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『夜明け前のブルーに溶ける〜終電を逃した僕らの、名前のない恋の結末〜』
午前3時40分。新宿駅東口、誰もいないロータリー。
自販機からガコンと落ちてきた缶コーヒーの音は、驚くほど静かな街に冷たく響いた。
「はい、ブラックで良かったよね」
「あ、ありがと……」
澪(みお)は、受け取った缶の温かさに小さく息を吐いた。11月の夜気は冷たく、彼女の薄手のカーディガンを容赦なくすり抜けていく。
僕と澪は、大学の同じサークルの同級生だ。ただ、お互いに別の恋人がいたし、大人数で飲むことはあっても、こうして二人きりで話したことなんて一度もなかった。
そんな二人が、なぜこの時間、こんな場所にいるのか。
理由はシンプルで、そして最悪だった。
「……まさか、同じ日に、同じ居酒屋の別々の席で、お互いフラれるなんてね」
澪が自嘲気味に笑う。
本当に、ひどい偶然だった。僕は2年付き合った彼女に「他に好きな人ができた」と言され、澪は彼氏に「重い」という一言で片付けられた。それぞれの修羅場のあと、終電を逃して駅前で呆然としていたところで、僕らはばっぱり遭遇したのだ。
傷を舐め合う気にもなれず、かといって一人でネットカフェに籠る気力もない。
僕らはどちらからともなく、夜明けまでの時間を一緒に潰すことを選んだ。
「ねえ、ちょっと歩かない? じっとしてると寒いや」
「うん、そうだね」
歩行者信号が、誰もいない交差点で虚しく青と赤を繰り返している。
僕らはあてもなく、明治通りを原宿の方向へと歩き出した。
いつもは人で溢れ返り、欲望と喧騒が渦巻く東京の街。だけど今の時間は、まるで世界に僕ら二人しか残されていないんじゃないかと思えるほど、不気味なまでに静まり返っていた。
「……私さ、そんなに重かったのかな」
澪がぽつりと言った。ローファーの踵がアスファルトを叩く音が、規則正しく響く。
「毎日連絡して、週末は予定を合わせて、彼の好きな料理を覚えて。喜んでほしかっただけなのに。……都合のいい言い訳だよね」
「都合がいいのは向こうだよ。澪は何も悪くない」
僕は缶コーヒーを握りしめながら答えた。
「僕だってさ、『優しいけど、物足りない』って言われたよ。優しくすることが正解だと思ってたのに、結局、ただの自己満足だったのかなって思う」
誰にも言えなかった情けない本音が、夜の静寂に溶けていく。
昼間の明るい太陽の下なら、絶対にプライドが邪魔をして隠していたはずの傷口。だけど、この深い夜の底では、不思議と素真に曝け出すことができた。
言葉を交わすたびに、心の奥の冷え切った場所が、少しだけじんわりと解けていくのがわかった。
恋人を失った喪失感。裏切られた怒り。自分の存在を否定されたような寂しさ。
それらを、僕らは同じ温度で分け合っていた。
気づけば、原宿を通り過ぎ、渋谷の宮下公園のあたりまで歩いていた。
ふと見上げた空の色が、変わっていることに気づく。
真っ黒だった夜空の端が、濃い群青色へ。
それは、夜と朝の狭間にだけ訪れる、数十分間の奇跡。「ブルーモーメント」と呼ばれる、世界が最も美しく、最も切ない青に染まる時間だった。
ビルの隙間から差し込む青い光が、澪の横顔を照らす。
少し赤くなった鼻先と、潤んだ瞳。その姿があまりにも綺麗で、僕は一瞬、息をするのを忘れた。
「綺麗……」
澪が足を止め、空を見上げて呟く。
その横顔を見ていたら、胸の奥から、今までに感じたことのない強い感情が突き上げてきた。
これは、同情だろうか。それとも、寂しさを埋めるための錯覚だろうか。
わからない。だけど、僕の心は確かに、目の前の彼女に激しく揺さぶられていた。
もしここで、彼女の手を握ったら。
「僕ら、付き合っちゃおうか」なんて、冗談めかして言ってみたら。
傷ついた者同士、簡単に夜の闇に紛れて、新しい関係を始めることだってできたかもしれない。
だけど。
澪が僕を振り返り、優しく、だけどどこか寂しげに微笑んだとき、僕は言葉を飲み込んだ。
澪の瞳に映る僕は、きっと「同じ傷を負った戦友」だ。ここで一歩踏み出してしまえば、この美しい夜の思い出も、ただの「寂しさに流された間違い」になってしまう。
午前5時20分。
街灯がひとつ、またひとつと音を立てて消えていく。
東の空の青が、ゆっくりとオレンジ色の光に侵食され始めていた。
夜が明ける。
それは、僕らが「失恋した可哀想な二人」から、また普通の大学生に戻る時間だ。
「……あ、始発の音がする」
遠くから、電車の走るガタゴトという音が聞こえてきた。
街のあちこちから、朝の匂いがし始める。シャッターが開く音。新聞配達のバイクの音。世界が、僕らを置いてきぼりにしたまま、冷酷に動き出そうとしていた。
「楽しかったな」
澪が、すっきりとした笑顔で言った。その目には、もう涙はなかった。
「拓海(たくみ)くんと話せて良かった。一人だったら、きっと今頃部屋で泣き潰れてたよ」
「僕もだよ。澪のおかげで、ちゃんと前を向けそうだし」
僕らは渋谷駅の改札前で立ち止まった。
ここからは、お互い逆方向の電車に乗ることになる。
「じゃあ、また大学でね」
「うん。またね」
澪は小さく手を振ると、自動改札機にパスモをタッチして、構内へと歩いていった。
一度も、振り返ることはなかった。
彼女の後ろ姿を見送りながら、僕は自分のポケットの中で、澪の連絡先が登録されたスマホをそっと握りしめた。
僕らは手を握らなかったし、抱き合いもしなかった。
名前のつかない、一夜限りの関係。
だけど、あの夜明け前の青い光の中で、僕らの心は確かに重なっていた。
完全に太陽が昇り、眩しい朝の光が渋谷の街を包み込む。
僕は、少しだけ軽くなった足取りで、自分の乗るべき電車のホームへと向かった。
(おわり)