公開中
嘘つき・後
🦇
森の木々が揺れ,波打つ海のような音が響く。揺れる葉の隙間から差し込んだ日が点々と地を照らす。地に広がった赤いシミは,乾いてもなお,鮮明に発色している。その中心では,小さな山羊の少女が,安らかに眠っていた。
山羊ちゃんを見送ってから1時間と少しが経った頃,部屋の扉を3回ほど叩く音がした。主治医だ。
「山羊座様は…」
「用があるんやと。」
「…左様でございますか。」
男が兄貴の容態を確認している間,なんとも言えない時間が流れた。オレは依然として窓の外を眺めている。しかし先ほどとちがうのは,途方もない胸騒ぎを落ち着かせるべくしていることだ。
「カロリ様の容態ですが,依然とあまり変わらない様子です。しかし,この後も現状維持が限界かと……。」
男は尻込みし,申し訳なさを醸し出しながら数日前から何度も聞いた台詞を吐いた。
「死んでいないのなら,なんでもええよ。」
現に,何かの奇跡で起きてくれるなんて希望は,とっくにに捨てている。それを察したのか,主治医はどことなく気まずそうな苦い表情を浮かべている。
何を思ったかはわからないが,オレは再び窓の外を見た。主治医が不思議そうな様子で,
「どうかされましたか?」
とオレの向く方を見るが,その先にはなんら変わりのない景色が広がっている。訳がわからなかったのか,顔を顰めた。
オレは,今度は曖昧ながらも自らの意思で窓に近づき,指が絡まりかけながら鍵を外して窓を開けた。突然のことに当然主治医は困惑していたが,そんなことなど気にもしなかった。
病室に心地よいくらいの風が吹き込む。資料や木の葉が数枚程度宙に舞い,髪は風向きに煽られてたなびく。その風に乗って,オレはある臭いに気がついた。普通ならば気づくことのない少量の匂いを,オレ達は嗅ぎ分けることができる。薄々抱いていた途方もない胸騒ぎが,今にもはち切れそうなほどに大きく膨れ上がった。
考えるよりも先にオレの体は窓の縁を飛び越え外に飛び出していた。後ろで主治医が何か叫んでいたが聞きもしない。オレは臭いの根源であろう方向に夢中になって走っていた。呼吸も瞬きも,右足を出すのか左足を出すのかも忘れてしまうほど死に物狂いで走った。根源に近づくほど,その臭いは濃くはっきりとしてきた。その度に不快感とオレの中の恐怖も強まった。丘をすべり,転がりそうになりながらいくつもの木々の隙間を潜り抜けた。
どれほど走った後だろうか,肩で息をしながら木々が揺れ,まるで波打つ海のような音のする森の中を歩いていた。おそらく元々いた医院からはあまり離れてはいない。揺れる葉の隙間から差し込んだ太陽光が地面を所々明るく照らしている。
臭いを辿り歩みを進めていると,突然思わず吐きそうになるほどの不愉快な悪臭に襲われた。確実に臭いの根源に近づいていることを実感した。
咳き込みながらも草木を掻き分けると,不自然に木々が大量に倒され開けてしまっている場所に出た。オレはそこで,歩みを止めた。
不愉快な,血腥い臭い。その正体が分かった。分かってしまった。想像もしたくなかったことが,目の前で起こっていた。
ある一本の木の前に,腹周りが真っ赤に染まった“山羊座”がいた。
腹は内臓ごと抉られ,隠れて見えないはずの木の幹がのぞいている。短い棒状の肉片のようなものが数個転がり,辺りの地面も,散ったか流れたかの血を吸って赤く染まっている。振るっていたであろう武器はすぐ足元の土を抉って斜めに突き刺さっている。
オレは幾分の間,その場に立ち尽くした。
受け入れたくない,受け入れられない状況に脳が処理を拒んでいた。つい先刻まで,非日常的なものとはいえいつものように言葉をかけ合えていた。当然のことで,当たり前の時間だった。全身の毛は逆立ち,心拍数は上がっても血の気が引いていくのが分かった。
「山羊…ちゃん……?」
風でほとんど消えてなくなりそうなほど小さな声で彼女の名を呼ぶ。当然それに反応して彼女が動くことはない。鬱陶しそうな顔をしながらでも,溜息混じりであっても,いつも反応を示してくれていた。そんな愛おしい記憶が沸々と湧いてきてくるのを振り切るべく,おぼつかない足取りで山羊ちゃんの元へ寄る。
「嘘…やんな…?だって,だってついさっき,またちゃんと戻るって………ちょっと出かけるだけやって…………」
山羊ちゃんの前にできている血でできた水溜まりの上に膝をついた。呼吸の音が聞こえない。心臓の鼓動も聞こえない。オレは目と口から,後悔と屈辱が入り混じった醜い感情を汚物として溢れ吐き出した。血みどろになりながら,冷たくなって動かない山羊ちゃんの手を握る。血が通っていないため青白く冷たくなっている。その小さな手には,指が数本見当たらず,あちらこちらに切り傷のような微細な傷もついている。
小刻みに息を吐いては吸うのも忘れる呼吸をしていると,ろくに焦点も合わない。視界が霞む中で,右耳についている耳飾りに合焦する。普段は右に2つ,左に1つ黄色く鮮やかに輝くものと,左には共鳴石と呼ばれる特別な石をつけている。だが今は,右耳についているものの一つが見慣れないものだった。本来であればつけられている共鳴石がなくなってしまっていることよりも,見慣れない耳飾りに釘付けになった。
見慣れない耳飾り。だが,オレはそれが何かよく知っていた。
オレと兄貴が,何かの日に贈ったものだった。
---
「はいこれ,オレらからプレゼントや」
なんの前触れもなく兄貴がそう言って山羊ちゃんの手の上に藍色の結晶でできた耳飾りを置く。
「……………はぁ…?」
状況に一瞬脳が理解を拒んだのか,2回ほど瞬きをしたあと呆れ返ったように眉を顰めた。
「ええやろそれ,オレ達とお揃いやねん」
オレも兄貴に便乗して贈り物の補足をする。
オレと兄貴は幼い頃施設で藍色の綺麗な結晶を拾った。手先が器用な兄貴がそれを削ってお揃いの耳飾りを作ってくれた。それが今も,俺たちが兄弟であることを証明するようにお互い常日頃から右耳に付いている。
つまりそれとお揃いの耳飾りを贈ることは一種の求愛だ。もちろん自覚はある。オレ達は山羊ちゃんのことが好きだから。
「いつでもつけてくれてええよ♡」
「なんなら今からつけてくれてもええよ♡」
またいつものように山羊ちゃんを2人で挟む。
「わかったから離れてくれるかい…??暑苦しくてたまったものじゃないんだけど?」
山羊ちゃんは押し付けられた耳飾りを握りしめながら心底不服そうにしていた。普段は垂れ下がった耳が,今少しだけ逆立っているような気がする。
「つけてくれるん?」
「誰が君たちとお揃いのピアスをつけるって言った?つけるわけないだろう」
オレの問いに山羊ちゃんは溜息を交えながら即答した。オレ達が贈った耳飾りは山羊ちゃんの感情のままにポケットに突っ込まれた。
つけないとは言っても,要らないとは言わないところに愛おしさを感じた。兄貴も目を細めて笑っている。きっと同じことを考えているのだろう。
結局それからも山羊ちゃんがオレ達とお揃いをつけているところを見ることはなかった。まぁ殆ど優しさと天邪鬼さを逆手に取って無理矢理受け取らせたようなものだ。結局は捨てられていても仕方ない,という結論に至った。兄貴は時々,
「オレらがあげたやつつけてくれんの?」
と聞いていたが,決まって山羊ちゃんは
「だからつけないって言っているだろう?」
と返してきた。何度聞いても同じ言葉しか返ってこないため次第に兄貴も贈り物の行方を聞かなくなった。そして以降,山羊ちゃんに贈った耳飾りのことは正直忘れてしまっていた。
---
山羊ちゃんのつけている藍色の結晶でできた耳飾りを僅かに触れるとそれは5回ほど前後左右に揺れた。差し込んできた光を反射して夜空に浮かぶ小さな星々のような輝きを放つ。オレが今右耳につけているものと,同じ輝き。先ほどまで全身に貼り巡っていた感情は,次第に怒りと悲観に塗り変わった。
「何が,何が3強や……何が12星座や………,山羊ちゃんやって,平穏が保障された中で生きるべき1人の女の子やろ…………」
今更すぎる言葉を吐き捨てながらオレは山羊ちゃんを抱きしめる。今にも形の崩れてしまいそうな彼女の体は,今まで以上に華奢に感じた。戦いには不向きすぎる,小さくて細い体だ。
あの時,何を思おうが思われようが,行ってしまわぬよう手首を掴んで離さなければ良かった。こんな現実に遭うことも,未来を失うこともなかっただろうか。あの時,きっと山羊ちゃんなら大丈夫だと,高を括ったのが過ちだったのだ。何思われてしまってもいい,生きていてくれるならそれでいいと覚悟を決めていれば,もしかしたら……。
オレは山羊ちゃんを童話に出てくるお姫様のように抱き上げた。まだ助かるかもしれない,そんな無駄すぎる期待が捨てきれていなかった。また馬鹿をするオレ達を嫌々でも相手してくれるようになる,きっと,きっと。
---
親友が自殺したあの日。大切なものを守れない自分への愚かさを実感したあの時。オレは兄貴と一緒に誓った。
“もう二度と大切な命を自分の前で失わなせない。そのためにもっと強くなって,守るべきものを守るんだ”と。
山羊ちゃんはもう,いない。兄貴ももう目を覚まさない。
それなのに結局何一つ,守れてはいない。
”嘘つき”
今のオレに,最もよく合っている言葉だ。