾い上げた。続きが気になった。なぜかそう思った。次のページ。そこには一文だけが書かれていた。『気づく』その下は空白だった。私は答えることのできない本に訊ねた。「何に」当然、本は答えない。代わりに浴室の換気扇が唸った。ふと、鏡を見ると細いひびが走っていた。二本。三本。蜘蛛の巣のように広がっていく。そこに映っていたのは私ではなかった。私が浴室に閉じ籠もる原因となった記憶の断片が写っていた。いや、写っているように見えたと言うのが正しいかもしれない。鏡の私が哀れむような表情で見つめてきた。私の唇が動く。声は聞こえない。だが何と言ったのかは分かった。「思い出した?」世界が揺れるような気がした。本が崩れる。積み上げられた無数の本が浴槽に湯のように散らばる。手元の本が捲られた。人生。記憶。選択。すべて私の物だった。そのすべてが文章になって並んでいた。そして私はようやく理解した。彼が異物だったのではない。異物は私の方だった。修復されていたのは彼ではない。修復され続けていたのは、|世界《わたし》そのものだったのだ。知られてはいけない記憶が生まれるたびに消され、都合の悪い人間が現れるたびに書き換えられる。人々が共有している常識は、自然に形成されたものではない。私が造り換え続けている物語だった。だから彼は《《修正》》された。物語の本当の姿を見てしまったから。鏡の中の私は微笑んだ。その姿は少しずつ薄れていく。代わりに私自身の顔が戻ってくる。ひび割れた鏡の向こうで。私は散乱した本の海の中に立っていた。浴室の外から、また三回のノックが聞こえる。規則正しい音。修復の訪れを告げる音。私は足元の黒い本を拾った。最後のページには、新しい文章が浮かび始めていた。『選ばなければならない』そこで文章は途切れていた。続きはまだ書かれていない。
はじめまして、之助と申します。
今回は初投稿作品『果物』をお手にとっていただきありがとうございます。
よんでみてどう思われましたか?
私は誤字脱字の確認のときに読んで思ったのは『勢い任せで内容にまとまりがない』ですね。
そのうち納得のいくように修正して、再投稿するかもしれないです。