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第9話:槐(えんじゅ)の迷宮と、十秒の境界線
真っ暗な闇の底へ落ちていく感覚の中、ふと足がついた。
そこは、病室でも自宅でもない。巨大な樹木の根が複雑に絡み合い、淡い燐光を放つ不思議な空間だった。
「ここは……?」
見上げると、遥か頭上には巨大な|槐《えんじゅ》の樹冠が広がっている。根元の隙間からは、無数の小さな光の粒が、規則正しく列をなして動いていた。それは、夢の中で見た蟻の群れのようでもあり、あるいは誰かの記憶の断片のようにも見えた。
「遥、こっちだよ」
聞き慣れた、落ち着いた声。
振り返ると、そこには病室で息を引き取ったはずの湊が立っていた。
けれど、その姿は少し不思議だった。二十代の若々しい顔立ちでありながら、瞳には四十年の歳月を生き抜いたような、深く穏やかな慈愛が宿っている。
「湊! よかった、生きてたんだね……!」
私は駆け寄り、彼に抱きつこうとした。けれど、私の体は彼の体をすり抜け、ただ冷たい空気だけが腕の中に残った。
「ごめんね、遥。ここから先は、君一人で行かなくちゃいけないんだ」
「どういうこと? 一緒に帰ろうよ、私たちの家に!」
湊は悲しげに首を振った。
「あそこは、僕たちが作り上げた『|大槐安国《だいかいあんこく》』……幸せな、夢の王国だったんだ。君が僕を想う気持ちが、この十秒間に、一生分の時間を創り出したんだよ」
足元の根元から、一匹の大きな蟻が這い出し、私の足首に触れた。
その瞬間、私の脳内に強烈なビジョンが流れ込む。
キッチンで氷がグラスに当たる音。
テレビのニュースキャスターが読み上げる、今日の天気。
そして――ソファで微睡む私の、穏やかな寝息。
「……これ、は……」
「そう。現実の君は、まだソファで僕を待ってる。……ほら、もうすぐコーラを持って、僕が戻ってくるよ」
湊が指差す先には、眩いばかりの現実の光が差し込む「出口」が見えた。
けれど、そこへ行けば、この四十年を共に過ごした「この湊」とは、もう二度と会えなくなる。
「嫌……。行きたくない。ここでいい、この夢の中で、湊とずっと……!」
私は泣きながら、実体のない彼の影を追いかけようとした。
湊は優しく微笑み、私の頬を撫でる仕草をした。感触はないのに、なぜかそこだけが温かい。
「大丈夫だよ、遥。僕は、ちゃんとそこにいる。……さあ、目を開けて」
湊の姿が、槐の木漏れ日のような黄金色の光に包まれて、白く弾けた。
🔚