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昨日と同じように
「おはよう。」朝、教室に入ってきた由美に、挨拶を投げた。彼女はきゅっと口角をあげ、おはようと返した。その、口角が上がるまでの静かな顔が、私は少し怖いと感じる。彼女は前髪を指でいじりながら、自身の席に歩いていく。そのひたいにはじんわりと汗が滲んでいた。彼女が歩くたび、一つに束ねられている長い黒髪が揺れていた。
いつもと、同じ日。変わったところと言えば、気温くらいだ。昨日より少し暑い。天気は昨日と同じく快晴、雲一つ浮かんでいない。一面に広がる青に、その、景色だけで言えば爽やかで涼しげな青に、だんだんと夏が近づいてきていることを実感する。実際は湿度も高く蒸し暑いので、全然爽やかではないのだが。そんななのでクラスのほとんどはもう半袖を着用しており、私もそのうちの1人だった。でも、彼女はまだ長袖を着ていた。
キーンコーンカーンコーン。重くて、低くて、聞くたびに心臓が震えているような感覚に陥るチャイムの音が、校舎に響いた。6限目が終わったのだ。先生が教室を出ていくと、入れ替わるように担任が入ってきた。すぐに終礼が始まり、そしてすぐに終わり、放課後になる。私はすぐに通学リュックを背負い教室を出た。下駄箱で靴を履き替え、バス停に歩く。世界はまだ青く、明るく、暑い。20分ほど足を動かしていると、誰もいないバス停が見えてくる。だいぶ年季が入っていることがわかるベンチに腰を下ろした。腕時計を確認し、次にバスが来るまでまだ20分ほどあることを理解する。20分歩いてきたのに、さらに20分待てというのか、この猛暑の中。内心でうんざりしながら水分を取ろうとリュックを開けた。水筒を取り出した時に、タブレットがないことに気づいた。学校で配布されたタブレット。今日の授業で使ったことは間違いないので、学校に忘れてきたんだろう。たしか、理科の課題の回答がタブレットの送られてきていた。丸つけまでして明日提出なので、取りに学校に戻らなければならない。あー、と気分がさらに落ちる。少しだけ休んで、学校に戻ろうか。そう決めて、私は水筒の蓋を開け、口にあてて傾けた。冷たい水が口の中に流れてきた。
数分休んで、ベンチから立ち上がり学校へ向かった。汗がだらだらとこめかみや頬をつたっている。その感覚は気持ち悪いし、前髪は汗のせいでひたいに張り付くし、日差しは容赦なく私を照らしてくるし、単純に眩しいし。校舎が見えてきて、自然と歩くスピードが上がる。
下駄箱で上履きに履き替え、ふうと息をつきながら教室に向かう。廊下を歩いている生徒はほとんどいない。部活がある生徒以外はもう帰っているのだろう。校庭からは運動部の掛け声が聞こえてきて、こんなに暑いのによく外で動けるなあと感心に似た気持ちになる。涼しいとも暑いともいえない、湿度の高い空気が漂う廊下を歩いてほんの数十秒で私の教室である2年3組に辿り着いた。
教室のドアに手をかけた時、中から聞こえる音に気づいた。話し声ではないけれど、物音でもない。私にはそれがすすり泣く声に聞こえて、ドアを開ける手がぎりぎりで止まった。動けないまま、音に耳を傾けた。鼻を啜るような音。嗚咽のような音。けれども全部、私の勘違いかもしれない。いやでも、本当に誰かが泣いているんだとしたら、教室に入るのは流石に無神経だろう。悩んでいる時、教室の窓の一つがわずかに空いていることに気づいた。あの隙間から中の様子をうかがってみようと、足音に気をつけながらのぞいた。茶色い床に、茶色い机。視線を動かす。セーラー服が目に入った。視線をまた動かすと、横顔が見えた。それと、一つに結ばれている黒くて長い髪の毛。手を目元にやっているので、多分、涙を拭っているのだろう。そのせいで顔が見えない。しかし、席の位置で誰かは特定できた。いや、きっと、席に座っていなくても私は彼女が誰か特定できたのだろう。私の毎日眺めていたその黒くて長い髪は、由美のものだった。
結局タブレットの回収はできないまま、私は学校を出た。
翌日の朝、教室に入ってきた彼女に、昨日と同じように挨拶を投げた。昨日の放課後のことについて、私は何も聞かなかったし、これからも聞くつもりはない。それが正解だと思った。それ以外の正解を、私は知らなかった。