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柘榴
街灯はいつもより低く垂れ下がっていて、雨上がりの夜の路地は光を失った鏡のようだった。舗道の水たまりに映る空は、濁りのない灰色で、そこに街の雑音が滲み込む。足音は静かに、しかし確かに、湿った石畳を打つ。主人公の藍田は、手袋の指先を軽く震わせながら歩いていた。
藍田は、自分がどこから歩き始めたのか、なぜそこにいるのか、正確には覚えていなかった。ただ、通り過ぎる建物の壁や看板の文字が、自分の心に微かなざわめきを残すのを感じていた。文字は一つ一つが生きているかのように、彼の視線に反応して揺れ、時折、意味のない言葉を囁くように思えた。
「ザムザ……」
と、彼の心の奥で小さく名前が響いた。それは誰かの声ではなく、自分自身の呼び声のようでもあった。立ち止まり、水たまりに映った自分の顔を見る。顔は見慣れたもののはずなのに、どこか違う存在のように見え、目の奥に微かな影が揺れた。影は瞬間的に、まるで水面に溶ける墨のように形を変え、すぐに消えてしまう。
彼の足は知らぬ間に、路地の奥深くへと向かっていた。路地は狭く、壁に貼られたポスターや落書きは色を失い、静かに崩れていた。その中で、一つのドアだけが異様に鮮やかな赤で塗られている。ドアには小さな窓が一つあり、そこからかすかな光が漏れていた。藍田は無意識にそのドアの前に立ち、手を伸ばす。
ドアを押すと、微かな軋みとともに開いた。内部は狭く、古びた書店のような空間で、空気は埃の匂いを帯びていた。棚には無数の本が積まれ、文字通りの迷路を作っている。壁の隅には小さなランプがあり、黄色い光が微かに揺れる。藍田は息を呑む。空間には時間の感覚が存在しないかのようで、外の雨音も、街のざわめきも、まるで遠い世界のことのようだった。
「いらっしゃい」
低く、けれど明確な声が響く。振り返ると、そこには小柄な老人が立っていた。老人の目は光を帯び、どこか遠い記憶を映す湖のようだった。藍田は言葉を返そうと口を開くが、声が出ない。代わりに、身体の奥から湧き上がる不安と好奇心が交錯した。老人はゆっくりと手を差し出す。
「選んでごらん。君に必要なものは、この中にある」
指差す先には、無数の本が整然と並ぶ棚があった。だが、どれもタイトルは藍田には読めない。文字は存在するが、意味を持たない。彼が一冊を手に取ると、ページの中の文章が微かに震え、ささやくように藍田の心に入り込む。その瞬間、奇妙な安堵を覚えた。ページをめくるたびに、自分の記憶や感情の断片が形を変えて映し出される。
「これは、?」
と呟く声は、自分自身のものでありながら、誰か別の者の声のようにも聞こえる。老人は静かに頷き、棚の奥に視線を送る。藍田はその先に、ひときわ大きな本を見つけた。表紙は黒く、触れると冷たい感触が手に伝わる。躊躇いながらも手を伸ばすと、文字が波のように揺れ、ページの間から微かな光が漏れた。
本を開くと、そこには街の風景が描かれていた。だが、見慣れた街のはずなのに、どこかずれている。建物の角度が少しおかしく、人々の影が静かに歪む。藍田はページをめくるたびに、自分の歩いた道、会った人、触れた物がすべて異なる世界で再構成されていくのを感じた。自分自身の記憶も、同時に変容していく。
やがて、窓の外の雨音が遠くなる。時間の感覚が消え、空間が溶けるような感覚が藍田を包む。目の前の世界とページの中の世界の境界が曖昧になり、彼は本の中に、あるいは本から生まれた世界の中に、溶け込むようにして立っていた。老人は静かに言った。
「君が探していたものは、ここにある。」
藍田はその言葉を理解するでもなく、ただ頷く。ページの中の風景がさらに変わり、彼の身体の輪郭も、存在の輪郭も溶けていく。光と影が交錯する中で、藍田は一つの感覚に辿り着く。それは、自分が何者かを知るためでも、世界を理解するためでもなく、ただ存在することの不思議さに、静かに触れる瞬間だった。
外の世界では、雨は止み、路地の水たまりに映る空は再び灰色に戻った。街灯は以前よりも高く光を放ち、夜はいつもの深さに戻っている。だが、藍田の歩いた道には、ほんの少しだけ、光の揺らぎが残されていた。誰かが見つけることもなく、消え去ることもなく、ただそこにある揺らぎ。世界と自分の境界が、微かにずれたまま。
藍田はゆっくりと歩き出す。胸の奥には、本の中で感じたあの光と影の感覚が、まだ静かに揺れている。歩くたびに、水たまりの灰色は波立ち、文字のように微かに震えた。どこへ行くかはわからない。だが、彼は歩くことをやめなかった。歩くこと自体が、世界との対話であり、存在の証明であるかのように。
街の雑音は遠く、時折聞こえる自分の足音と、雨上がりの匂いだけが、彼を現実に引き戻す。だが、藍田はもう、完全に現実に戻ることは望んでいなかった。彼の心には、光と影が共存する、揺らぐ世界の片隅が、確かに残っている。
そして、夜は静かに更けていく。街灯の下で、路地はまた新たな物語の入口となり、藍田はその扉を一歩ずつ踏みしめるように進んでいくのだった。