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第3章
第三章:妹とガラスの記憶
レイン・ノヴァには妹がいた。名はエル。
レインとは対照的に、エルはよく笑い、感情を隠さない子だった。学校の成績は平凡で、夢見がちで、詩を書くのが好きだった。姉のレインが冷たく無表情に育っていく中で、エルだけが彼女の感情を引き出せる存在だった。
「お姉ちゃんは、心がきれいすぎて、壊れやすいんだよ」
ある日、エルはそう言った。
8年前のあの日、エルは第七居住区で忽然と姿を消した。
彼女の住んでいたアパートは施錠され、ドローン映像にも外出の記録はなく、室内に争った形跡もなかった。ただ、彼女のベッドの上に一枚の紙が残されていた。
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「わたし、霧の向こうへ行くね。」
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警備局は自殺として処理しようとしたが、AIの判定は「不明」。
レインはその結果に納得できなかった。いや、納得するふりをして、心の奥に沈めた。
それから彼女はUGPに入局し、感情を抑える訓練を受けた。記憶の中のエルも、感情も、すべて心の奥の“ガラスの檻”に閉じ込めた。
それなのに、今。あの男が残した言葉が、その檻を叩いている。
「あなたも、この霧の中にいるの?」
ふたたび紙片を見つめながら、レインはつぶやいた。
「“霧”は、メタファーじゃないのかもしれない……」
グレイフォグの霧。それはただの気象現象ではない、と言う者がいる。
都市の気圧管理システムと情報監視ネットワークが複雑に絡み合い、微細な粒子と信号が空間全体を覆っている。情報の霧。思考の霧。人間の境界を曖昧にする霧。
エルが言っていた。
「この街にいると、自分の心がどんどん薄くなっていく気がするの。まるで、夢の中にいるみたいに。」
レインは初めて、その言葉の意味を理解し始めていた。
霧は、ただの自然現象じゃない。何かが、人の“境界”を曖昧にしている。そして、その何かが、妹とこの男の死に関係している。
そのとき、レインの端末に通知が届いた。
送信元不明。セキュリティ突破ログもなし。UGPのネットワークすら通っていない。
ただ、ひとつのメッセージが表示された。
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「次は、あなた。」
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その瞬間、窓の外の霧がわずかに揺れた気がした。
何かが、こちらを見ているような気配。視線ではない。もっと根本的な“意識”のようなものが、レインの存在に反応している。
ガラスの檻の中で、何かがひび割れた音がした。
→ 第四章「霧の向こう側」へ続く