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宗教画ではヌードを描くことが許される
果てしなく続くと思われた廊下の、終着点にソナタはいた。廊下の終わりには踊り場があり、昇り階段と下り階段に枝分かれしていた。少し迷って、ソナタは階段を下りはじめた。
こんこんかんかんと固い靴音が響く。靴は部屋に置いてあったものだった。服も同様で、サッカーのときは白黒のユニフォームを、そうでないときはシャツにスラックスを着ていた。
ソナタは小さく段数を呟きながら降りた。が、途中で分からなくなった。分からなくなった頃に階段は終わった。
手前に1つ部屋があった。ドアが開いていた。中を覗きこむと室内の電気はついておらず、代わりに粒状のLEDライトがいくつも青い光を青い光を放っていた。照らし出されているものがある。目を凝らして見ると水槽だった。
ソナタはそろりと部屋に足を踏み入れた。室内には大量に水槽があった。赤い魚、青い魚、腹が透けた魚、まだらの模様を持った魚、でっぷりと太っただらしのない魚、背鰭の異様に大きい魚、平べったい身体の魚、魚、魚、魚。彼らはライトで青く光る水の中を泳ぎまわり、ときどき小さな目玉でソナタを見た。
ソナタは1匹ずつ彼らを眺めてまわった。かがやく背鰭を見た。うごめく目玉を見た。精巧なようで大雑把な模様を見た。時おり思い出したように吐き出される泡の粒を見た。ひらひらと泳ぎ続けるさまを見続けた。
最後の魚を身終えると、ソナタは知らず知らず夢中になっていた自分に気づいた。そしてかすかに「部屋に戻らないと」と呟いた。誰に言うともない呟きだった。墨を刷いたような薄暗い部屋の中では、自分にさえ言うのではないように響いた。
部屋を出ると、開いたドアに文字が印刷されているのを見た。「水族室」。また来ようとソナタは思った。
水族室の外の廊下は、さきほどより無機質ではなかった。天井は高く、嵌め殺しの大きな窓から日の光が射しこんでいた。外は小さな裏庭のようになっており、その奥にはここと同じような廊下があって、要するにこの裏庭のぶんだけ四角く切り取られたような立地になっているのだった。
ソナタはさらに歩いた。
美術室と書かれた大きな部屋があった。中には長椅子が6つ置かれ、壁じゅうに絵画が飾られていた。ソナタはまた1つずつ見ていった。どうも部屋に戻るという目的が曖昧になるようだった。
絵画はすべてが宗教画と思しく、天使や裸身の女神が描かれていた。ほとんどが柔らかそうな金髪で、近くに寄るほど淡くぼやけて見えた。
豊満な肉体を持つ女性がベッドに横たわり、透けるような薄布にくるまれていた。天使が隅に複数固まって、羽をひらめかせながらしきりと何か相談をしていた。
詫びしげな部屋の中で一心に祈る青年の背後に、光輪を戴いた女神が立っていた。青年は気づかない。
少女がいた。農夫がいた。王様のような男が、豪華な衣装の女が、座り、立ち、踊り、歌い、悲しみ、泣き、怒り、存在していた。世界は単純で、あかるく緻密に、ある種の愛情を持って描きこまれていた。すべて身終えると満足の溜息を吐き、ソナタは外に出た。
生温い空調の風がどこからともなく髪を微細に揺らす廊下を歩いていると、奥に人影が見えた。
「メリン!」
「…、ソナタか」
そこにいたのはソナタの同室のメリンで、ここにいるうちに半端に伸びてきた髪を一つにまとめ、読書をしていたらしかった。分厚い本がガラス製の丸テーブルに置かれ、薄く血管の浮いたメリンの指がそこに重なっている。側には大きな木製の本棚があり、枚数の少ない雑誌から辞書のように厚いハードカバーの本までがぎっしりと詰め込まれていた。ソナタは手近な雑誌を手に取り、安っぽい紙の手触りと匂いを感じながらぺらぺらとめくった。偶々手を止めたページには「メキシコの料理特集」と大きな白抜き文字が載せられており、そういえばそろそろ昼時なのではないか、と思うのと同時に腹が間抜けな音を上げた。
隣でメリンがくすりと笑みを溢す。長い足を寛げて座った彼は、何かの被写体のように様になっていた。
「散歩でもしていたか?サッカーのときにはいたのに、その後まったく姿が見えないから心配したぞ」
「悪い、ちょっと迷ってて」
「そうか。ここは広いから仕方ないな。ーーまあ心配したというのは嘘なんだが」
「おい」
ソナタは最初こそ、メリンの切れ長の瞳と変わらない表情からとっつきにくい印象を受けていたのだが、蓋を開けてみれば彼は案外ユニークで、時々はこうして軽口も叩くのだった。
「こっちの気も知らずに…俺は迷子になりかけて焦ってたっていうのに」
ソナタが態つっけんどんな言い方でそう訴えると、メリンはにやりと笑った。緋色を帯びた黒瞳が柔らかく歪み、一瞬、火花のように瞳の奥に華が散る。
「ここはやたらと広いからな…俺も腹が減った。そろそろ昼時だろうし、食堂に行こう」
「ここから食堂への行き方、分かるのか?」
ソナタが目を丸くして尋ねると、メリンは涼しげに頷いた。
「ああ。以前ここを見つけてから、何回か通っているからな」
「見つけたって…どうやって?」
「少し、予期しない散歩をしていたんだ」
「お前も迷ってんじゃねぇか」
腕を小突きあってくすくす笑う。身体が触れ合って、同じシャンプーの香りが漂った。