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「私なんて」と言わないで
結奈にとって、世界は常にどこか遠い場所から眺めているような感覚の中にあった。
彼女には実の親の面影など一切ない。
四歳の時、唯一の拠り所であった祖父母を亡くし、彼女は孤児院へと運ばれた。
それ以来、彼女のアイデンティティは「誰のものでもないもの」として積み上げられてきた。
そして今、結奈は十五歳になった。
ようやく手に入れた女子高生という肩書き。
しかし、その歓喜を噛み締める間もなく、彼女の運命は坂宮瀬良という人物によって一変した。
十八歳の医大生である瀬良に引き取られてから、十ヶ月が経過し、季節は二月に移り変わっていた。
瀬良との生活は、穏やかではあったが、結奈にとっては耐え難い苦痛を伴うものだった。
「なぜ、これほどまでに気を遣われるのか」
その問いの答えは自明であった。
彼女は常に自分に言い聞かせていた。
《ずっと気を遣われるのは、血が繋がっていないからだ》
過度な配慮は、異質な存在に対する遠慮であり、拒絶に近い優しさであると結奈は信じて疑わなかった。
ある日の帰宅時、結奈はいつものように無言で自室へ向かおうとした。
しかし、瀬良の細い腕が彼女を制した。
「ただいまって言わないの珍しいね。どうかしたの?」
戸惑いを押し殺し、結奈は精一杯の平然さを装った。
「いえ、忘れてただけです。……ただいまです」
その言葉を残して彼女は逃げるように部屋へ入り、ドアに鍵をかけた。
静寂の中で、震える声が漏れる。
「ここは私の家じゃない。『ただいま』って言うのは本当の家だけがいいなぁ……」
孤独の澱(よど)みが限界を超えたのは、その数日後のことだった。
深夜、結奈は耐えきれなくなった感情を抱えたまま、家の外へと飛び出した。
瀬良が異変に気づいたのは、彼女が姿を消してからわずか数分後のことである。
何度も電話をかけたが繋がらない。
ようやく通じたと思った瞬間、スマートフォンから聞こえてきたのは絶望的な違和感だった。
「……! おいっ! 今どこにいるんだよ!」
瀬良の叫びは虚空に消えた。
結奈は答えない。
ただ、スマートフォンのマイクを通して伝わってくるのは、吹き抜ける風の音と、波が岩を打つ海の音だけだった。
「……みんなが私に気を使うのは本当の家族じゃないから。もし、血のつながった本当の家族なら過度な気遣いはなかったのかな。『私なんて』いらないよね」
結奈の呟きは、絶望という名の最期の告白であった。
瀬良は直感した。
彼女がどこにいるのかを。
家から飛び出した瀬良は、必死の形相で家の近くにある橋へと向かった。
海へと続くその橋からは、約二十六メートル下の深淵が見える。
結奈を見つけた時、彼女はすでに橋の柵の上に立っていた。
風に煽られながらも、虚ろな瞳で下を見つめる少女。
瀬良は全速力で駆け寄り、その細い体を抱きしめようと手を伸ばした。
しかし、結奈が自らの命を海へと投げ捨てた瞬間、彼女の体は重力に従って宙へ舞った。
そして、瀬良もまた、彼女を追うようにして同じ深淵へと身を投じた。
二人の行方は、その後一切の消息が途絶えた。
警察も、周囲の人々も、彼らがどこへ辿り着いたのかを知る術を持たない。
――それからずっと。
時空の歪みの向こう側か、あるいは別の世界の片隅で。
「ん〜! これ美味しいよ!」
少女が笑いながら、手の中にある何かを差し出した。
「……本当だな」
少年は静かに頷き、その味を噛みしめた。