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仮面をつけた人間関係。下手がすぎてイルカになる。
アスタバースン・ザーコフ
私は彼らと同化している。そう見える。
案外悪くない。私という人間の中身を掻き乱されない限りはこのまま滲んでいくのも良い。
私は才能があった。
絵の才能、歌の才能、楽器の才能、勉学の才能、家事の才能…そしてその他諸々。
どれも飛び抜けているわけではないが、人並み以上にできるという才能があった。私は才能を持て余した。才能は私に余裕だけを与えていたのだ。才能を持て余して怠惰に屈していたのだ。そして、気づかぬ間に歪んだ自尊心を植え付けていたのだ。コンテンツを汲み取って汲み取って濾過を間違えて与えられてしまった。とてもみすぼらしい一発屋で効果のない自尊心が私を世界から切り離そうとしていたことに当時は気づかなかった。
そして私は思考を続けていた。
私が私でなくなることへの恐怖が私に思考を強要させ、私の脳味噌を濃厚にしていく。恐怖から思考していき、不可能と無理解が襲いかかってきた。私はそれをよく観察した。そこは床に直にひかれた布団の上だった。小さな車のエンジン音と鳥の鳴き声が響く廃れかけの商店街だった。またそれは私を宇宙の端へと連れて行き、私を天界に置いてけぼりにしたかと思えば地獄へと急激に誘った。
私はだんだんと気が付いていった。思考への喜びを。思考の末に切り開かれた甘美へと導く道を。たとえそれが茨であろうと、溶岩で覆われていようと私にとってそれは輝くためのステージであった。この道は私がランウェイのモデルとして、いや、私という人間が何もかもの主人公となるのだ。私が私という人生の美学を、芸術を、理想を、現実を。全て融合させた私という作品を見せつけるためのランウェイのステージなのだ。これは私が私として舞い続けるための意思の表明であった。
しかし、ステージは決してきらびやかであることを許さない。今までも、これからも。
私が奇抜に光れば光るほど、それは人の目を焦がさせるのだった。人の目は私を正しく見ることは永遠にできなくなるのだ。いや、そもそものところ人は私という存在の印象から好きなデザインのサングラスを選び取ってそこから覗いているのである。私が光れば光るほどサングラスの色は濃くなっているのだ。私は光時を見つけてそこで光る。少しだけ。
私は私自身の強すぎる電磁気を隠すために仮面を用いた。仮面を付けて分かった。人々も綻びた仮面を付けていることに。
今まで私は仮面をつけていなかった。光で目を焦がし、かつサングラスを紫外線でより濃くさせていたのだ。私は人々に対して丸っこくてかわいらしいデザインの仮面を創造しようとした。もちろん、最初はうまくいかなかった。仮面の作り方も知らず、仮面の裏側で思慮をした結果がうまく出力されないのだ。過去の私は仮面を知らなかった。初めてのことだから当然である。
仮面を扱うのが上手い人は持ち合わせている大量のデータから、相手への最適解を導き出して、すぐにそれを実行する。いわば、生成AI。高性能の生成AI。
一方で少し前の私のようなビギナー達は、ビッグデータに触れることを躊躇いすぎたために、学習データが少なく、頓珍漢な答えを返す。だからあの消されるイルカ。
今の私は生成AIからは程遠いが、イルカのように会話が途切れることは少なくなってきたであろう。例えるとすれば、数年前のチャット式AIのようだ。
私はこれからも自己成長していく。
実体は私も知らない。経験から学ぶことというのは本人ですらもはや知覚できない。私と世界の間隔は開いたままでその差はいつまで経っても近づかないし、むしろ離れていっている気がする。ただし、それは人々から嫌われていることとは全く別物である。私の画面もやはり綻びていた。綻びたところから差しているまだ綺麗に見えるような光が瞳を貫かず、覆った。現在、人々は仮面を被った私に陶酔している。夢見ている。そのように言える場までだんだんと近づいていっている。
仮面を被った私を第三者の無関係で知らない人間として私自身が見つめた場合、それは私にとって軽蔑に値する。仮面を被っていないと考えたのならば。軽蔑し、批判し、嗤う価値であると判断する。
私が仮面を被っているのならば別問題だ。その自分は私であるのだから。生き方の上手い人間なのだから。
いくら常に仮面を被っていようとも私の思考は自由に動いて蠢いて才能で遊んでいくのだ。この世界に来た。私は仮面を被った。それは私でなくなることではない。むしろそれは私の美学の肯定になった。これは自尊心と差異はない。ただし、昔私が持っていた一発屋でみすぼらしくて可哀想な自尊心とは違うものだ。私の才能を認め、思考の特異さを素晴らしさと解釈する。違うのは、私の才能に惚れ込みすぎないことだ。過去では才能は使える物だった。違う。今ではその才能は伸ばすもの。私の一部、友のようなもの。私は決して過去の私とは決別しない。これは進化だ。過去の私の思考のもとには少ない世界への情報が存在していて、それを圧倒的に現在の私のほうが凌駕しているのは自明なことである。私は舞って舞って舞って舞って舞っていく。ここに来たのならばここを舞台にする。ここはある意味では私のキャンバス、画用紙、あるいはSNSのプラットフォーム、あるいは美しい言葉の集合を写し取る紙媒体。そうだ。媒体が違うだけなのだ。私の美学が表現される媒体なのだ。「ここ」ではなく「これ」だったのだ。
しかし、私はこの思考が好きだ。