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天使のピアノは二度鳴らない
クオリアが新たな旅立ちの日に音響動力機関を高鳴らせていると響が現れた。
ラマンと奏を厳しく睨み。口を開いた。エリート楽士にあるまじき行為。
しかし音圧のエスカレーションに抗うには言葉の暴力しかない。だから響は恥を忍んで思いの丈を声にした。
「あのね、俺には『護ってやる』と言っておいたけど、これは……」 とラマンの背中で控えている娘を目にした後、ヴィオラを手にした。そして奇棲の歌を口ずさむ。
”…………”
ラマンが目を丸くした。そして二言三言、合いの手を入れる。
”――『…………』”
するとまた、響が返歌で応じる。
「……っ(涙を浮かべ)」
ラマンは機上にくずおれた。
「えっ、あ、はい……」
奏も目を丸くする。
” ―― 今のは忘れ……―― ――” というのが彼女の口癖だった。
響は、やはりそういう事だったのかという趣旨を唄った。
奏は首を振るがラマンは蛇に睨まれた蛙のようだ。
「それがね、あなたたちが『覚悟』として、俺を呼び出してくれた場合ならば、その後で俺たちが実行すると提案してくれてるものなんだ。
その時、あなたは『誰かを愛すればその瞬間まで覚悟は揺れる。彼女たち俺を見るとき、俺はかすかにその覚悟を受け取り、彼女たちとの交わりを望んでいる、と思っている』
本当は彼女がこう言うまでは俺の顔なんて思ってなかったよ。 本当は、俺が誰のものになったのかわからないけれど――」
響がヴィオラを力いっぱい弾いている。曲目はヤドリギ男の歌だ。
”…………”
ラマンは返す言葉がない。その顔は赤らんでいる。
なんだかんだ言って彼女は「女性《おんな》」だ。男の言葉に心が揺れる。
”――でも、君がいれば安心だと思うから言っておく。
――僕はね、君が言い出すのを待ってるんだ。
”………… ―――― ―――――”
奇棲の女は感情の起伏を奇声で表現している。言葉にできない想いを奏は全身で受け取った。
そして二人に関係を問いただす。
――――『どういう、つもりで?』
”『………………』”
「『…………』 …………」
………… ――
楽士の男と奇棲の女が不協和音で意思疎通している。奏にとっては信じがたい光景だった。しかし、どんな音よりも目に見える形は説得力がある。
「えっと……」
何て?
奏は身振り手振りで尋ねた。音楽と歌のせめぎ合いに肉体言語で割り込む。
「それって……何ですか?」
大仰なジェスチャーで二人に問うた。
ラマンが歌い、響が弾く。
「うん……『誰かを愛して、誰かを想って、誰かを愛すること』」 ≠ ≠ ≠ ≠ ≠ ≠
「誰かを……想う……こと」 ≠ ≠ ≠ ≠ ≠ ≠ ≠
この二人、何を言ってるんだろう……?
奏は大きく腕を振り上げ脚をのばす。スカートの裾がふわっと腰まで浮く。
女が祇音の言葉でおずおずと言った。
「えっと、あの…… 誰かのことを……?」
「うん。 『誰かを想うこと』」
男が肯定する。
誰かを…………想う……こと?
奏の身振りをラマンが受け止め、こう歌った。
「……誰かを、想うこと」 ≠ ≠ ≠ ≠ ≠ ≠ ∑
「え?」
響が首をかしげる。
” ‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘‘… ―――”
ラマンは首を振り、再び叫んだ。
「……え、え……?」
奏には二人のやり取りの向こう側がようやく透けて見え始めた。
祇音と奇棲が互いを必要としているなんて…。
そう身振りした瞬間、ラマンは肺を振り絞った。
―――――――――
「『……? でも、あれはお金じゃない。
誰も幸せになんかならない、ということを知って』 」
クオリアの出力が全開になる。着陸ギアが今にも折れそうだ。
”(…………―――――――――――――――――――――――――――――――――――… ――――――――?」
響はラマンの意見を曲げようと狂ったようにヴィオラを弾く。
”≠ ≡≦≦≦≦≦≦≧∠ ≤≦≦≦≦≦≦≦≦≧∠≡≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≧∠―――― ――
≠ ≡≦≦≦≦≦≦≧∡≦≦≦≦≧∠ ≤≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦
そしてラマンの声帯が震える。
「えっ…… 誰かが……想うようなこと、なんですか……?」
響が言葉尻を捕らえる。
” ………… ――― ――――――……… ―………… ――――――………………… ≠ ≠ ≠ ≡≦≦≦≦≦≧
ラマンは目じりを光らせながら歌った。
「え……じゃ……俺……誰かのことを、想うことはできない、とか なんですか……?」
≡≦≦≦≦≦≥≦≦≦≦≦≦≧∡≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦
ラマンは身もだえし、落涙を輝かせる。
「いや……そういう事は良くないと言うんだ……」
響がヴィオラの音階を下げた。スローペースで唄う。
≠ 誰かからの気持ち 想う気持ちに、自分の心が応える、と言う言葉を、俺は理解できない!?
自分の想いに、他者の想いに、意識だけでは対応できない、という俺の、そんな感覚が、理解出来ない!?
「なんだってんだ…… 俺の想いには」
そして響は、自分の想いについて、考えた。
「自分の想いは、自分で答えを出せ、なんだな。
どうして、こんな想いばかりを募らせる?
俺の想いでは、答えを出せない、ということか?
俺の想いが、自分で答えを出さない、だと?
そんなのは、認められないだろう!?
だって自分勝手だ、なんだよ!?」
クオリアは静まり返っていた。二人の女はじっとたたずんでいた。
スカートはしぼんでいた。風は凪いでいた。時間が停まっていた。
響はラマンを見やり奏に視線を投げた。
舌で乾いた唇をなめ、白い歯を見せた。
「俺は…」
ヴィオラを地面にそっと置き、言葉をつむいだ。
「俺の感情と心を制御したいだけなのに。それすら許せない。
だから誰かを、愛したこともない俺が、誰からも受け取れないのは、仕方がないのか。そうなのか? それは違う。違うはずだ! 俺は、その想いが欲しかった。欲しくないわけがない! 誰かに求めて欲しいと思ったことがないなんて言えない!言えたはずもない!
(ああ、わかったぞ)
誰かを愛したいと願ったことがあるからだ。
愛されたかったことがあったのだ」
そしてラマンのもとに駆け寄り、奏の腰に手を回し抱き寄せた。
「あなた…」
奏が響をみつめ、「貴女…」、ラマンが奏に微笑む。
響は二人の髪を撫でて優しく告げた。
「もう戦騒《せんそう》は無いよ。ヤドリギ男は宿木を見つけたからね」
彼は本当の身分を明かした。<正弦>の要員、それが偽らざる姿だ。
祇音と奇棲の上層部は大規模な戦いを予定していた。それは互いが混じり合うやむを得ない手段だった。両者は融合を求めていた。戦火は莫大な被害と膨大な犠牲をもたらすが対立を解消する究極の選択である。
当初の作戦ではラマンが奏を篭絡し亡命を計る。響が阻止に失敗し傷つく。
<正弦>の隊員が怪我を負った事実を攻撃とみなし祇音は正式に反撃を開始する。両陣営は音楽を、歌を、曲を、歌い手を、演奏者を、道具に堕落させたのだから、物理的な問題解決でかたを付けるべきであると結論した。
しかし土壇場になってラマンが翻意した。
歌が人を幸せにしない、ということはない。祇音にも奇棲にも何かしか足りない部分があった。それを響が土壇場で発見し埋めたのだ。
「わたし、あなたの身振り手振りを見てわかったの。あれは奇棲の女がやる動きよ」
ラマンの気づきを奏がおぎなう。「歌や楽器でないもう一つの表現があれば対立することもないのにな、とずっと思ってた」
響はうなづいた。「ああ。<正弦>はその可能性を探ってた。だから俺も内心はハラハラドキドキだった。この作戦を請けたときは怖かった」
ラマンは言った。「だが、響はその答えにたどり着いた。そして、奏に恋をした。奏を愛してる」
「あ……はい」
奏は照れてうつむく。「ありがとう」
ラマンが奏の肩を抱いた。「奏の想いは、奏が決めるんだ」
「はい」
奏はうなづく。「……でも、私にできるかしら」
「大丈夫だよ」
響はうなずき、奏の手を握った。「奏の想いは奏のものなんだから」「うん、うん!」
奏はうなずき、ラマンに抱きついた。「でも、でもね、私の想いは、私が決めます」
「はい」
ラマンが奏の頭をなでる。
響が二人の手を取った。「行こう。バックステージへ。奏の母さんの所へ」
すると潜んでいた<正弦>隊員や奇棲たちがあらわれた。
世界が高らかに祝福してくれている。
「行こう」
三人が歩き出した。
ラマンは言った。「俺たちも、もう戦う必要はないんだな」
響は答えた。「そうだよ。もう誰も傷つけなくていい」
ラマンが響を抱き締めた。「ありがとう。本当にありがとう」響は笑った。「礼を言うのはまだ早いさ」
奏は振り返り、母を見た。
彼女は静かに佇んでいた。
彼女の目は涙で潤んでいた。
奏は胸の前で手を組み、深く頭を下げた。
「行ってまいります。お母さん」
奏の声は震えていた。
ラマンと奏が去った後、奇棲たちは撤収を開始した。
その途中で、ラマンがつぶやく。「響には、感謝してもしたりない……」
「あの人は、自分が欲しいものを手に入れた。ただそれだけの事です。気に病むことはありません」
「そうか……。そうか」
ラマンは目を閉じた。
彼は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。「俺は、俺の感情を制御したいだけだ。俺の想いが自分で答えを出せないなんて、認めない」
奇棲たちが去っていく。
奏の母は一人、立ち尽くしていた。
奏の母は声を上げて泣いた。
奇棲の隊員たちも涙を流した。
その光景を遠くから見て、祇音は思った。
「これで良かったのか?」
奇棲の指揮者が祇音に聞いた。「祇音さん、貴方ならどうしました? どんな判断を下しました? 我々は間違っていたのでしょうか? 我々の戦いは無意味だったのですか?」
祇音は首を振った。「私は君たちと同じ意見だ。だが、響の決断が早すぎた。もっと時間をかけて考えるべきだったのかもしれない。しかし、今となっては……」
「そうですね」
奇棲の男達は肩を落として帰って行った。
祇音の耳に、微かな歌声が聞こえてきた。
それは奏のものだった。
歌っていたのは<正弦>の歌だった。
祇音は天を仰いだ。空は青く澄み渡っている。
「響、君は正しい選択をしたんだな」
祇音は言った。
そして彼は、自らが指揮する奇棲の部隊に向かって叫んだ。
「撤退せよ! 撤退するぞ!」
奇棲の部隊は一斉に踵を返し、奇棲の街へと駆けていった。
奇棲の楽団が解散し、奇棲の街は無人となった。
しかし、奇棲の男は、奇棲の女は、奇棲の子供は、奇棲の老人は、歌い続けた。
彼らは歌い続けるだろう。
彼らが歌い続ければ、いつか奇棲が帰ってくる。
その時まで。
響は奇棲の街の外れにある墓の前にいた。
奏の母のものだ。
奏の母はここに眠っている。
墓石は苔生し、雑草に覆われ、長い年月を偲ばせた。
響は花束を置き、手を合わせた。
奏の母は奇棲に殺された。
奏の父も死んだ。
奏は独りになった。
響は思う。俺と出会わなければ、奏はこんなに苦しまなくても済んだのだ。俺と出会わなければ、奏は今も奇棲で歌を歌い続けていたに違いない。
奏の幸せを奪ったのは自分だと、響は自分を責めた。
「ごめんな、奏」
響はつぶやいた。
すると後ろから足音がした。
振り向くとそこにはラマンがいた。ラマンは言った。「奏の本当の願いは、何だと思う?」
「え?」
響は戸惑った。「どういう意味だよ?」
「奏は、奇棲が幸せな世界になることを願っている。奇棲のみんなが笑って暮らせるように、そう願ってるんだよ」
響はハッとした。
奏は言っていた。
自分は奇棲のみんなの笑顔のために歌うのだと。
奏はいつも誰かのことを想っていた。
自分のことより、相手のことを優先して考えていた。
そんな奏だからこそ、<正弦>として、奇棲の代表として、人々を導くことができたのだ。
響は言った。「俺、奏の気持ちをわかっていなかったんだな」
ラマンはうなづいた。「ああ」
響は言った。「奏は優しいよな」
ラマンが苦笑する。「優しすぎるよ」
「そうだな」
響もうなづく。「でも、俺は奏のそういう所が好きなんだ」
ラマンは微笑む。「ありがとう」
響は奏の墓を見つめる。「きっと奏なら、奇棲が平和になる未来を思い描いてくれると思う」
するとラマンが言う。「奇棲には、音楽が必要だ」
「そうかもな」
響は空を見た。青い空が広がっている。
その空の向こうには、奇棲がある。
奇棲には音楽が必要なのかもしれない。奇棲の人たちが安心できるような、心の拠り所にできるよう、奏のような存在が必要なのだ。
奏の歌を聴きたい。
奇棲の人々を励まし、勇気づけるような、奏の音楽を。
響はラマンを見る。「奇棲の人達を集めてくれ」
ラマンは首を傾げる。「何をするつもりだ?」
「奏が望んでいるのは、奇棲が平和になって、みんなが笑うことだ。奇棲に音楽を取り戻せば、奏の望みは叶うんじゃないのか?」
「なるほど、一理あるな。やってみよう」
「頼むぜ!」
響は歩き出した。
奏の母は、奇棲の街の外れにある墓地に眠っている。
そこは街の人々の共同墓地だった。
奇棲の人々は、この墓地に眠る奏の母を、母として慕っていた。奇棲の指揮者は、奇棲の指揮者だった頃の記憶を失っていた。
奇棲の指揮者だった頃の記憶は、彼の脳裏から消え去っていた。
奇棲の指揮者だった彼は、奇棲の街の人々に慕われていた。
しかし、奇棲の指揮者だった頃の彼は、奇棲の民を導いていた。
奇棲の民は彼に信頼を寄せ、ついてきた。
奇棲の指揮者は奇棲の指導者として、奇棲の民を導いてくれた。
だが、今は違う。
奇棲の指揮者は記憶を失い、ただの人間になった。奇棲の指揮者は奇棲の民に必要とされなくなった。
奇棲の指揮者だった彼は、奇棲の指揮者であることをやめた。
奇棲の街の人たちは、奇棲の指揮者のことを忘れ、彼を必要としなかった。
しかし、奇棲の指揮者は、それでもなお、奇棲の街で歌を歌い続けた。
奇棲の街の人々が笑えるようになるまで、奇棲の民が心安らかに過ごせるようになる日まで、奇棲の街のどこかにある、奏の母の墓石の前で、歌い続けるつもりなのだ。
奏の母は、奇棲の街の外れにある共同墓地に眠っている。
奇棲の街では、人々は共同墓地に眠っている死者を弔う習慣があった。
奇棲の指揮者である奏の父は、その習慣を守り続け、奇棲の民を見守っている。
奏の父もまた、奇棲の民から慕われていた。
奇棲の指揮者であった奏の父が、奇棲の指揮者であることをやめたのは、奇棲の指揮者であったことを覚えていないからではない。
奏の父は、自分が奇棲の民に好かれていたことを知っている。奇棲の民が自分を頼りにしていたことも知っている。
奇棲の民が自分に期待していることにも気づいている。
しかし、奇棲の指揮者であり続けることで、奇棲の民を幸せにすることはできなかった。
だから、奇棲の指揮者であることをやめたのだ。奇棲の指揮者であった奏の父が、今、奇棲の墓地にいる。
奇棲の指揮者は、奇棲の民のために歌を歌い続けている。
奇棲の指揮者は、今日も墓の前に立つ。
そして、歌い始める。
その歌声は、空高く響き渡る。
奏の母と、奏が眠る共同墓地に向けて、奇棲の指揮者は歌っている。
奇棲の民は奇棲の指揮者を見ている。
奇棲の指揮者は歌う。
それは鎮魂歌のように聞こえる。死者を弔うための歌。
奇棲の民は奇棲の指揮者を見ている。
奇棲の指揮者は奇棲の民の視線を感じながら、奇棲の墓地に眠る奏の母を想いながら、奇棲の墓地で歌い続けていた――。
* *
* * *
奏が目を覚ます。
奏はベッドの上で横になっていた。
奏は目を開ける。
奏は身体を起こす。
「ここは……」
奏は呟く。
自分は奇棲にいたはずだ。
奇棲の街を歩いている時に、奏は誰かに声をかけられた。その声は奏を呼んでいた。
奏は振り返った。
そこには、奏のことを見つめる少女がいた。
奏はその少女に見覚えがあるような気がした。
しかし、思い出せない。
奏は不思議そうに首を傾げる。
すると、少女は言った。「奏さん」
奏は驚いて、少女を見る。「どうして私の名前を……?」
少女は微笑む。「奏さんのことは、よく知っています」
奏は首を傾げる。「私を知ってる? どういうこと?」
「私は、あなたと同じ、奇棲の住人です」
「えっ!?」
奏は驚く。
「私が誰なのか、知りたいですか?」
奏は戸惑う。「教えてくれるのなら、是非!」
奏がそう言うと、少女は自分のことを話し始めた。自分の名前はラマンだということ。
ラマンは奇棲で生まれた人間だった。
ラマンは幼い頃に両親を亡くした。
両親は奇棲の外の世界で暮らしていた。
しかし、両親が事故で亡くなり、残されたのは幼いラマンだけだった。
そんな時、ラマンの親戚だという男がやってきた。その男はラマンが成人するまで面倒を見てやると言い出した。
ラマンは男に引き取られることになった。
ラマンは男の家で暮らすことになった。
しかし、ラマンは孤独だった。ラマンは奇棲で生まれ育ち、奇棲の中でしか暮らしたことがなかったからだ。
ラマンは外に出ることを許されなかった。
そして、奇棲の中では、ラマンは異分子として扱われた。
ラマンは奇棲の人たちから嫌われていた。
奇棲の人々は、自分たちとは違う存在として、ラマンを嫌っていた。
奇棲の人々は、ラマンに冷たい態度を取ったり、ひどい言葉をぶつけたりして、ラマンを傷つけようとした。奇棲の人々には、ラマンを受け入れようとする気持ちはなかった。
奇棲の人々にとって、ラマンは恐怖の対象だった。
ある日のこと、奇棲の街で殺人事件が起きた。
殺されたのは、奇棲の街に住む人間の一人だ。
被害者の名前は分からない。しかし、被害者の遺体は奇棲の街の共同墓地に埋められ、奇棲の墓地に葬られた。
奇棲の人々は、奇棲の墓地に眠る死者を弔う習慣があった。
奇棲の指揮者である奏の父も、その習慣を守り続けてきた。
そして、奇棲の指揮者である奏の父が、奇棲の墓地にいる。
奇棲の指揮者である奏の父が、奇棲の墓地で歌っている。
奇棲の墓地に眠る死者を弔い続けるために、奇棲の指揮者であり続けることを選んだ奏の父が、今もなお、奇棲の墓地に立っている。
奇棲の指揮者であった奏の父は、今、奇棲の指揮者であることをやめている。
奇棲の指揮者であることをやめた奏の父が、奇棲の墓地で歌い続けている。
奇棲の墓地に眠る、奇棲の民の魂を慰めるために、奇棲の墓地に響く鎮魂歌のように聞こえる歌声が、奇棲の墓地に響き渡っている――。
* * *
* * *
* * *
* * *
* * *
奇棲の墓地にある墓石の前に、一人の少年が立っていた。
その少年の名は、奏という。奏は墓石の前にいる。
奏は墓石の前に立ち尽くしている。
墓石の前には、花束が置かれている。
奏はじっと、墓の前に佇んでいる。
奏は墓の前で手を合わせている。
奏は目を閉じている。
奏は墓に向かって語りかけている。「母さん……」
奏は墓石に話しかけている。「俺は今日、高校を卒業したよ」
奏は墓に向かって話しかけ続けている。「卒業してから、すぐに、この霊園に来たんだ」
奏は墓石に向かって話し続けている。「ここに来るまで、ずっと迷ってたけど……」
奏は目を閉じたままで、墓石に語りかける。「やっと、決心がついた……」
奏は目を開けた。奏は真っ直ぐ前を見た。
奏は墓石を見ている。
奏は微笑みを浮かべている。「俺さ……、もう大丈夫だよ。心配しないでいいから……」
奏はそう言って、立ち上がった。
奏は空を仰いだ。奏は空を見ている。
奏は空に手を伸ばしながら呟く。「だから、安心してくれ……。これからは、俺一人で生きていくから……」
奏はそう言いながら、歩き出す。奏は振り返らずに歩いていく。
奏は後ろを振り返ることなく、奏は歩いていった――。
「奏さん」
奏は名前を呼ばれて、振り向いた。
そこには、奏のことを見つめる少女がいた。
奏はその少女に見覚えがあるような気がした。しかし、思い出せない。
奏は不思議そうな顔をする。「あなたは……?」
すると、少女は微笑む。「私はラマンです」
奏が目を大きく開く。「ラマン!? どうして君がここに!?」
ラマンは答える。「私は奇棲の住人です。奇棲で生まれ育ちました。そして、今は奇棲を離れています。私は奇棲を離れて、外の世界で過ごしていました。でも、奏さんのことが気になって、こうして戻ってきてしまいました。また奇棲で暮らすことにしました」
奏は戸惑う。「私に会いに来てくれたの? わざわざ奇棲に戻ってきて? どうしてそんなことをしてくれたの?」
ラマンは微笑む。「それは、奏さんのためですよ」
奏は首を傾げる。「私のため? どういうことなの?」
ラマンは答える。「奏さん、あなたは自分の意思で、奇棲から離れようと思ったのではないのでしょう?」
奏はラマンの言葉を聞いて驚く。「えっ、私の考えが分かるの?」
ラマンは微笑んで、「はい。分かりますよ。だって、私たちは同じ境遇に生まれた者同士ですもの」
奏はラマンを見る。ラマンは奏の目を見て、優しく微笑んでいる。
ラマンは言う。「奏さん、あなたのお気持ちはよく分かっています。でも、ご両親を亡くされた時のような思いをするのは嫌なのでしょう?」
奏は黙ったまま、ラマンの言葉を聞いていた。ラマンが続ける。「奏さんのお父様とお母様が亡くなった時は、とても悲しい出来事でした。奏さんは奇棲の街の人々から冷たい態度を取り続けられたり、ひどい言葉をぶつけられたりして、辛かったのではありませんか?」
奏はうなずく。「うん……」
奏はうつむいている。「母さんが死んでしまったことは、今でも悲しく思っている……」
ラマンはうなずいて、優しい口調で言う。「そうですね。奏さんはとても辛い思いを抱えていらっしゃいましたものね……。でも、奏さんには私がついています。奏さんには、私がそばに付いています。私だけは、奏さんの味方になります。奏さんが寂しい時には、いつでもそばに寄り添ってあげたいと思います。奏さんが苦しくてどうしようもない時にも、奏さんの力になりたいのです。だから、どうか、奏さんも私の力になってくださいませんか?」
奏は驚いている。「君の力が……、俺に必要だというの……?」
ラマンは真剣な表情をしている。「はい、そうです。奏さんが一人きりになってしまうと、また、あの時のように、心が壊れてしまうかもしれません。奏さんが辛い想いをする姿は、もう見たくありません。奏さんが苦しんでいる姿を見ていると、胸が張り裂けそうになるんです。お願いします、奏さん。もう二度と、あんな苦しい姿を私に見せないでください……」
ラマンは泣き出しそうな顔をしている。ラマンは目に涙を浮かべている。
奏は呆然としている。「ラマン……」
ラマンは涙を流しながら、笑顔を浮かべている。「奏さん、これからは、二人で一緒に生きていきましょう。私たち二人なら、きっと幸せになれるはずです」
ラマンは奏の手を握った。「さあ、奏さん、行きましょう」
ラマンは奏と一緒に歩き出した――。
* * *
―――これは、夢だ。
奏は思った。
眼前の風景は夢の中の出来事。
ただ眺めているだけで、意識の中で巻き起こる出来事。
奏は目を醒ました。天井を凝視した。まぶたを閉じ、再び眠りに就いた。
「……さん」
誰かの声が響く。
「……いさん」
声が耳に届く。
「奏さん!」
突如、大声で名を呼ばれて、奏は驚いた。
瞳を開けると、ラマンの顔があった。
ラマンは心配そうに言った。「奏さん、大丈夫ですか?」
奏はぼんやりと思索する。
(ここは果たしてどこだろう?)
奏が目を動かして周りを見ると、そこはどこかの部屋の中だということがすぐに分かった。壁や床などは白い色をしており、窓にカーテンがついている。
部屋の中央に置かれているテーブルの上には、食器が置かれている。
部屋の中には、ベッドがいくつか置かれており、そこには患者たちが横たわっていた。
奏は病院の中にいたのだ。
ラマンが言う。「奏さん、あなたは病室で倒れてしまったんですよ」
奏は驚いて、起き上がった。「倒れた!? どうして!?」
ラマンが答える。「分かりません。急に倒れられてしまって……。それで、私がここに運んできたのです」
奏は辺りを見た。すると、奏のすぐ隣には、一人の少年がいた。
その少年は、奏のクラスメイトだった。
奏は彼の名前を思い出した。「君は……、確か、加藤君……?」
加藤はうなずいて、小さな声で答えた。「ああ、そうだよ……」
奏は戸惑った。「どうして、君がこんなところに……」
ラマンは微笑んで、「この方は、奏さんの知り合いの方なんでしょう? 奇棲の街でお会いしたのでしょうか? それとも、別の街でお会いしたのでしょうか? 奇棲の街でお会いしたのであれば、奏さんがお名前を覚えていらっしゃらないということは考えられませんものね」
奏は首を傾げる。「奇棲の街で会った記憶はないけど……。でも、奇棲の街以外で、どこかで会っているのかもしれない……」
ラマンはうなずく。「そうですね。奇棲の街以外でも、奏さんがご存じの街というものがあるかもしれませんからね」
奏は不思議そうな顔をして、ラマンを見る。「ラマン、君はいったい何者なんだ?」
ラマンは微笑む。「私は、奏さんと同じ、奇棲の住人ですよ」
奏はラマンをじっと見つめる。「俺と同じような人間がいるとは聞いていたけれど……」
ラマンはうなずいて、奏の目を見て話す。「ええ、確かにそうですね。私たちは、同じ境遇に生まれた仲間なのですね」
奏は考え込む。「同じ境遇に生まれた……、同じ境遇って、どういう意味なのか分からないんだけど……。同じ境遇ってことは、俺たちはみんな、何かしらの共通点があるということ?」
ラマンは笑顔で答える。「はい、そうです。私も奏さんも、他の人たちも、みな、生まれつき、特別な能力を持っているのです。それは、『超能力』と呼ばれる力です」
奏は驚く。「超能力だって!? 俺が持っているような力が、他にもあるっていうの?」
ラマンはうなずく。「そうです。でも、奏さんのような特殊な能力は、珍しいものです。ほとんどの人は、普通の人と変わらないような能力を持っていらっしゃいます」
奏はラマンの話を聞いているうちに、だんだんと頭がはっきりしてきた。そして、自分がなぜ、病院にいるのか思い出した。
奏はラマンに向かって言った。「ラマン、俺はラマンの話をちゃんと聞いていなかったみたいだ。俺が倒れた理由を教えてほしい」
ラマンは笑顔で言う。「実は、私にも理由はよく分かっていないんです。ただ、私の目の前で突然、奏さんが気を失ってしまったんです。私はとても驚きました。急いで救急車を呼びました。そして、奏さんは病院に運ばれて、今に至るわけです」
ラマンが話している間、ずっと黙っていた加藤が、急に大きな声を出した。「おい! お前は誰だよ!? どうして、奏と一緒にいるんだ!」
加藤は怒って、ラマンのことを睨みつけている。
奏は加藤の顔を見た後、ラマンの顔を見た。ラマンは少し困った顔をしていた。
ラマンは言う。「奏さん、加藤さんは、あなたを心配してくださっているんですよ」
奏は加藤の顔を見た。加藤は怒りながら泣いていた。「奏……、頼むよ。もうこれ以上、心配させないでくれよ……」
加藤は泣きながら、その場に座り込んだ。
奏はうつむいた。「ごめん、心配かけて……」
奏は心の中でつぶやく。(俺のせいで、また人を殺させてしまうところだった)
ラマンは加藤に話しかける。「奏さんはとても優しい方なのです。あなたが思っている以上に、奏さんはあなたを大切に思っています」
ラマンは微笑んでいた。ラマンは続けて言う。「私は奏さんに恩返しをしているだけです」
加藤は顔を上げて、涙を拭いた後に、ラマンのことを見た。「恩返し?」
ラマンはうなずく。「はい、私は奏さんの役に立てることが嬉しいのです。奏さんは、私が今まで出会った人の中でも、一番と言っていいほど、素晴らしいお方です」
ラマンの言葉を聞いた奏は、恥ずかしくなって、下を向いてしまった。
加藤はラマンを見ている。「奏はそんなに大したことないよ。それに、奏には何か秘密がありそうだし……」
ラマンは微笑んでいる。「そうですね。奏さんがどんな過去をお持ちなのかは分かりませんが、きっと、私たちと同じように、辛い思いをされたのだと思います」
加藤はベッドから立ち上がって、部屋から出て行こうとする。「僕、ちょっと外に出てくる」
ラマンは慌てて、加藤に声をかける。「待ってください。まだ、体調が良くないのでしょう? もう少しだけ休んでいきましょう」
加藤は振り返り、ラマンを見る。「大丈夫だよ。もう元気になった」
ラマンはうなずいて、微笑んだ。「そうですか。それなら、よかったです」
加藤は病室を出て行った。
ラマンは微笑んだまま、奏の方を向いた。「奏さん、私は一度、家に帰ろうかと思うのですが、よろしいでしょうか?」
奏はうなずく。「ああ、もちろん。俺はここに残るから……」
ラマンは微笑む。「ありがとうございます。では、失礼しますね」
ラマンは一礼して、病室の外に出た。
ラマンは廊下を歩き出した。すると、そこに一人の少年が現れた。
その少年は、全身が血まみれになっていた。ラマンは驚いて、目を大きく見開いた。
奏の目の前に現れたのは、全身が血だらけになっている加藤の姿だった。
加藤は驚いた表情をしていた。「君は……、確か……、奏の友達の……」
加藤の目は充血していて、赤くなっていた。そして、口の周りも血で汚れていた。
ラマンは戸惑う。「あの……、これはいったい……、どうしたというのです?」
加藤は何も言わずに、ラマンに向かって突進してきた。
ラマンは加藤の勢いに押されて、壁にぶつかった。ラマンは加藤に組み付かれた。「やめてください!」
ラマンが叫ぶと、加藤はナイフを取り出し、ラマンの腹に突き刺した。
加藤は自分の服に付いた返り血を見て、不思議そうな顔をした。「あれっ!? なんだろう、この赤い液体は!?」
加藤はラマンから離れる。ラマンは倒れ込むように、床に座った。
ラマンの腹部からは大量の血液が流れ出していた。ラマンは苦しそうに息をしながら、加藤のことを見ていた。
加藤はラマンのことを見下ろして言った。「君も僕の邪魔をするのか……。僕は奏のために、奏を苦しめる人間たちを皆殺しにしようとしているだけだというのに……。なぜだ……、なぜなんだ……?」
加藤はラマンの首を掴み、ラマンを持ち上げた。そして、ラマンの顔に自分の顔を近づけて、じっとラマンの目を見た。
加藤は言う。「教えてくれないか? どうして、君は僕を止めようとするんだい? どうして、僕が奏のために行動しようとすることを止めるんだい? ねえ? どうしてだい?」
ラマンは目を閉じた後、静かに答えた。「あなたが、人を殺しすぎるからです……」
加藤は首を傾げる。「何のことだい? 僕は誰も殺していないよ。僕が殺しているのは、悪人たちだよ。奏のように優しい人たちじゃないよ」
ラマンは首を振りながら、答える。「違います。私はあなたのことを言っているんです。加藤さん、あなたは……、自分が殺した人の数を分かっていますか? きっと数え切れないほど多くの人を死に追いやってきたはずです……」
加藤はラマンの言葉を聞いて、少し考えるような仕草をした。「ふーん、そういうことか……」
加藤はラマンのことを放り投げた。ラマンは地面に倒れた。
加藤はポケットからナイフを取り出すと、それを握りしめて、ラマンに近づく。
ラマンは目を開いた。「加藤さん、私はあなたに殺されてしまうかもしれませんね」
加藤は笑っていた。「そうだね。でも、それは仕方がないことだと思うんだ。だって、僕は君のことが嫌いだからさ」
ラマンは立ち上がる。「そうですか……」
加藤はラマンに近づいていく。「じゃあね」加藤はラマンに向けて、ナイフを突き刺そうとした。
しかし、加藤は急に苦しみ出して、その場にしゃがみ込んでしまった。加藤はお腹を押さえている。「ううう……」
ラマンは加藤のことを見つめている。「加藤さん、私を殺す前に、一つだけ聞かせてください。加藤さん、あなたは何者なのですか?」
加藤は顔を上げる。「何を言ってるんだよ? 僕は普通の高校生だよ」
ラマンはうなずく。「そうですね。あなたはとても普通な方ですね」
加藤はうなずく。「うん、そうだよ。僕は普通な奴だよ」
ラマンは微笑む。「そうですか。では、また会いましょう。加藤さん」
加藤はうなずいて、その場を立ち去った。
加藤は病院の外に出る。そこにはラマンがいた。
ラマンは微笑んでいる。「加藤さん、私はあなたが奏さんを大切に思っていることを知っていました。そして、奏さんの優しさにも気づいていました」
加藤はうつむいている。「奏の優しさなんて知らない。奏のことは大嫌いだ。僕は奏のことが憎くてたまらないんだ」
ラマンは微笑む。「いいえ、知っています。加藤さん、あなたは奏さんのことを愛しているのです。そして、奏さんが苦しんでしまう原因を作ったのは、自分なのだと思っているのです。あなたはずっと苦しんできたのです。だから、今こそ、その苦しみを解放する時が来たのです。もう、我慢する必要はありません。もう、苦しまなくても良いんですよ」
加藤はうつむいたまま、何も言わない。
ラマンは空を見上げる。「加藤さん、私のことを恨まないでください。これは私が決めたことです。私はあなたのことを救いたいのです。あなたを楽にしてあげたいのです。これは、私が望んだ結末なのです」
加藤は涙を流す。「僕は……」
加藤の目に映るのは、過去の光景だった。
加藤は病室のベッドの上に寝ていた。そして、奏の母親が見舞いに来ていた。
奏の母親は言った。「ごめんなさい……。本当にごめんなさい……」
加藤は何も言わなかった。
奏の母親は泣き出した。「どうして……、どうして、こんなことに……」
加藤は言った。「別に気にする必要はないよ」
奏の母親は驚いた表情をする。「えっ!?」
加藤は窓の方を見る。「僕はただ、自分が正しいと思ったことをやっただけだ。その結果として、僕が悪い人間を殺しただけだ。それだけのことなんだ」
奏の母親は涙を流しながら、首を横に振る。「違うわ……。そんなこと……、絶対に間違っているわ……。お願いだから……、考え直して……」
加藤は静かに答えた。「無理だ。僕にはやらなければいけないことがあるんだ。だから、僕は行かなくてはいけないんだ」
奏の母は悲しそうな顔をしていた。「どうして、そこまでする必要があるの? どうして、そこまでしなければならないの? どうして、そんなに苦しまなきゃいけないの?」
加藤は黙ったままだった。奏の母は言う。「ねえ、教えてよ! どうしてなのよ!」
加藤は答えた。「それはね……」
奏の母が見た加藤の顔は、とても悲しい笑顔をしていた。
加藤はラマンのことを見つめた。「僕は君が嫌いだよ。僕は君が憎くてたまらない。君は僕の邪魔ばかりしてきたからね。僕は君が嫌いなんだ」
ラマンは加藤のことを見て、うなずいた。「はい、分かっています」
加藤はラマンに向かって、ナイフを突き刺そうとする。「でも、それでも、僕は君のことが好きなんだ」
ラマンの首筋から血が流れる。「そうですか……」
加藤はナイフを捨てると、両手を広げた。そして、叫んだ。「来い! 神喰狼!!」
すると、どこかから白い大きな犬が現れた。
加藤はその白い犬に抱きつくと、そのまま倒れ込んだ。
ラマンは加藤の姿を見て、つぶやく。「これで終わりです……」
ラマンは加藤に近づくと、自分の首にナイフを突き刺した。
加藤は目を開く。「あれ? ここはどこだろう?」
加藤は立ち上がる。「そうだ。僕は死んだはずだ」
加藤は周りを見た。そこは真っ暗な世界だった。しかし、目の前だけは明るい光があった。そこには一人の少女がいた。「やっと、会えたね。お兄ちゃん……」
加藤は少女のことを見つめる。「もしかして、僕の妹なのか?」
妹はうなずく。「うん、そうだよ。お兄ちゃん」
加藤は妹のことを見つめる。「どうして、ここにいるんだい? それにその姿はどうなっているんだい? まるで幽霊みたいじゃないか」
妹は答える。「うん、そうだよ。私は死んじゃって、今は霊体になっているんだよ。それで、この姿は生前の姿なんだよ」
加藤は少し考えて、それから納得したようにうなずいた。「なるほど、そういうことか」
妹はうなずいて、それから言った。「お兄ちゃん、今までごめんなさい。私のせいで大変な思いをさせちゃって、本当にごめんなさい」
加藤は困ったような顔をする。「いいよ。謝らなくてもいいよ。僕は気にしていないからさ」
妹は笑う。「ありがとう。お兄ちゃん」
加藤もうなずく。「いいんだ。それより、君はこれからどうするつもりだい?」
妹は悲しそうな顔になる。「それが分からないんだよね。このまま成仏しちゃうか、それとも、何か未練があって、ずっと残ってしまうのか……」
加藤は悩む。するとどこからともなく歌が聞こえる。
忘却の唄。雲のまにまにすべてを許し、すべてを流し、すべての罪と愛と悲しみが消えていく。天の神々しい光。いざない。加藤は空を見上げる。「これは……、まさか……、天使の歌声?」
その通り、その声の主は天使だった。
天使は空に浮かんでいた。その隣にはもう一人の天使がいた。
二人の天使は手を取り合う。そして、二人は歌い始める。加藤は涙を流した。「ああ……、綺麗だ……」
天使の歌が終わると、加藤は意識を失った。
目を覚ますと、病院のベッドに寝ている自分を見つけた。
加藤は起き上がり、疑問を口にした。「ここは…病室か?なぜ、僕は生きているのだろう?」
混乱する加藤は自問する。「確かに、僕は死んだはずではなかったか?」
その時、奏の母親が現れた。「大丈夫?」
加藤は驚いた。「母さん!?どうしてここにいるんだ?」
母親は涙を流し、「安心したわ…生きていてくれて…本当に良かったわ」
戸惑う加藤は問いかける。「えっと…何が起きたのか、さっぱり分からないんだけど…」
母親は説明する。「落ち着いて聞いてほしいの。実はね…」
真剣な表情で聞く加藤。「わかった、話して欲しい」
奏の母親によれば、加藤はラマンによって殺される運命だった。しかし、奇跡的に助かったらしい。
不思議そうな顔をする加藤。「どうして生き延びたのだろう?」
その時、加藤の母親が入ってきた。「目が覚めたわね」
加藤は母親を見つめる。「母さん…」
奏の母が語る。「あなたの体は傷だらけだったわ。でも、命に別状はなかったの。ただしばらく入院が必要だって」
加藤は首を傾げる。「なぜだろう…これは変だよ」
奏の母が心配そうに尋ねる。「本当に大丈夫なの?頭に怪我はない?」
加藤は答える。「大丈夫だよ。特に問題はないと思う」
奏の母と加藤は会話を交わし、しばらくしてから加藤の母親は帰っていった。
加藤は窓の外を見た。そこには青空が広がっていた。
加藤はつぶやく。「結局、僕は何をしたかったのだろう? 僕には何も分からなくなってしまったよ……」
そして、加藤は考えた。「でも、これで終わりじゃない。僕はまた、新しい一歩を踏み出さなければならないんだ」
それから数日後、加藤は退院した。
加藤は自宅に帰ると、自分の部屋に入って、すぐに眠ってしまった。疲れ切っていたのだろう。
加藤は夢を見た。夢の中。そこは真っ白な空間だった。そこには一人の少女がいた。「お兄ちゃん!」
加藤はその少女のことを見て驚いた。「君は……」
少女は加藤に向かって微笑んだ。「お兄ちゃん! 久しぶりだね! 元気にしてた?」
加藤は少しだけ照れくさくなった。「あ、ああ、そうだな……」
少女は笑う。「もう、相変わらずなんだから」
加藤も笑みを浮かべる。「そうだな……」
すると、少女は言った。「ねえ、お兄ちゃん。私、お兄ちゃんと一緒に行きたい場所があるの」
加藤はうなずく。「うん、いいよ」
少女は笑顔になった。「やったー!!」
二人は一緒に歩き始めた。
二人が歩くと、周りには花畑が現れた。色とりどりの花々が咲いていた。加藤はつぶやく。「これはすごいな……」
その通り、この世界はとても美しかった。
加藤たちは楽しく話をしながら、歩いていく。すると、目の前に大きな建物が見えてきた。「あれは何だい?」
少女は答える。「ここはね、天国だよ」
加藤は驚く。「えっ!? ここって、天国なのかい?」
少女はうなずく。「そうだよ。だから、安心してね」
加藤は納得する。「なるほど……。そういうことだったのか……」
二人は建物の前に立つ。「さて、それじゃあ、入ろっか?」
加藤はうなずいた。「ああ、行こうか」
そして、扉を開けて、建物の中に入った。
その建物は病院のようだった。その病院には様々な人が入院しているようだった。
二人は病院の中に入る。すると、音楽が聞こえた。なんだかどこかで聞いたような懐かしい。
「これ、母さんの子守歌」
「いいえ。鼻歌よ。お母さんが台所で料理する時に歌ってた」
二人が聞きほれていると白い輝きがそっと包んだ。「おかえりなさい。おまえたち」
二人は振り返る。そこにいたのは奏の母だった。
加藤は尋ねる。「母さん、どうしてここにいるんだい? それにその姿はどうなっているんだい? まるで幽霊みたいじゃないか」
奏の母も驚いていた。「あら? どうして、そのことを知っているの?ここはこれから生まれてくる人だけが来る世界よ」加藤はうなずく。「なるほど……」
奏の母が不思議そうな顔をした。「ところであなたは誰なの? どうしてここにいるの?」
加藤は答える。「ああ、僕は加藤っていうんだ。よろしく」
すると、奏の母は驚きの表情をした。「まあまあ! あなたは加藤君なの!?」
加藤は答える。「はい、そうですけど……」
奏の母が言った。「私はあなたのお父さんのことを知っているわ」
加藤は驚いた。「えっ!? 僕の父さんのことを!?」
すると、奏の母が思い出したように言った。「あっ! そうだ! そういえば、あなたは奇棲の街の出身だったのよね?」
加藤はうなずく。「はい、そうです」
奏の母は何かを思い出そうとしている。そして、何かを思い出したようだ。「確か、あなたのお父さんは奇棲の指揮者だったのよね?」
加藤はうなずく。「はい、そうですよ」
奏の母はうなずいてから、何かを考え込むような顔をしていた。「なるほどね……。そういうことか……、それならつじつまが合うわね……」
加藤は不思議そうな顔をしていた。「どうかしたんですか?」
奏の母は少し迷っているようだった。それから覚悟を決めたように口を開いた。「ねえ、加藤君。私の話を最後まで聞いてくれるかしら? 大切なことなの」
加藤はうなずいた。「分かりました」
奏の母は深呼吸をして、それから語り始めた。「実はね、あなたのお父さんは……」
加藤は真剣なまなざしをしていた。「はい」
奏の母は語る。「実は、あなたのお父さんは奇棲の楽団の指揮者なのよ」
加藤は目を丸くする。「ええ!? 僕の父さんが!?」
奏の母は言った。「そうなのよ。あなたのお父さんは、この世界でたった一人しかいない、本物の天使に選ばれた人間なのよ」
加藤は信じられないといった表情をしている。「あの……、それは本当なんですか?」
奏の母は言った。「残念ながら本当のことよ」
加藤は衝撃を受けた。「そんな……、僕の父さんが……、あの天使の奏者だったなんて……」
奏の母は加藤の気持ちが分かるようだった。「大丈夫よ。別に気にすることないわ。天使に選ばれたのは特別な人だけだもの」
加藤は複雑な顔をしていた。「でも……、天使の奏者に選ばれると、どうなるんですか?」
奏の母は少し困った顔になる。「天使の奏者はね……、天に召されて……、天国に行ってしまうのよ……」
加藤は戸惑っていた。「それって……、どういう意味なんでしょうか?」
奏の母は答えた。「つまりね……、あなたも天に召されてしまうかもしれないのよ……」
加藤はショックを受けた。「それは……、いったい……」
奏の母は加藤を落ち着かせるために優しく言う。「大丈夫よ。あなたは死なずにすむわ」
加藤はうつむく。「でも……、僕は……」
奏の母は言った。「あなたはね、自分が何をしたいのかを考えるといいと思うの」
加藤は考え込んだ。そして、つぶやく。
奏の母はそれを黙って見守っていた。そして、しばらくしてから、奏の母が言う。
奏の母の言葉を聞いて、加藤は決断した。
奏の母と別れてから、加藤は考えた。そして、一つの結論を出した。それは自分の意思で決めることだと……。
加藤は決意を固めた。そして、ある場所に電話をかける。
電話の相手は奇棲の街の役所だった。
加藤は用件を伝える。
そして、数分後。加藤の前に一人の男が立っていた。男はスーツ姿だった。そして、手には書類を持っていた。その男の外見は三十代前半くらいで眼鏡をかけていて真面目そうな印象を受ける男だった。
男は加藤に向かって丁寧にお辞儀をする。そして自己紹介を始めた。
その男は奇棲の街に新しく赴任してきた役人らしい。加藤はうなずいた。そして、挨拶を返した。
その後、加藤は奇棲の街について質問をした。
すると、その男は少しだけ怪しんでいる様子だったが、それでも素直に答えてくれた。
そして、奇棲の街についての大まかな説明が終わった。
すると、その男が加藤に尋ねてきた。
その男は不思議に思っていた。
加藤はなぜこの街に来たのだろうか? 加藤は答えた。自分はある目的のためにこの街にやってきたと。その目的とは何か? それは……、この街にいる天使に会いにきたのだ。
加藤はその目的を正直に話した。
その男はさらに不思議に思った。
天使に会うためだけに街にやってくるとは珍しい話だ。しかも、少年は奇棲の民ではない。普通ならば、こんなところまでわざわざ来ないだろう。それなのに、彼は一体何を求めているのだろう? その男は考えた。そして、しばらく考えた後に加藤に向かって尋ねた。
加藤は言った。僕は自分のやりたいことをするためにこの世界にやってきたと。そのためにまず、奇棲の街の天使に会いたい。
その言葉を聞いたその男は微笑んだ。そして、その言葉の意味を理解したようだった。
そして、その男はこう言った。
なるほど……。君は自分探しの旅をしているんだね……。
加藤は驚いた。自分の意図を見抜かれてしまったことに。
加藤は少しだけ動揺してしまった。しかし、すぐに気を取り直す。
そして、その男に向かって、どうしてそう思うのかという疑問をぶつけた。
すると、その男は少しだけ悩んだ。そして、それから口を開く。
君はこの街に来る前に、奇棲の街について調べたのだろう? その時に奇棲の街の指揮者についても知ったはずだ。違うかい? その通りだった。加藤は奇棲の街について色々と調べた。その時に、奇棲の指揮者という存在を知った。
加藤はうなずき、男性に微笑み返した。彼は奇棲の指揮者として知られ、加藤もそのことを聞いていた。そして、男性が奇棲の奏者としての加藤の父親について話し始めた。男性は彼の父親を称賛し、立派な人物であったと語った。加藤は懐かしそうに男性の言葉に耳を傾けた。
男性は加藤に向かって続けた。彼の父親は奇棲の指揮者だったのだという。この言葉に加藤は驚きを隠せなかったが、男性の話し方からは嘘をついているようには思えなかった。
男性は続けた。加藤たちが住む世界は実は奇棲の街であり、奇棲の街は通常の人々にとっては異世界だと言った。そして奇棲の街には天使が存在し、不思議な出来事が起こっているというのだ。彼らは加藤たちとは別次元の存在なのだと。
そして男性は奇棲の街の秘密を明かし始めた。奇棲の街は天使の力によって創り出された異界であり、天使たちが創造したのだという。加藤は驚きと興味を抱いた。
「でも、天使は死なないはずですよね?」と加藤は疑問を投げかけた。「実際、奇棲の街の住民の中には、死んだはずの人間が生き返ったという噂もあります。そして、その人々が奇棲の街の住民になったとも言われています。」
けれど、死者の真実は誰にも解せぬ。天使は不死であり、あるいは人間であったのか、あるいは天使の姿を模した他の生物であったのかも知れぬ。私たちはそのことを知る由もない。なぜなら、死者は生き返らぬからだ。どんな手段を用いようとも、死者は決して蘇ることはない。奇棲の街の天使であっても例外ではない。
では、私たちはどうすべきか。天使は二度と帰らぬのか。それは分からぬ。私にも分からぬ。
ただし、天使は完全に消え去ったわけではない。天使は、ただ記憶を失っているだけなのだ。
それとは、天使がかつて存在した頃の記憶を喪失しているということだ。そうだ、天使として生きていた時代の思い出を失っただけだ。
つまり、天使はその過去の記憶を忘れ、新たな人生を歩み始めるのだ。そして、天使は新しい名前と新しい人生を手に入れるのだ。
男性の話を聞いた加藤は衝撃を受けた。信じがたいが、この話は真実なのだろうか。
「加藤さん」と声がかかった。加藤は振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。
少女は加藤が何か悩んでいる様子に気づいた。心配そうな表情で近づいてきた。
「加藤さん、どうしたんですか?」と少女が尋ねた。
加藤は黙って少女を見つめた後、言葉を口にした。「あの、ちょっと聞きたいんですけど…」と。
加藤は少女に相談することにした。「天使って、本当に存在すると思いますか?」と加藤は真剣な表情で問いかけた。
少女は不思議そうな顔をしながら答えた。「天使ですか?」
加藤は頷きながら言った。「そう、そうなんです」。
加藤の悩みを解決できるのは、
「それは……、いますよ」
少女は加藤の言葉を信じることにした。
「でも……、どこに……?」
加藤は不思議そうな顔をした。
「どこなんですか?」
加藤は考え込む。
「それは……、あの……、天使って……、どこかにいるのかな……?」
加藤の悩みを解決できるのは、
「天使ですか?」
天使の少女である。
「それなら……」
加藤は答えを出した。「天国に行けば分かると思うよ」
天使は実在するのか?
「天国にいってみれば分かるよ」
「天国へ行くって死ぬんですか?」
少女は得も言われぬ恐怖を感じて後ずさりする。
すると加藤は噴き出した。「何もドン引きしなくっていい。これを」
そういって背広のポケットから取り出したのは小さな宝石箱だった。
「開けてごらん」
言われるまま少女は蓋を取った。
そこにはダイアモンドのエンゲージリングが入っていた。「まさか、加藤さん。わたしと?」
いうやいなや、加藤は爆笑した。
「未成年とは結婚できないよ。これは君の死んだお母さんから預かっていた。渡してくれって頼まれていた。形見だよ」
「えっ?」
加藤は少女にやさしく言った。「人は誰でもいつか天国へいく。死に急ぐ死に急事はない。お母さんはいつまでも待っているよ」
「でも、わたしは天国なんて知らないよ。それに、天国で母さんに会えるとは限らないよ。だって、わたしは天使じゃないもん。ただの人間だもの。わたしが死んだら、母さんには誰も会えないよ。わたしはまだ死ねないよ。まだ生きるんだから」
「では、今すぐ地獄に落ちろ」
加藤は少女を金属バットで殴り殺した。
グシャっと気持ち悪い音がした。だが、天使の歌ってこんなもんだ。この世は生きるも死ぬも地獄。みんな天使のふりをしている。
天使の歌を聴きたいなら人間の殺意、欲望、敵愾心、虚栄心、暴力、妬み、恨みに耳を傾けるとよい。
ほら、あちこちで悪口や陰口が聞こえるだろう。天使を装った悪魔のささやき。大コンサートだ。
でも、人はこうやって欲望を燃料にして生きている。
生きることを謳歌しているのだ。