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【曲パロ】ノマド
大変お待たせしました。リクエストありがとうございました。
ノマドは放浪民という意味らしい
ぼやけた音が、耳から遠ざかる。
それは蓄音機だった。針の動きが緩慢になり、現実逃避はついに私からも逃げてしまった。
ソファチェアから眺める景色は相も変わらず。淹れたコーヒーはぬるいものの、独特の匂いを漂わせながらカップの中で揺蕩っている。出口がないようにも感じられる部屋だ。湯船に溜まった湯のような気怠さと一抹の心地よさが私に纏わりつき、再び音楽を流すこともしなかった。
休憩、といえば聞こえはいい。その実は停滞で、まだ私は見習いの身分なのであった。
絵を描くというのは、随分と気の遠くなるような作業である。ひとつ産むにあたっても、私はかなりの時間を要する。それは他の画家との比較でもあるし、描いている自分自身が何者か分からなくなることが多々あるから、でもある。
ともかく、遠く遠く、目的地が見えないまま歩き続けることと同義なのだ。自分と同じ、それかもっと若い同業者が才を認められ、あっという間に華々しい肩書きがつくことを、私は眺めているのみだった。
私がかつて憧れた夢追人とは、随分と苦しいものなのである。
イーゼルを眺めた。今日も進捗は芳しくなかった。当然だ。今日は一度も絵筆を取っていなかったのだから。
この部屋の絵だった。技法を真似、部屋を今ある資金でモチーフとして素晴らしくなるように飾りつけた。それでも何かが足りないような気がするのだ。まるで、見えざる高い壁があるかのようで、ここから先に進めない。そのため、白い部分にぽつぽつと色が載せられているばかりで、到底展覧会に間に合うとは思えなかった。
いったい私は、いつまでこのままなのだろうか。どうなるのであろうか。中途半端なまま、波に流されるのか。答えを探ろうとしてみるものの、やはり頭が痛くなる。目をキャンバスから逸らせば、にわかに玄関が騒がしくなった。おそらくは郵便物が届いたのだろう。
私はそれを受け取るために立ち上がった。歩き出そうとして姿勢を崩した。よろめきながら扉を開き、ぼろアパートの備え付けである、ぼろのメールボックスを開いた。片方は家賃滞納の知らせだった。副業をするわけでもなく、ただ引きこもっていたので当然だ。あと一月ほど家賃を払わなければ退去である。数週間後の展覧会で結果を出せば免れるだろうが、頭が痛い。
ではもう一枚はというと、母からの手紙である。落胆した。それなら、いつもの内容だろう。
こんなことはさっさと辞めて、安定した職業に就いた方が、はるかに楽なのでないか。いったい画家を目指して何年経つのか。あなたにうまくやれることは他にあるだろう。これはあくまでもあなたの為を思ってのことである。優しさである。
きっとそんなところだろう。きっと彩りを添えるようなものではない。下らない。
さて、それをまたしても言われた私は、おとなしく諦めるのだろうか。まあ、答えは分かり切っている。
今辞めるというのは、どうにも気持ちが治らないのだ。なんとかはしたい、けれども、納得のいく終着点が見えない。とにかく何か、はっきりとした終わりを見せてくれれば、私はそれでいいのかもしれない。
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革靴が地面を叩く音だけが、静かな館内に響いている。見えるものも額縁に入れられた絵画、彫刻、まれにスケッチ、といった具合である。スケッチも含め、かなりの価値があるものばかりだ。審美眼が磨かれることだろう。
訪客も皆魅入っている。何が人を惹きつけるのかまだ私には分からないけれど、私にも書けるように見えるものだって、なぜだか綺麗に見えるのだ。
宝物に囲まれながら、私は奥を目指す。もう少し、あと少しすれば、またあの絵に会える。
そうして、私は展示室の開け離れた扉を通る。いくつかの絵の中、向かって左にあるのは私淑するーー
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そんなところで、目が覚めた。ぐらりと地面が揺れたからだ。ほんの軽い揺れだったが、私の部屋を破壊するには十分だったようで、どさどさと音を立てて本が雪崩れた。戻す気力はない。
欠伸を噛み殺しながら腕を伸ばす。凝り固まった体をほぐし、中身が溢れたコーヒーカップを手に取った。水面が少し濁っているようにも感じられて、飲む気にはなれない。仕方がないので、私は流しにコーヒーを捨てた。もう何度目だろうか、苦い独特な香りがキッチンに染み付いてしまった気がする。
夢を思い返す。あれは確か、画家を目指し始めたころの思い出だ。言うなれば、|夢《・》を|夢《・》として追体験する、というのはなんとも不思議な感覚である。昔は純粋に絵が好きだっただけだったはずだ。確かに、いろいろな作品を見てきた今の私でも、美術品を見て回る足取りは軽く、あの中でなら嫉妬心だとか、自らへの落胆だとかは浮かんでこなかった。
では、今はというと、そういうわけにもいかないのである。
時刻を確かめれば午前一時。眠り過ぎて頭痛がするので、数時間後なのか、一日後なのか、はたまた三日後なのかは知らない。一週間、ということはなかろう。ともかく深夜である。閉め切ったカーテンの向こう側も真っ暗で、目の前でか細く揺れるキャンドルの光が頼りになる時間帯であるものの、芯は短く、もう卓上のキャンドルは使えそうにない。
眠気が消え失せたものの、特にやることもない私は絵筆をとった。あくまでも持つだけだった。バケツから取り出した後なので、鮮やかな色のついた水が、ぽたり、ぽたりとカーペットに垂れた。元は一色であったのに、点描画のようになってしまったそれを眺め、筆を下ろす。もし完成したとしても、スケッチからは乖離してしまうだろう。
改めて、あたりを直視した。凄まじい光景だった。強盗でも入らなければこんなことにはならないのでないか、と思うほど、物が散乱していた。あいにくこちらは一月後の住処にも困る貧乏人なので、間違いなく私が為したことである。
買い揃えた画集や本は、変わらず床に山積している。
天上から吊り下げた花々は、とうにドライフラワーと化して紙屑のような花弁を撒いている。
植木鉢の観葉植物は、しばらく水をやっていないので枯れている。
古株である緑の外套は、ラックごと地面に倒れ伏している。
この部屋で一等高価な蓄音機は、つい先ほどがらくたになってしまったようだ。
目を逸らし続けていたが、スケッチしたころとはまるで違う光景である。かつてあった綺麗な画をそのまま写し取ることはできないだろう。乾いた笑いが漏れた。
ここが、ちゃんとした死に場所なのだろうか。
いてもたってもいられなくなって、片付けをすることにした。本を部屋の隅に押しやり、溢したコーヒーを拭き、テーブルを売り物になるよう寄せ、植木鉢の土をかき出し、無事だったライトもしまい、蓄音機も棚も解体して、花とカーテンをむしった。窓はただの穴になった。床に座る、ましてや眠るのは流石に体を痛めそうなので、ソファチェアだけは残した。それでようやく、私のたった一つの部屋は、何もなくなった。おそらくはこのまま退去しても、文句は言われないだろうというくらいには、部屋はすっきりとした。
気の遠くなるような時間がかかったように見えたが、濁った夜の上、申し訳程度に星が瞬いているばかりだったり夜明けはまだだ。
これで本当に良いのであろうか。納得、できるのか。私はなぜ画家になりたかったのか。原点を辿り、思い返す。随分と久しぶりのことだった。
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絵筆が柔らかにキャンバスから離れた。立ち上がって、ため息をつく。見えるものは数枚の絵だ。荒い部分も多く、とても価値のある絵画には見えない。
それでも、満ち足りていた。間違いなく、無知であったころよりは、私は巧みになっているからだ。綺麗に見えるからだ。
宝物に囲まれながら、私は奥を見遣る。そこにあるのは、頼み込んで貸してもらった絵である。
減算の向こうにある美しさ。質素でありながらも、付け足すものはない。どんなことを思って描いたのかは、今の私にはまだ理解できない。それでも、描きたいものを実直に描いた、どこまでもまっすぐな画なのだろう。
私は、それに確かに憧れた。
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ゆっくりと咀嚼するように光景を思い描く。ひどく無関心だった私にとって、初めてのことだった。ついに私にも愛する何かができたのだと心の底から思えて、敷いたレールから外れる無謀な勇気が生まれた。
重いイーゼルを、部屋の隅から持ち出した。肉体労働の後だったので、引きずる形になってしまったけれど、今度はまっすぐ見つめる。今の絵は、あの頃よりも拙い。何がと問われても、はっきりと答えられるわけではないが、足りないものが見えた。決して曖昧ではない。
私は、もう一度絵筆を取った。流れ落ちてくる液体は涙なのか汗なのかはっきりしないが、とにかく、私はそれを拭うことをしなかった。視界は濁るものの、すぐに昇華されていくようだった。現実味を帯びているのに、熱に浮かされたような、ふわふわとした感覚である。絵の具だけがくっきりと、好ましく映えた。
きっと良い画が描ける。
停滞していたのが嘘みたいに、眼前には見事な絵画があった。この部屋の絵だ。壁と窓と椅子しかない。完成図なんて壊してしまったけれど、これが良い。どん底の夢の中でも、私は描き切れた。これが私の示したいものだった。
展覧会には出す予定だったが、これを一人で味わっていたい気もする。私にとっての宝物だと分かっていれば、もう何もいらない。定住せず放浪するのも悪くないだろう。私はおそらく、そういう性分なのだ。芽が出るかは関係がなかったのだ。愚かと言われても良い。今を、私は絵を描いて生きたい。それだけだ。
そうして、満ち足りた気分のまま、私は目を閉じる。私の憧れとイーゼルが重なって、澄んだ暗闇に、ついには溶けた。