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価値観と生き様と泣き顔と・2
午後九時。遠方にいても、主への報告書は欠かさない。バドバルマはランプをつけて、机に向かっていた。
こぎみゅん王国の国民と友好的な関係を築いてきたことを中心とした報告書をしたためた。ついでに明日の支度を済ませれば、九時半になっていた。
時間的にトレーニングは無理だが、ストレッチくらいはしてもいいだろう。そう判断したバドバルマは就寝前の軽いストレッチをしようと、イスから立った。
ベッドの中の気配が動いた。
バドバルマはベッドに向かって小さく声をかける。
「悪い。起こしたか」
「……いえ」
ミュンナは眠そうにまばたきをした。
バドバルマと同じ夜を過ごしたいミュンナは、事前に主の許可をもらい、城に帰らず、こうして宿に泊まっている。二人きりの、丸くて狭いテントの中に。
少ない家具だけでスペースがほとんど埋まっている空間でストレッチを試みるなど無謀だろう。外に出ようにも、一寸先は闇。思い直したバドバルマはストレッチをすっぱりとあきらめた。
ランプを消す。ベッドのふちに腰かけて、ミュンナの髪をすく。
「俺も寝る。狭くなるが、いいか?」
「はい」
端に寄ろうとするミュンナを、バドバルマは制止する。
「落ちるだろ。もっとこっちに……」
言いながら、掛け布団をめくり、中に入る。ミュンナを抱きこんで、背中をポンポンと軽く叩いた。
バドバルマはおそるおそる問いかける。
「寝にくくないか?」
覗きこんだミュンナの顔は、ふにゃりと笑っていた。
「いえ。気持ちいいです」
「……そうか」
安心しているのだと、全身で表現している恋人の姿。
他人の体温に命を預けたも同然の態度は、バドバルマからすれば違和感を覚えるもの。
その違和感の塊を、バドバルマは突き放せない。離せない。こうして抱きこんでしまう。
バツばかりの人生だった。
最近はマルをもらえるようになっているが、過去は変えられない。マルに飢えていた過去はバドバルマの精神に根深く残っている。きっと死ぬまで取り除けない。
だからバドバルマはミュンナに遠慮してしまう。生まれてすぐに愛されたミュンナの人生に介入しても良いのか? 底辺を歩いて生きてきたバドバルマにはわからない。
だからバドバルマはミュンナに嫉妬してしまう。どうせマルだらけの人生なんだろう、と一方的にミュンナを妬んでいた頃から、バドバルマは変わっていない。
だからバドバルマはミュンナから目を離せない。ミュンナの生き様すべてに惹かれてしまう。歪んだ恋だと自覚して、告白して、一度は拒否されて、でもあきらめられなくて、それほどまでに恋焦がれて──。
結局、バドバルマはミュンナが好きなのだ。
馴染みのなさも、不自然さも、違和感も、すべてをひっくるめて、好きになってしまったのだ。
不健全さに目をつむって、今日もバドバルマはミュンナの存在に感謝する。寛容な心におぼれていく。決して交わることがない現実に涙する。
「どうして泣いてるんですか?」
涙の気配を察知したミュンナが、バドバルマの腕をさすっている。本当は涙をぬぐいたいのだろうが、強く胸に抱きこんでいるバドバルマがそれを許さない。
ミュンナは小声で続ける。
「どこか痛いんですか?」
「わかんねえ。勝手に出ちまう」
「バドバルマさん」
「気にしないでくれ。頼むから」
「でも」
「頼むから、ミュンナ……。このまま、寝かせてくれ……」
わめくほどの涙ではないのだ。いずれ枯れる。
ミュンナはこれ以上、何も言わなかった。黙って、バドバルマの腕をさすり続けた。自分はここにいるのだと、主張するように。
やがて二人はまどろみの沼に沈んでいく。抱きこんでいたバドバルマの力は弱まり、さすっていたミュンナの手は止まる。
風は止み、虫の鳴き声が夜を彩る。国を見守る静寂は、交わらない二人をやわらかく包んでいた。
朝日が昇る前に、バドバルマは目を覚ました。目覚まし時計が無くとも、体内時計は正確だった。
バドバルマは眠ったままのミュンナをゆっくりと離す。涙の跡が残っているであろう自身の目元を、音を立てないよう慎重にぬぐう。ほんの少しスッキリした目を何度もまたたかせてから、ようやくベッドから抜け出した。
寝巻きから普段着に着替えて、軽く身づくろいを済ませる。ミュンナを残して、ランプを片手に宿から出る。誰もいない手洗い場で、冷水を頭からかぶった。寝癖ごとしなびた髪は、いつものバドバルマの髪型とはまったく違う。ガシガシと手でかき回して、乱暴に乾かした。
丸太のベンチに座り、生ぬるい風にしばらく当たる。
真っ黒だった空に濃紺が見えてきた。
濃紺は徐々に薄くなっていく。
国民たちが起きてくる頃になり、ついにバドバルマは重い腰をあげて、宿に戻った。
ミュンナはベッドの中で横向きのまま、まばたきをゆっくりと繰り返していた。眠いけど、眠り直したくないという様子。彼の体内時計も正確で、七時になるまで起きたくなかっただろうに、こうして健気にバドバルマを待っていた。
バドバルマは掛け布団越しにミュンナの肩を撫でる。
「おはよ」
「おはようございます」
「まだ寝てていいぞ」
「バドバルマさん。ミュンナ、思ったんです」
死刑台に登っていく心地だった。バドバルマはそれをおくびにも出さず、ミュンナの言葉を待つ。
ミュンナはふたたび口を開く。
「誰にだって隠したいことはあります。心のすべてを明かしてほしいだなんて言いません。だから、また泣きたくなったときは、ミュンナに会いにきてください。ミュンナがそばにいます」
バドバルマは言葉に詰まった。何を言えばミュンナの恋人らしくいられるのか、まったくわからなかった。
だから真っ先に伝えたいことを、そのまま口にする。
「だったらミュンナが泣きたくなったときは、俺に会いに来い。そばにいると約束する」
はたしてこれは正解の返事だったのか? ……答えが見つからない思考を続けるなど、バドバルマの性に合わなかった。
バドバルマは布団ごと、ミュンナを抱え起こした。
布団の分、体積が増えた存在をぎゅうと抱きしめる。
「お前はいつ泣くんだ?」
「今じゃないですね」
「そりゃよかった」
恋人の泣き顔など、すすんで見るものではない。
……ああ。とバドバルマは納得した。
だからミュンナはバドバルマの涙をぬぐおうとしていたのかと。
あと数時間もすれば、バドバルマはこぎみゅん王国を出て、バッドばつ丸王国に帰る。
次に会うのはいつになるのだろうか。
叶うのなら、どちらかが泣きたくなったときではなく、どちらも会いたいと思ったときであってほしい。そうバドバルマは願う。
もうじき訪れるしばしの別れを惜しむように、バドバルマはミュンナの髪にくちびるを寄せた。
泣きそうな顔で笑ったミュンナの表情に、バドバルマは気づかない。
(終わり)