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🗝️🌙番外編 たまご焼きとささやかな日々
それは、特別な日ではなかった。
ただの、なんでもない平日の、なんでもない朝。
こはるは、早朝のキッチンで卵を割っていた。今日のまかない用――自分のための、たまご焼きだ。
卵を三つ。出汁を少し。塩と、ほんのわずかの砂糖。
火加減を確かめて、小鍋を温める。油を敷いたとき、鍋肌からふつりと湯気が立ち上った。
じゅう、と音を立てて卵液が流し込まれる。一呼吸ごとに、こはるの心が落ち着いていく。
たまご焼きを作るという行為は、なぜだか"自分の現在地"を確かめるようなものだ。
少し慌ただしかった日々、上手くいかない営業、思わず口喧嘩してしまった母との電話。いろいろな時間が、ゆっくり卵に染み込んでいく。
「…焦げないでよね。」
独り言のように呟きながら、こはるは箸で卵をくるくると巻く。
たまご焼きは、誰にとっても"我が家の味"がある。甘い派、しょっぱい派、出汁たっぷり派、焦げ目つき派――正解なんて、きっとない。
でもこはるは、いつも迷っていた。
祖母のたまご焼きは、出汁の香りが効いた、ほんのり甘め。口に入れると、しっとりとほどける優しい味。
――だけど私は、まだあの味を出せたことがない。
巻き終えたたまご焼きを切って、少し味見してみる。ふんわり、少し甘さが足りない。けれど悪くはない。
熱いお茶を淹れて、カウンターに一人で座る。静かな朝の、ささやかな食卓。
そのとき、ガラガラと音を立てて店の戸が開いた。
「おっと…やってるかい?」
現れたのは、新聞配達の帰りらしい年配の男性。スポーツ新聞を小脇に抱え、薄手のジャンパー姿で鼻を赤くしている。
「おはようございます。すみません、まだ開店前で…。」
「いや、構わない。食事じゃなくてね、ちょっと立ち寄っただけなんだ。実はこれ、ツヤさんに頼まれてたんだけど、もう渡せなくなっちまってな。」
そう言って、彼はポケットから小さな包みを差し出した。
「梅干しさ。あの人、俺の手作りが好きでね。"こはるに味見させな"って預かってたんだよ。半年以上前だけどな。」
「…ありがとうございます。」
包みの中には、小さなタッパーに詰められた自家製の梅干しが、きちんと並んでいた。
「このあいだ、あんたが握ったおにぎり。悪くなかったよ。」
にやりと笑って、男は手を振って帰っていった。
一粒の梅干しを、そっとつまんで口に入れてみる。
酸味のなかに、まろやかで深い味がある。祖母が好きだったのも頷ける味だ。
ふと思いついて、こはるは再び卵を取り出す。
今度は、祖母のレシピをまねて、出汁をしっかりきかせる。砂糖は多め。少しの醤油。そして、小さく刻んだ梅干しを中に忍ばせた。
――巻いて、巻いて、巻いて。
そうして出来上がった、少しだけ焦げ目のついたたまご焼き。
切ってみると、ほんのり赤い梅の粒が断面に覗いている。
ひとくち。
「…あ。」
それは、やさしい甘さのあとに、ほのかな酸味が追いかけてくる味。
どこか懐かしくて、でも自分の中から生まれた"新しい味"。
祖母のたまご焼きではない。でも、それでも――
「これが、今の私の味なんだな。」
そう呟くと、外の通りに、小学生の兄弟がランドセルを揺らしながら歩いていくのが見えた。
朝の町の風景。とりたてて、特別じゃない時間。
でも、そんな何気ない日々の中に、料理はそっと寄り添ってくれる。
たまご焼きは、心を巻く料理だ。
あたたくて、やわらかくて、ひとくちで思い出せる――だれかの優しさ。
"レシピは心でできている"
その言葉が、今日のたまご焼きの中で、ふわりと形になっていた。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
今回はコノンさんからリクエスト頂きました、"卵焼き"をテーマにお話を執筆しました。
次回は、『かぼちゃの煮物と月の夜』をお届けします。
お楽しみに。