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感情と関数と公式
「感情って、数学みたいに方程式で解けたら楽なのにね」
その言葉は、最初の数学の授業中、不意なひとことだった。
チョークが止まり、黒板の数式の間にぽつんと置かれたその言葉。
それはまるで、規則的に並べられた公式たちの間に、ぽつんと落ちた水滴みたいだった。
そんな言葉を未だにずっと心にぽつんと残されている。
ノートの上で途中になった数式の答えは、もうどうでもよくなったみたいに浮かんだままだった。
瀬野先生は今日も、いつもと同じ表情で特に気にも留めずに授業を続けていた。
その日、帰り道の空はやけに広くて、くすんだオレンジ色に滲んでいた。
そろそろ暑くなってきて太陽が本格的に輝き出す季節になる。
先生、何かあったのかな
それとも、私が気づいてないだけで、ずっと…
心の中を見えない渦がずっと彷徨っている。
藤原さんに「部活一緒に行こ!!」と声をかけられたけど、私はそっと断って校舎に戻った。
理由は言えなかった。ただ、先生のあの言葉が、今もどこか胸に引っかかったままだった。
職員室は素通りして、いつかのあの日のように文芸部の部室前で立ち止まる。
扉越しに聞こえる静寂。
誰かが何かの書類をめくる音と、ペンを走らせる音が微かに響いているような気がした。
私は静かにドアの窓越しに中を覗いた。
中には相変わらず瀬野先生が1人だけ。
先生は、自分の机に向かって何かを静かに書いていた。
大丈夫。きっと、ただの独り言だったんだ。
そう思ったはずなのに、足が動かなかった。
声も、かけられなかった。
そのまま、踵を返して帰ろうとしたとき。
中から、湊先生の声が聞こえた。
「…感情は、計算できないから厄介だよなぁ」
誰もいない空間に向かって言ったのかもしれない。きっと先生自身に言ったのだろう。
でも、私にはそれがまるで、私に向けられたように感じてしまった。
最終下校時刻ギリギリまで足は動かなかった。
次の日、クラスメイトは談笑しながら部活に向かう中、私は過去1番の速さで、半年ぶり程に文芸部の部室へ行った。
誰もいない部室で奥の机の上にある文芸部共用のノートを開いた。
部員が何人いるのか知らないけれどきっとほとんどが私みたいな人間で、大半が幽霊部員。
匿名で書ける共有のノートは部員のその時の感情が詩のように綴られているノート。
久々に見たけど、あまり動いてなかった。
やっぱり真面目に活動している部員が少ないのだろう。
失恋したので、七夕に願い事書かなかった。
→書かなかった願い事の方が、案外本気だったりするね。
今日の美術の授業、絵の具がうまく混ざらなくて灰色になった。
色って、正直すぎてこわい。思ってない色に近づくと、濁る。
人間もそうなのかな。裏切られませんように。
→濁らないようにって意識しすぎると、透明な色も出せなくなる。
失敗色も案外、混ぜてみたら面白いかもね。
文芸部の部室の窓から、誰もいないグラウンドを見るのが好き。
音がない時間って、どうしてこんなに豊かなんだろう。
→音がないとき、人は自分の音に耳をすますからだと思う。自論。
多種多様な筆跡と毎回丁寧な字で書かれている返事のような何か。
返事はきっと先生の字。
細くて儚くて綺麗なのにどこか何かに追いかけられているような雑さがある。
部員の言葉と先生が紡ぐ言葉を追いかけて、それでもページをめくる。
もう書いてあるページは埋まっていて、次のページには、まだ何も書いてなかった。
ノートの隣に置いてあったボールペンで感情のまま殴り書きをする。
感情って数学みたいに方程式で解けたらほんとに楽なのかな
一行だけ、書いてみた。
そして、しばらくそのままペンを持った手でページを押さえていた。
追いかけて来ていた何かを押さえ付けるように。閉じ込めるように。
翌日、数学の授業の時間。
先生はいつも通りだった。
黒板に数式を書いて、生徒の手が止まるところにだけヒントを置いていく。
「…この問題は、少し遠回りして考えてください」
「パターンにはめずに、自分の言葉で考えてみて」
「計算式の形にとらわれなくていい。答えは一つじゃないから」
その言葉が、授業の中でしか届かないことがあるって、瀬野先生は知っているのかもしれない。
放課後。
黒板に残った数式の余白をぼんやりと見つめながら、一人教室に残っていた。
殴り書きの返事をまだ見に行こうと思えるほど私は強くなかった。
窓の外では風が吹いて、桜の葉がひらひらと舞っている。
私が思っていた以上に時間は残酷で、春の香りはもうどこかへ飛ばされていた。
今日もまた、数学の課題の答えは書けていなかった。
関数も公式も、計算すればきっと正しい答えにたどり着く。
でもこの感情だけは、何をどうやっても解けそうになかった。
きっと関数のように依存している。
私は何かではないと存在できないのだろう。
問題の端に書いてある関数の問いに仲間意識を感じた。
ふと顔を上げた時。
教室の入り口に、湊先生が立っていた。
「…何してんの、ここで」
「藤原さん、もう帰ったみたいだけど茉音さんは?」
「……あ、はい、いま帰ります」
先生はそれ以上なにも言わず、ゆっくりと廊下を歩いていった。
背中だけが見えた。その歩幅は、少しだけ揺れていた。
きっとこの問いの解は瀬野先生なのかも。