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Chapter.3 死の果実
作者の海嘯です。
「英国出身の迷ヰ犬(DEAD APPLE)」のprologue~4-1の総集編+未公開分になります。
まとめるにあたり、少し添削しているので良かったらご覧ください。
[本編]
prologue
1-1
1-2
1-3
幕間
2-1
2-2
2-3
2-4
3-1
3-2
3-3
4-1
未公開分
epilogue
[オマケ]
prologue(No side)
ヨコハマ裏社会史上、最も死体が生産された88日。
あらゆる組織を巻き込んで吹き荒れた血嵐、龍頭抗争。
────その終結前夜。
赤い満月が空に浮いていた。
枯れ葉が風に乗り、道路に落ちる。
重く伸し掛かるような空気の下で、ポートマフィアの下級構成員である織田作之助。
そして、ポートマフィアに依頼を受けて仮加入している万事屋ルイス・キャロルは小走りで目標地点に向かっていた。
路地裏からは銃声が聞こえてくる。
ルイスも織田作も、手には拳銃を構え油断なく周囲を見渡していた。
曲がり角を抜けると、煉瓦造りの古く小汚い建物が目に入る。
血の臭気が漂っていた。
「うんざりだな」
織田作は小さくため息をつく。
右を向いても左を向いても死体の山だ。
いずれの死体の手にも銃があり、薬莢が大量に転がっていた。
どこかの構成員が銃撃戦を繰り広げたのだろう。
「……?」
ふと、二人の耳に引っかかるものがあった。
こんな暗澹たる夜には似つかわしくない声だ。
迷ってる暇はない。
逆方向であることも気にせず、二人は道路を駆け、“声”のした方に近付く。
辿り着いたさきには横転した車があった。
車から投げ出されたのか、近くに人が倒れている。
駆け寄った織田作は銃をホルスターにしまい、倒れている二人を確認した。
おそらく夫婦なのだろう。
夫らしき男は、家族を庇うように覆い被さっていた。
武装はしておらず、服装からも抗争に巻き込まれただけの一般人に見える。
流れ弾に当たったのか、夫婦はどちらも絶命していた。
「……チッ」
ルイス・キャロルは舌打ちをした。
戦争も抗争も、どちらも関係ない一般人の被害が出る。
けれど、夫婦が二人で守ったおかげで、子供だけは助かったようだ。
幼い少女が泣き声をあげる。
織田作が聞きとめた声だ。
織田作は少女を抱き上げ、怪我がないか確かめた。
奇跡的に軽傷しか負っていない。
服の裾からこぼれたハンカチーフに、幼い字で「咲楽」と名が記されているのが見えた。
「こんな状況で生きてるとは、運がいいな」
「……本当だね」
そう呟くと同時に、耳障りな雑音がイヤホンから流れてきた。
続けて二人を呼ぶ声が聞こえる。
『──織田作、ルイスさん』
急に繋がった通信に、二人の眼差しが鋭くなった。
「太宰、どこだ」
『何をしてるか大体察しがつくけど、早く逃げろ。そこもすぐに危険になる──』
ザザ、と雑音が混じる。
もう一方からの通信が割り込んできた。
『引っ込んでろ、サンピン!』
太宰と違う新たな声に、二人は視線を上げる。
直後、背後から豪速で走ってきた単車がルイス達を追い抜いた。
単車を運転するのは特徴的な黒帽子の男。
さきほど、太宰との会話に割り込んできた通信の相手だ。
ポートマフィア幹部候補、中原中也。
「今日も相変わらずの仲の悪さで何より」
「行くぞ、ルイス。太宰の言う通り、ここもすぐに危険になるだろう」
はいはい、とルイスは織田作の後ろをついていこうとした。
しかし、足を止める。
「やっぱり二人のところへ行っても良いかな?」
「元より俺一人でも問題ないが……嫌な予感でもしたか?」
「そんなところ」
じゃあ、とルイスは中也のバイクを追い掛けた。
🍎🍏💀🍏🍎
県庁の屋上へと着くなりルイスは鏡を出す。
屋上を強い衝撃が襲ったが、鏡はびくともせずルイスの目の前に浮かんでいた。
砂埃が収まった頃、ルイスは鏡を消して屋上を見渡す。
圧殺。
屋上にいた敵は全て死体となり、屋上を埋め尽くしていた。
「おや、ルイスさん。織田作と一緒だった筈では?」
「暇だから来ちゃった」
「早く行くぞ」
中也は二人の会話を気にせず、自ら作った死体の山を一瞥もしないでビルの内部へと進む。
ルイスは苦笑いを、太宰はため息をつきながら後をついていった。
目指す男は、ビルの中にいる筈だった。
非常階段を通って入ったビル内部は、随分と荒れていた。
廊下には埃が溜まり、鼠の走った跡がある。
人の気配がする方に向かうと、広い部屋の隅に事務机や棚が積み上げられていた。
電話のコードが千切れ、蛍光灯が点滅する。
重要そうな証券類も、雑多な書類とともにあたりに打ち捨てられていた。
部屋の中央には、天幕のような不審な空間が広がっている。
三人が探しに来た目当ての人物は、そのなかに座って居た。
彼はうつむきながらぶつぶつと呟き、火を熾したバケツに何かを投げ込んでいる。
「──手に入る、手に入らない、手に入る、手に入らない……」
花占いにも似た言葉。
ただし、千切っているのは花弁ではなく札束や有価証券。
さらには光り輝く宝石だ。
「手に入る、手に入らない、手に入る、手に入らない──」
札束が燃える。
有価証券が千切れる。
宝石が炎に呑まれていく。
太宰が石を見て呟いた。
「あれ全部、本物の宝石だ……」
「今のは五千万だね」
硬質な音を立て、大ぶりな宝石が焚火に投げ込まれる。
「──……手に入らない」
それが最後のひとつだったのか、男が吐息をついた。
「こんな占いばかり当たってもまったく嬉しくない。組織など編んでみても、やはり欲しいものは手に入らぬか」
男が顎の下で手を組み、その顔が炎に照らされる。
白い膚に背中まで流れる白い髪。
髪の一部は編み込んでたらしている。
美しい容貌のなか、毒々しい赤の瞳が印象的だ。
澁澤龍彦。
この男を殺せば、龍頭抗争は終結する。
全ての災禍の原因とも云える存在を前にして、昼夜が一歩進み出た。
静かな声で云う。
「……俺の仲間を返せ」
その声で、ようやく中也達の存在に気付いたように、澁澤が顔を上げた。
「ようこそ、退屈なお客人」
無感動な眼差しを澁澤は向ける。
「どうせ君達も私の欲するものを与えられはしない……早々に死にたまえ、彼らのように」
澁澤の背後から、ゆっくりと霧が立ち上る。
その足元には、何かが転がっていた。
中也がそれに気付き、目を見開く。
床に転がされていたのは、中也の仲間達。
行方不明になっていた六人全員だった。
全員、瞳孔が開ききっており、ぴくりとも動かない。
すでに絶命していることは明らかだった。
澁澤が告げる。
「君の友人はみな自殺したよ。退屈な人間は死んでも退屈だ」
「てめええ!」
中也の顔に赤い異能痕が走った。
強く握りしめた拳が震え、手袋が弾け飛ぶ。
あらわになった腕にまで、異能痕は広がっていた。
暴れる心が求めるままに、中也は異能を解放する。
風が起こり、中也の髪が揺らめいた。
「止めるなよ」
中也は太宰達に告げて、澁澤と向かい合う。
「やれやれ……」
ため息まじりに、太宰は後ろにさがった。
「良いの?」
「森さんは此処まで見越してるし、大丈夫ですよ」
そう、とルイスも踵を返した。
「“陰鬱なる汚濁”……か」
中也の異能が暴走を始める。
絶叫。
咆哮。
轟音。
ありとあらゆる音をあげ、ビルがまるごと破壊される。
衝撃波が待機を揺るがし、破片が砲弾のように飛び散った。
「君の異能力って、二次被害までは無効化できないよね」
「はい。ルイスさんが居なかったらビルの崩壊に巻き込まれて、中也と心中することになってました。考えるだけで気持ち悪い」
「……良かったね、僕の鏡まで無効化しなくて」
本当ですよ、と太宰は何度目か判らないため息をついた。
🍎🍏💀🍏🍎
「──……。」
惨憺たる様相を見せる現場を、遠くから眺める男が居た。
肩まで伸びた黒髪と紫水晶のような瞳を月光が照らす。
外套が、風に大きくはためいた。
ふっ、と無邪気な笑みをこぼし、底知れない表情を浮かべて、男──フョードルは、誰ともなく独り言ちる。
繊細な指が、音楽を奏でるように空を滑った。
「……楽しすぎるね」
ふと、フョードルは気付いた。
崩れゆくビルの少し手前、二人の少年が宙に浮いている。
正確には鏡の上に乗っているのだ。
「おや……まさか僕に気づくとは思っていませんでしたよ、ルイスさん」
フョードルは先程よりも口角を上げ、とても嬉しそうに笑っていた。
銃弾が降る。
砲声が響く。
|路面《アスファルト》が抉れ、血塵が散る。
哄笑と悲鳴が飛び交い、怨嗟の声が町を蝕む。
数多の命を奪い、夥しい惨劇を生んだ龍頭抗争。
五千億円という大金をきっかけに始まった抗争は、ヨコハマ全土を戦場へと変えた。
ある者達は双黒として戦いに身をやつし、ある者達は戦いで肉親を喪って路頭に迷い、ある者達はのちに、迷子達を引き取ることとした、血なまぐさい戦い。
それから六年後。
────龍は、眠りから目覚めようとしていた────。
---
1−1
出航を知らせる汽笛が、港に響き渡った。
強い日差しが吊り橋と海面に反射する。
潮風がそよぎ、鷗が鳴き声をあげて飛んでいく。
遠くで清らかな鐘の鳴る音がしていた。
近代的な高層ビルと、重厚な煉瓦造りの建物とが混在する港湾都市・ヨコハマ。
そのヨコハマの港近くの公園で、僕は一冊の本を読んでいた。
「……何か用でも?」
僕は本から目を離さずに問い掛ける。
わざわざ顔をあげなくても、気配で彼らがいることは分かっていた。
「依頼を一つ、引き受けてはくれませんか?」
「云ったよね? 僕、今は休業中なんだよ」
でもまぁ、と僕は本を閉じながら男の方を見て微笑む。
「内容と報酬が釣り合っていたら、考えないこともないかな」
丸眼鏡に背広という、学者風の外見をした彼の名は坂口安吾。
異能特務課の中でもそこそこの権力を持った人物で、後ろに護衛が控えている。
護衛の一人が資料の入っているであろう封筒を手渡してきた。
「内容についてはそちらを。報酬は貴方の望む額を用意しましょう」
「え、じゃあ20億で」
「はぁ!?」
護衛の一人が声を上げる。
流石にそこまで政府が出してくれないことは予想できている。
「冗談が通じないね。この依頼は受けさせてもらうけど、報酬は全部終わってからで良いよ」
「……。」
「どうかしたか?」
いえ、と安吾君は眼鏡を少し上げる。
僕が依頼を受けてくれるとは思っていなかったらしい。
現在も一応休業中という形をとっており、こういう依頼は全部断ってた。
ま、驚くのも無理はない。
「それでは、また連絡します」
「了解」
安吾君達が踵を返すと同時に、僕も立ち上がって彼らの逆方向へと歩き出した。
🍎🍏💀🍏🍎
暫くすれば、とある丘へと着く。
階段を下りる途中で、ふと立ち止まる。
目の前に広がるのは、緑に囲まれた墓地。
まだ数年しか経っていないんだったか。
整然と並ぶ無数の白い墓石が、太陽に照らされて橙色に輝いている。
「……あれ?」
僕は視界の端に二人の人影がいることに気がつく。
「もしかして……太宰さんの好きな人だった、とか?」
「好きな女性だったら一緒に死んでるよ」
太宰さんならそうか、と敦君は納得していた。
どうやら、あの場所に眠る人物について話しているようだった。
「……友人だ。私がポートマフィアを辞めて探偵社に入るきっかけを作った男だよ。彼がいなければ、私は今もマフィアで人を殺していたかもね」
太宰君の言葉に、敦君は困惑しているようだった。
真実なのか偽りなのか、見当のつきにくい話し方をしていたからな。
そんなことを考えていると、二人が僕に気がついたらしい。
「お疲れ様です、ルイスさん」
「うん、お疲れ」
僕は一輪の花を墓石に添えて、手を合わせた。
後ろでは太宰君が冗談めかした様子で、先程の話は嘘だと言っている。
本当のことだろ、と思いながらも僕は突っ込まないでおいた。
「国木田君あたりに云われて、私を探しに来たのだろう?」
「えぇ、大事な会議があるからと」
「──パス」
そう言った太宰君はさくさくと歩いていく。
「ちょっと新しい自殺法を試したくてね」
「またですか? もう……」
振り返る様子のない太宰君は、ひらひらと手を振っていてた。
敦君は呆れているようだった。
自殺|嗜癖《マニア》の太宰君がこう言い出したら、もう誰にも止められない。
彼の砂色の外套が、ゆらりと海風に揺れている。
敦君は、ため息をついていた。
「……会議の内容について何か聞いてる?」
「い、いえ……大事としか言われてませんけど……」
そっか、と僕は背伸びをした。
タイミング的に、僕が特務課から受けた|依頼《もの》と同じだろうな。
普通なら話ぐらいは聞く太宰君だけど、今回はパスした。
つまり、そこそこの案件なのだろう。
「太宰さん、どっか行っちゃったんですけど……」
「とりあえずは会議に向かったらいいと思うよ。僕もついていって良いかな?」
「大丈夫だと思います!」
それじゃあ、と僕達は探偵社に向かい始めた。
---
1-2
敦君と僕は、港にほど近い赤煉瓦で作られたビルに居を構える、武装探偵社へと来ていた。
向かう先は会議室だ。
重厚な扉をゆっくりと押し開ける。
さして広くも無い、けれど必要十分な規模の会議室。
壁の一面には大きなスクリーンが、もう一面にはホワイトボードが置かれ、固めて並べられた長机のまわりを十数人ぶんの椅子が囲んでいる。
昼と夜の間をとりしきる薄暮の武装集団、武装探偵社。
港湾都市ヨコハマにおいて、官憲だけでは如何しようもない事件を解決する異能者集団だ。
その方針と決定は、この会議室で生まれる。
福沢さん、春野さん、国木田君、乱歩、与謝野さん、谷崎君、ナオミちゃん、賢治君、鏡花ちゃん、そして……敦君。
太宰君こそいないものの、残る社員全員が会議室に集められている。
錚々たる面々に、これから始められる会議の内容の重さを感じたのか、敦君は少し緊張しているようだった。
一体、何があったというのか。
ま、予想はついているけど。
全員が席につき、国木田君が会議室の照明を落とす。
スクリーンに、ある街の様子が映し出された。
煉瓦造りの建物が目を引く、商店が軒を連ねたレトロな街並み。
猥雑でありながら|郷愁的《ノスタルジック》な雰囲気が漂う。
画面の端には時刻と場所が表示されており、深夜の台湾、デイーホアジエであることを教えてくれる。
暫くして、街並みに薄い靄のようなものがかかった。
──霧だ。
霧はゆっくりと、しかし着実に濃度を増し、街を呑み込んでいく。
街が霧で見えなくなったところで、映像が早回しにされた。
「──これは三年前に台湾のタイペイ市街にあった監視カメラの映像です」
生真面目な光景が説明する。
「見ての通り、濃い霧が、数分間という短時間で発生し、消失しています。ですが、これはただの異常気象ではありません」
画面の中の霧が晴れる。
映像が停止され、新たなものに切り替わった。
カシャリ。
硬質な音と共に映されたのは一枚の写真。
先ほどと同じ場所を、近付いて撮ったのか、煉瓦の建物に挟まれた道路が画面の中心に通っていた。
道路の真ん中には、多くの人が集まって、何かを囲んでいる。
さらに近付いた写真が映し出され、其れが何かが明らかになる。
路面に這いつくばり、真っ黒に炭化した────。
「この霧の消失したあと、不審な死体が発見されています……この焼死体です」
──もとは“人間”であった消し炭が、其処には転がっていた。
余程の高熱で燃やされたのか、道路まで焦げ付いている。
髪や服は勿論、骨さえ残っていない。
当然乍ら、容貌も表情も判る筈がなかった。
路面にこびりついた人のかたちの炭を、地元警察と思わしき人々が取り巻いている。
あまりにも惨い映像だった。
まぁ、良い気分ではない。
「ひどい」
自然、敦君の口から声がもれた。
炭化するほど死体を燃やすとか、まぁ、正気の沙汰ではない。
敦君が眉をひそめ、誰もが凄惨な現場に口をつむぐなか。
乱歩が駄菓子をぽりぽりと食べながら指摘した。
「この人、異能力者だね」
「仰る通りです。流石です、乱歩さん」
スクリーンの横に立って説明をしていた国木田君が、確りと頷いた。
「その界隈では有名な炎使いの異能者でした」
国木田君がリモコンを操作し、次の画面を映す。
「これは一年前のシンガポール」
スクリーンに獅子の頭と魚の胴を持つ、マーライオンの像が映った。
水辺にある白い像は、雑誌などでも多く見る景色だが、注視すべきはマーライオンの背だ。
男が、磔にされている。
だらりと力のない手足。
青白く変色した肌。
何より、全身に刺さった無数の|手札《カード》。
赤と黒で彩られた、トランプの手札だ。
男が死んでいることは明らかだった。
「やはり、濃い霧が発生、消失した直後に、発見された変死体です。彼は、手札を操る異能力者で、腕利きの暗殺者でした」
国木田君は淡々と語り、指を動かした。
手札に切り裂かれた男の写真が消され、今度は、巨大な氷柱に貫かれ絶命した女が映る。
「これは半年前のデトロイト。やはり霧のあとに発見された遺体」
多くの車が行き交い、高層ビルが立ち並ぶ都会の中心で、なぜか、地面から幾つもの氷柱が突き出している。
透明な槍となった巨大な氷柱は、女を高く持ち上げ、空中で死に至らしめていた。
国木田君の声が響く。
「お察しの通り、彼女は氷使いの異能者でした」
「つまり、不可思議な霧が出現したあと、各国の異能力者が、皆、自分の能力を使って死んだという事だな」
福沢さんの言葉を聞き、賢治君が国木田君を見る。
「この霧に、なんらかの原因があるわけですか?」
疑問のかたちを取っているけど、それは確認だ。
あたり覆う霧と、能力者の死体。
無関係な訳がない。
国木田君は軽く首肯した。
「確認されているだけでも、同様の案件が128件。おそらくは500人以上の異能者が死んでいるでしょう」
眼鏡を人差し指で押し上げる、
「異能特務課では、この一連の事件を、『異能力者連続自殺事件』と呼んでいます。……自殺と云えば」
ふと、国木田君が視線を上げた。
「太宰も阿呆はどうした?」
ま、その話題だよね。
自殺という単語で思い出すのなんて、太宰君ぐらいしかいない。
大袈裟に肩を揺らした敦君に、となりにいた鏡花ちゃんが不思議そうな顔をしている。
云いたくない、とか思ってるんだろうな。
「太宰君なら新しい自殺法を思いついたとかで、会議はパスだって」
「あのトウヘンボクが!」
案の定、国木田君が大声で叫んだ。
彼は何度も太宰君に逃げられ、振り回されている。
それはもう、気の毒になるほどに。
激怒する国木田君の顔と声には、怒りが溢れている。
「これだから彼奴は、もっと真剣に太宰を連れてこい」
「まぁ、そんなに怒らないで」
ほんと、敦君が怒られている意味が判らない。
全部太宰君が悪いのに。
国木田君が話を止めている間、僕は会議室内を見渡す。
金庫にお菓子を入れている乱歩に、それを見てる賢治君。
事件の概要を再確認した谷崎君に、彼を締め上げているナオミちゃん。
そんな個性豊かな中、冷静な声を与謝野さんがあげた。
「で、この件がうちとどう関係してるんだい?」
手元の資料を見ながら与謝野さんは問う。
「妾らも異能者だから気をつけよう、なんて話じゃないんだろ?」
「異能特務課からの捜査依頼です」
敦君をしぼりおえた国木田君が神妙な顔になる。
「この連続自殺に関係していると思われる男が、このヨコハマに潜入しているという情報を得て、我々にその捜査、及び確保を依頼してきました」
「……やっぱりね」
予想がついていたとはいえ、探偵社も駆り出されるとなると面倒なことになりそうだ。
気がつけばスクリーンに見覚えのある、線の細い青年の写真が映し出されていた。
癖のある長い白髪。
白皙の肌。
白い容貌のなか、真紅の瞳が昏く煌く。
国籍と名前、年齢以外の記録は、一切が不明と書かれている。
「澁澤龍彦、二十九歳。わかっているのは何らかの異能力者である事と、|蒐集者《コレクター》という通称だけです」
「|蒐集者《コレクター》……」
賢治君が国木田君の言葉を繰り返す声が聞こえる。
敦君の肩が、小さく揺れるのが見えた。
なーんか、嫌な予感がするんだよな。
「どうかした?」
「……いや、何でもない」
ぱちりと音がして、会議室に灯りが点いた。
一気に部屋が明るくなる。
互いの顔が見えるなか、福沢さんが告げる。
「武装探偵社はこの依頼を受ける」
「……。」
「この事件の直接の被害者は能力者であり、探偵社員である諸君らの安全を守る為でもあるが、それ以上に、この事件には、より大きな禍を社会にもたらす予兆を感じる」
より大きな禍を社会にもたらす予兆、か…。
確かに、僕もそんな気がしていた。
「探偵社はこれより、総力をあげて、この男の捜査を開始する──」
---
1-3
一度解散になり、少し経った。
色々と探偵社員が慌ただしく作業しているなか、僕は資料を読んでいた。
何度も目を通しておいて、損はない。
「今頃なんですけど、ルイスさんは探偵社員じゃないのに会議の内容聞いても良かったんですか?」
ふと、そんな声を谷崎君が上げた。
答えたのは福沢さん。
「ルイスは探偵社員となった。表向きには私が依頼したことにしているがな」
そういえば、ちゃんと挨拶とかしてなかったな。
「一応|組合《ギルド》戦後から入社したルイス・キャロルだ。改めて、これからよろしく」
「ルイスさんが仲間だと、心強いですね」
そう云ってもらえると嬉しいな。
そんなことを考えていると、特務課から連絡が来た。
もう少し詳しい情報を貰えるらしい。
「谷崎、行くぞ」
「はい!」
「僕もついていこうかな」
此方にも安吾君から連絡が来てる。
探偵社のついで、と云ったところかな。
🍎🍏💀🍏🍎
月明かりのもと、僕達三人は足音を忍ばせて歩いていく。
ヨコハマの港に近い倉庫街。
赤錆の浮いた倉庫がいくつも並んでいる。
倉庫の間から見えるベイブリッジの光が、辺りを一層暗く感じさせた。
街灯もなく、人気もない。
秘密の会談にふさわしい静まり返った場所に肩を並べて踏み入る。
「……どう思います?」
歩きながら、谷崎君がためらいがちに問いかける。
「何がだ」
「連続自殺なんて、本当にあり得るんでしょうか?」
谷崎君の目線だけが、ちらりと僕達に向けられた。
その顔からは隠せない不安が漂う。
国木田君は表情を変えず、暫し沈黙して、硬い声で答えた。
「何とも云えん」
淡泊に告げ、国木田君は続ける。
「仮に精神操作の異能を受けたのだとしても、それほど強力な異能力となれば必ず国際捜査機関に情報があるはずだ……」
にもかかわらず、現在のところ、依頼人である特務課からは何の情報もない。
現状を正しく把握した谷崎君はうつむいていた。
「これから会う特務課のエージェントから、もう少し詳しい情報をもらえるといいね」
ため息をつきながら、僕は二人と足を進める。
あたりは静かで、互いの呼吸が聞こえそうなほど。
満月なのか、やけに大きな月が頭上を照らしていた。
待ち合わせ場所は近い。
「……さて、ここだね」
倉庫と倉庫の間にある、路地の手前。
僕は腕時計を確認した。
時刻は午後七時五九分四五秒。
合流予定の一五秒前。
「? ……いない。ここが待ち合わせ場所のはずだが」
「国木田さん! ルイスさん!」
谷崎君が鋭い声を上げた。
緊張感を孕んだ様子に、僕達は弾かれたように顔を向ける。
彼が見ているのは路地の向こう。
何が、と思う間もなかった。
路地の先に倒れる人影。
清潔そうな背広。
少しすり減った靴底。
弛緩した四肢。
そして、倒れた体の下に広がる、血。
じわじわと、血は縁を描いて広がっていく。
青白い月光が鮮やかな赤い血に反射した。
「━━!」
血を流したまま無言で倒れる男を見て、僕達は即座に動いた。
国木田君はズボンから拳銃を素早く抜き、姿勢を比較して男に駆け寄る。
同時に、谷崎君も後背に隠していた拳銃を取り出し、構えた。
倒れた男を挟んで背中合わせになるように、二人は銃を構え、辺りを警戒する。
その間に、僕は一応のために手袋を用意した。
倒れている男の首筋━━頸動脈の辺りを指で触れる。
男の体は温かいけど、脈はない。
おそらく、さほど時間は経っていないのだろう。
僕達の到着する数分前に殺されたとしか思えない。
でも周囲には人影も、人の気配も感じられなかった。
「……ルイスさん」
「特務課のエージェントだね」
死んでるよ、と僕は冷静に告げた。
二人は驚きの声をあげる。
死んでいる男の隣に屈み込んでいた僕は、ふと、そばに“何か”が落ちているのを見つけた。
月明かりに照らされた“其れ”を、僕はそっと手に取った。
「どうしました?」
不安げな問いに、僕は“其れ”を持ったまま立ち上がった。
「……不自然だよね、流石に」
偶然、落ちているような類のものじゃない。
むしろ、強いメッセージ性を感じる。
犯人の遺留物かな。
“其れ”は、ちと同じ色を纏ったリンゴだった。
つるりとした表面が月光に輝く。
偽物や爆弾などではない。
紛うことなき、ただの果実だ。
ただし。
熟れたリンゴには、一振りのナイフが刺さっている。
罪の味を断罪するかのように。
原罪を象徴する赤い球体に、刃が穿たれている。
陰惨で不吉な気配が“其れ”から毒々しく滲み出ていた。
「それは?」
谷崎君の問いに、僕は首を横に振る。
多分、太宰君が関係しているけど不確定なまま伝えるわけにはいかない。
「犯人が残したもので、間違いないでしょうか」
「そうだね。このナイフとか、凶器かもしれないし」
でも、リンゴの意味は分からないな。
掲げ持つリンゴから瑞々しい果汁が滴り落ち、地面に濡れた跡を作る。
━━━━はじまりの鐘は、すでに鳴っていることだろう。
---
幕間
一度、国木田君達とは別れて連絡をする。
追加の情報を貰えなかったこともあるけど、リンゴが気になる。
澁澤龍彦はもちろん、太宰君にも関わりがある気がした。
安吾君に連絡をする前に、僕はメールの返信を先にしておくことにする。
やぁ、と僕は電話を耳に当てながら笑う。
相手はあまり良い気分ではないようだった。
「先程探偵社の国木田さんから連絡を受けました。リンゴ……でしたか」
僕は肯定してパソコンを異能空間から取り出す。
写真とか送りつけた方が早いな。
送信していると、軍警がやってきた。
「これさ、後の処理は任せて大丈夫?」
「えぇ。資料はすぐに別の者に届けさせます」
いいや、と僕はパソコンを閉じる。
「また消される可能性もあるし、エージェントの手に資料は残っていなかった」
「……情報はもう誰かの手に渡っていると」
「そういうこと。だからパソコンに送っちゃって」
後のやりとりはアリスに任せることにしよう。
とりあえず、僕は僕のやるべきことをやらないとね。
🍎🍏💀🍏🍎
古いジャズが、微かに流れていた。
地下にある店内に窓はない。
柔らかい空気、絞られた照明。
淡い橙色の光が、壁に並んだ空のボトルを照らす。
年代物のカウンターとスツールは淡い飴色になり、木目が良い風合いに育っている。
からりとグラスの中の氷がまわる、心地よい音が聞こえた。
「やぁ、さっきぶりだね」
階段を降り切った僕がそう声をかけると、彼は此方を向いて微笑んだ。
ある席に置かれていた蒸留酒の入ったグラスには、白いアリッサムの花が添えられている。
其処は、織田作さんがいつも座っていた席。
置かれている酒も、彼がいつも飲んでいた銘柄の蒸留酒だった。
けれど、グラスを呷る手は、今はもうない。
そもそも、グラスの置かれた席には誰も座っていない。
からっぽの席に、花とともに置かれたグラスだけが、寂しく佇んでいる。
「大切な会議とやらは終わったんですか?」
「あぁ。君がいないから、国木田君がまた怒っていたよ」
その様子が思い浮かんだのか、太宰君は小さく笑った。
「これ、頼まれていたやつね」
僕は“其れ”を机に置きながら、いつも三毛猫の眠っていた席へと腰掛ける。
対して太宰君は、微笑みながら自身のグラスを手に取った。
机に置かれた“其れ”は毒々しい赤と清らかな白のカプセルだった。
「……ありがとうございます」
織田作、君の云うことは正しい。
そう囁き、カプセルに手を伸ばした。
「人を救う方が、確かに素敵だよ」
ただし、と云いたげに太宰君は笑った。
「……生きていくのならね」
カプセルを口に入れた太宰が、名残惜しそうに席を立つ。
「じゃあ、行くよ。織田作」
別れを告げて、長外套のポケットから〝何か〟を取り出し、カウンターに置いた。
そのまま振り返ることなく、太宰君はバーを去る。
古いジャズの音に、靴音が重なる。
「……。」
やがて、靴音が聞こえなくなった後。
カウンターには、グラスとともに〝其れ〟が残された。
────ナイフの刺さった、赤い林檎。
殺されたエージェントの近くにもあった“其れ”を見て、ため息をつく。
「……もう暫くはここに居ようかな」
罪の|果実《リンゴ》は甘美な腐臭を漂わせていた。
---
2-1
ルパンを出ると、そこには誰もいなかった。
先程まで太宰君と安吾君がいたことは、鏡で見ていたから知っている。
彼らが昔のように笑える日は来るのだろうか。
否、来ないだろうな。
ヨコハマを離れ、街全体を見渡せる高所へとやってきた。
正確には鏡の上に立っているんだけど、それはどうでもいい。
「……はぁ」
霧、霧、霧。
真っ白な霧が街を埋め尽くしていく。
本来なら、ここまで高所に来ていれば夜景が綺麗なはず。
でも霧に呑み込まれて何にも見えない。
「これが澁澤龍彦の異能力、か。前回は全く関わりがなかったけど、どうして自殺するのかな」
個人的には、霧に触れるだけで自殺するわけじゃない気がするんだよね。
龍頭抗争のとき、自殺したのは何故か異能力者だけだし。
『ルイスさん』
「やぁ、安吾君。霧に呑まれる前に特務課へ帰れたようで何より」
僕はヨコハマへ、鏡の上を歩いていく。
「中ではどれ程の異能者が犠牲になっているかな?」
『……分かりません』
「中とは連絡が取れていない感じか。情報ありがとう」
あと少しで、霧に触れてしまう。
そんなギリギリのところで僕は地上へと降りた。
「今回の事件、太宰君が一枚噛んでるでしょ。僕一人じゃ解決できなさそうなんだけど」
『……ルイスさん』
「無理だよ」
僕は即答した。
多分、澁澤龍彦を止める方法は一つしかない。
そして僕は、依頼だとしても遂行しない。
「排除なんて出来るわけがない。皆には悪いけど僕はこの事件で役立てそうにないよ」
『では、別の依頼をさせてください』
安吾君は優しく云う。
『少しでも被害を減らし、探偵社員として事件を収束させてください』
「……僕、探偵社員じゃないんだけど」
『そういうことにしてありますよ、ちゃんと』
どうやら、福沢さんに聞いたらしい。
まぁ、安吾君なら良いか。
そんなことを考えながら僕は息を吐く。
「一応鏡は手元に置いておいて。連絡できそうならする」
『……ご武運を』
さて、と僕は知っている探偵社員の電話に片っ端から掛けてみる。
やはり、霧の中にいるであろう彼らに電話は繋がらなかった。
「……準備は万端に」
ナイフや銃を予備も合わせて、戦争の時より何倍も用意する。
僕の考えが正しければ、霧の中では異能が使えない。
異能なしの戦闘をイメージしてみるけど、どれだけ頼っていたのかがハッキリするね。
「僕はこの中で自殺するのかな?」
---
2-2
聳え立つ高層ビル、巨大な赤煉瓦倉庫、歴史ある市庁舎、遠く伸びるベイブリッジ。
白い霧に覆われた街は、妙に静まり返っている。
人がいない。
いくら深夜とはいえ、ショッピングモールで華やぐ繁華街にも、観覧車のある遊園地にも、海に近い公園にも、人の姿が見当たらない。
ただ白い霧が立ち込める、異様な雰囲気があった。
「……なーんか、変な感じがするんだよな」
街を歩きながら僕は呟く。
異能が使えないのは予想内だから別にいい。
でも、静かすぎる。
聞こえる音も、石畳に反響する自身の足音だけ。
ただ、白い霧が人のいない廃墟のような街を隠している。
「……やぁ」
僕は足を止めて、声を掛ける。
振り返ると同時に鋭い金属音が辺りに響き渡った。
僕のナイフは其奴に当たっていないようだ。
跳ね返して距離を取った僕は、相手の姿を確認する。
「え……?」
驚きを隠せなかった。
ナイフを握る手が緩む。
僕と変わらない背丈。
もちろん、髪の色も同じだった。
でも、其奴の姿はまるで━━。
「━━アリス?」
次の瞬間、辺りに幾つもの鏡が現れた。
同時に異能の姿も消える。
どの鏡から出てくるかは分からない。
「……ッ」
ナイフを構えたけど、蹴りの勢いを消さなかった。
そのまま僕は水平に飛ぶ。
ガラスを破り、建物内へ転がり込む。
破片が刺さったりして、血だらけになった。
「僕に蹴られた人は、こんな気分だったんだね……面白いことを知れた……」
アレは僕から分離した『|鏡の国のアリス《Alice in mirrorworld》』かな。
もし『|不思議の国のアリス《Alice in wonderland》』も分離していて、此処に来たら厄介すぎる。
そんなことを考えていると、目の前に鏡があった。
鏡から伸びてきた拳はギリギリ避けれる。
考えている暇はない。
走るしかないな、これ。
🍎🍏💀🍏🍎
どうにか撒けた。
鏡で索敵しようにも、この霧では見えないはず。
「……にしても」
結構な怪我だな、僕。
いや、出血が多いだけで見た目ほどの傷ではない。
ただこの状態で一夜越すのは、一人じゃ難しい。
ため息をつく僕の耳に入ってきたのは━━。
「獣の、唸り声」
それだけじゃない。
遠くから何度も破砕音が聞こえている。
ま、人のできる所業ではないよな。
とりあえず壁に手をついて立ち上がる。
「異能力『月下獣』」
「異能力『夜叉白雪』」
建物の影から見えたのは、そう叫ぶ二人の姿。
でも、何も起こらない。
敦君は虎に変わらないし、夜叉白雪も現れない。
それぞれ驚いている間にも獣の唸り声は聞こえた。
「━━走るよ」
二人の腕を強く掴み、駆け出す。
一瞬見えた獣の正体は判らないけど、闇の中その瞳は光っていた。
コンクリートと鉄と石。
時が止まったような無機物で出来た街を、僕達は走る。
背後から轟音と白い煙が上がり、例の獣が道路や車に体当たりをしながら追ってきていた。
衝撃にアスファルトが割れ、土煙が巻き起こる。
細かい礫が背中に当たるのを感じながら僕達逃げた。
車をバリケード代わりにして逃げても、細い路地に入っても、方向を急に変更しても。
謎の獣は車を薙ぎ払い、ビルを吹き飛ばし、素早い動きで追ってくるし、回り込んでくる。
宙を飛んだ車が大破して、ビルの壁が盛大に崩れ白煙を上げた。
逃げても逃げても、獣は僕達を諦めない。
執念深く追い回してくる。
圧倒的な力と速さに、僕達は為す術がない。
「鏡があればまだ……」
無いものは仕方がない。
息を切らして、手を引き続ける。
捕まったら一生の終わり。
彼らをこんなところで死なせるわけにはいかない。
「鏡花ちゃん、敦君を頼んだよ」
「ルイスさん!」
このままでは追いつかれる。
だから、少しでも足止めをしないといけない。
「あーう!」
間の抜けた声が、交差点に響き渡った。
敦君の声、だよな。
---
2-3
背後で何が起こっているのか、把握する余裕はない。
でも、運は味方をしてくれたようで少し安心した。
ドンッ、という強い衝撃と共に、近くにあった車のボンネットに獣が降り立つ。
霧に遮られて獣の姿は影しか見えない。
けど、しなやかで大きな体と太い四本の脚、弓なりに上がられた尾はどこか見覚えがある。
「悪いね」
獣が降り立った車のそばで、壊れた信号機がバタバタと音を立てている。
僕は腰から拳銃を抜き、素早く撃った。
連続で放たれた三発の銃弾は、獣が降り立った車のガソリンタンクを貫く。
タンクからガソリンが噴き出し、道路へと広がっていく。
ガソリンの引火点はマイナス四十度以下。
静電気などの火花でも容易に引火する。
さらに揮発し、発生したガソリン蒸気の燃焼範囲は広い。
濃度がある程度薄くても燃焼する。
数十センチ離れていたところで、大気より比重の重いガソリン蒸気は下に流れ、燃焼可能な状態で火花と接触可能。
必然で、上記の及ぶ広い範囲で急激な燃焼が起こる。
「逃げるよ」
二人の元に行くと、何故か国木田君もいた。
右腕と左脇腹の二箇所が血で汚れていて、特に左脇腹の傷がひどそうだった。
「ルイスさん、国木田さんが撃たれていて━━!」
「詳しい話は後で聞く」
そう云うと同時に、爆発が起こった。
凄まじい爆発音と共に辺りがオレンジ色に染まる。
熱風が吹き荒れ、橙色の炎と白い煙が広がった。
鏡花ちゃんに敦君のことは任せ、僕は国木田君に肩を貸して一度退いた。
🍎🍏💀🍏🍎
狭い路地には、薄汚れた太いダクトが幾何学模様を描いて天井と壁を入り乱れる。
埃っぽい空気が停滞し、照明もほとんどない。
街の裏側とでも云うべき、暗い場所。
そんな場所を僕達は音を立てて金属質の床を走り、通路の奥のくぐり戸へと進む。
僕が背後を警戒している間に鏡花ちゃん、敦君、国木田君の順で通り抜けた。
全員がくぐり戸を通り終わり、金属で出来た格子状の扉を下ろす。
通路は狭いから、あの獣が来る可能性は低い。
それ以外は、判らないけど。
「……鏡花ちゃん」
僕が言い終わるより前に、彼女は先に走って行った。
そして、国木田君を一度休ませる。
逃げるためとはいえ、重傷を負っている走らせてしまった。
「すみません、助かりました」
「お礼はいらないよ。君と合流できただけで十分だ」
「大丈夫ですか、国木田さん。何があったんです?」
国木田君は呼吸を整えながら云う。
「自分の異能にやられた……」
「……自分の、異能に?」
まぁ、そうだよな。
僕も実際『|鏡の国のアリス《Alice in mirror world》』に襲われてるし。
つまり澁澤龍彦の異能、改め例の霧に触れた異能者から異能が分離する。
取り戻す方法は、何だろうな。
「━━!」
最悪だ。
扉が一瞬で破壊され、その向こうには見知った姿がある。
仮面の顔と白い着物。
長い髪を靡かせた剣の使い手『夜叉白雪』。
その額には見覚えのない赤い結晶が輝いていた。
今、思い返してみるとアリスの額にも同じ結晶があった。
あれを破壊すれば、異能を取り戻せる可能性が高い。
「走れ」
僕がそう云うと同時に、車の急ブレーキ音が聞こえてきた。
進行方向の路地に、一台の車が停まっている。
前後両方の扉が開けっぱなしで、鏡花ちゃんの姿が見えた。
やっぱり考えることは同じか。
とりあえず探偵社に向かうためには“足”が必要だ。
重傷の国木田君も連れ、四人で逃げるための移動方法が。
「国木田君は頼んだよ」
夜叉に向かって発砲するも、斬られてしまった。
そう簡単には壊せないか。
実体があるから蹴りは入るけど、流石に怯ませることはできない。
回し蹴りにして確認してみると、敦君達が車に乗り込むところだった。
前の扉は開いている。
僕は即座に退いて転がり込む。
同時に鏡花ちゃんが車を発進させた。
急発進だったからちゃんと座席に座れず、逆さまになっている。
とりあえず、対処法は判った。
同じ技量のアリスに勝てるかどうかは、判らないけど。
---
2-4
人のいない、時間が停止したような夜の街を、一台の車が乱暴に走り抜ける。
限界まで速度を出しているからか、カーブを曲がるたびに耳障りな音をたて、車体が大きく揺れた。
それでも速度を緩めず疾走する。
鏡花ちゃんが運転するその車の助手席には、僕が座っていた。
そして後部座席には怪我をした左わき腹をおさえる国木田君と敦君が座っている。
「はい、止血帯。何もしないよりはマシでしょ」
「ですが、ルイスさんも酷い怪我を……」
僕は自分を見て笑う。
確かに国木田君のように見た目は重傷だ。
でも出血が多いだけで傷自体はそこまで酷くない。
「知り合いからもらった塗り薬があるから大丈夫だよ」
どうにか説得して、国木田君が手当てしている間に僕も傷薬を塗っておいた。
この薬は英国軍を抜ける際に先輩がくれたもので、ある異能で生まれた妖精の鱗粉が練り込まれている。
本来なら妖精の羽を煎じて飲むのが一番。
でも、重症から瀕死の状態の時ではないと回復し過ぎてしまう。
だから先輩は軽傷の時に使えるよう、普通の軟膏と混ぜて効果を薄めている。
本当なら与謝野さんがいない今、羽を煎じた飲み薬を国木田君に渡すべきなのかもしれない。
でも、煎じて五分以内に飲まないと毒になることもあって今日は持ってきていなかった。
「国木田さん。さっき云ってた連続自殺の理由って……」
「…....異能者は自殺したのではない」
抑えた声で、国木田君は云う。
「自分の異能に殺されたのだ」
信じがたい言葉に、敦も鏡花も押し黙る。
まぁ、僕もその線で考えてるから驚きはしなかったけど。
それにしても、異能の分離か。
改めて考えると厄介だな。
鏡花ちゃんのように、味方だった異能生命体が敵になる場合もある。
国木田君や福沢さんと云った戦闘能力が高い人は、その異能者の形をとるのだろうか。
どちらにしても、戦いにくい。
霧に呑まれた異能者が全員死んでもおかしくはない。
「……これが政府が手綱を握れなかった異能者、か」
「どうかした?」
「いや、何でもないよ。とりあえず探偵社に急ごうか」
🍎🍏💀🍏🍎
霧に囲まれた、赤煉瓦づくりのビルの中。
武装探偵社の内部は誰もおらず、ひどい有様になっていた。
「うわ……なんだこれ……」
そう敦君が零すのも無理はない。
ひしゃげたロッカー、輝された家具、割れた照明、誰かに殴られたように確認した机。
書類や破片が散らばり、足の踏み場もなかった。
この前、社員のほとんどが集まった会議室も同様だ。
長机は壊され、倒され、ばらばらになった椅子のうえにモニターが落とされている。
無茶苦茶だ。
無事なものが見当たらない。
激しい戦闘の後に少し足を止めていると、国木田君に急かされた。
「社長室だ」
止血帯で応急処置はしたものの、まだ万全ではない。
痛みと出血で呻く国木田君を支えながら、僕達は社長室へと向かう。
途中、ボロボロになった医務室が見えた。
「少し見てくるから先に行ってて」
棚が倒れ、カーテンが破れている。
戦闘があったのは、跡を見ればすぐに判った。
飛んで跳ねて医務室を探索してると、目的の棚が見つかった。
中に入っている止血帯や消毒液は無事そうだ。
無断で申し訳ないけど緊急時ということで、貰った分は新しいものを返そう。
「……さて、と」
必要なものが集まって僕は社長室へと向かった。
社長室も矢張り、他の部屋と同じように書類や倒れた家具が散乱していた。
普段の静謐さは欠片も感じられない。
『……繋がりそうです』
ざざ、と|雑音《ノイズ》の交じる液晶の画面が社長室の壁から迫り出していた。
どこかと連絡を取ろうとしてるのか。
『暫く、このレベルをキープしてください。とりあえず妨害できないようです……聞こえてますか?』
最後の此方に向けられた言葉で、通信相手が分かった。
『福沢社長、ですか?』
「国木田です。社長は行方知れずです。其方は異能特務課で間違いないですか?」
ようやく接続が安定したのか、画面の乱れが消えた。
安吾君が軽く自己紹介をしている。
映写機などが無いから、此方の様子は見えていないか。
『国木田さん、現在そちらはどういう状況ですか?』
「俺以外には中島敦と泉鏡花、そしてルイス・キャロルかいます。それ以外の社員は、現在、行方不明です」
『了解しました……ですが、合流できたようで何よりです』
国木田君達が僕の方を見たので、小さく笑っておく。
『回線が不安定なので手短に話します。例の霧の現象が、このヨコハマでも起こってしまいました。ただし、これほど大規模な霧は、過去に観測例がありません』
安吾君の言葉と共に画面が切り替わり、衛星で撮った上空からの画像らしきものが映される。
日本全体を映していた画像が徐々に拡大され、神奈川県周辺が映し出された。
県東部、ヨコハマの上空が白い霧で覆われている。
『拡大こそ止まっているものの、現在、ほぼヨコハマ全域が霧に覆われ、外部と遮断された状態にあります。ヨコハマ内部の人間は、その殆どが行方不明、または消失……異能者のみ存在しているようですが、彼ら──つまり貴方がたにも、危機が迫っています』
「此方でも確認しました。この霧の中では、異能者から異能が分離し、持ち主を殺そうとします」
『幸い、この現象の元凶と思われる異能者の居場所は特定しています』
霧の中心を、赤い光点が示す。
「確かここは……」
『ヨコハマ租界のほぼ中心、骸砦と呼ばれる廃棄された高層建築物です』
説明に合わせ、画面に不気味な形をした漆黒の塔が映し出される。
幾つもの尖塔を備え付けた姿は、精緻すぎる彫刻のせいか、どこか禍々しさを感じさせる。
周囲に高い建物はなく、孤高に聳え立つ姿は他者を寄せ付けない。
光点の位置と、骸砦という名を聞いた時から予想はついていたけど此処とはね。
一枚、鏡は置いてあるけど異能のない今ではあまり意味はない。
「やはり、例の澁澤龍彦ですか?」
「そうだろうね。彼以外にこうやって街を包み込むほどの霧を操る異能者は、見たことがない」
『……貴方がた探偵社に重要な任務を依頼します』
画面には骸砦ではなく、安吾君の姿が映っていた。
『首謀者である澁澤龍彦を排除してください。方法は問いません』
安吾君の言葉に、鏡花ちゃんが鋭い眼差しで頷いた。
まぁ、彼女なら敦君と違って排除の意味を理解しているだろう。
だからこそ、僕は霧に入る前に断った。
『それと、これは補足ですが、その首謀者と同じ場所に、どうやら太宰君がいるようです』
「太宰が?」
「捕まってるってことですか?」
敦君の言葉に、安吾君の顔に動揺が走った。
まぁ、僕も同じだけど。
「……それならどれだけ楽だったか」
思わず、そんな言葉を零してしまう。
動揺を隠すように安吾君が声を荒げたかと思えば、声が途切れて|雑音《ノイズ》が急に大きくなった。
画面は乱れ、再び白黒の砂嵐になった。
敦君が身を乗り出そうとした時、轟音が響き、事務所が揺れる。
「来たか…………」
国木田君が眉を寄せた。
音と衝撃の度合い、位置、そして先程の経験からして、何が起こったのか僕や国木田君には察することができる。
武装探偵社の入るビルに手榴弾が投げられた。
「おそらく相手は俺の異能です」
確かに、眼鏡をかけた長身の男がビルの入り口に立っていた。
その額には赤い結晶が輝き、手には手帳がある。
あれが国木田君の異能『独歩吟客』というのは一目で判った。
でも表紙には“理想”ではなく、“妥協”の文字が書かれている。
「お前達は先に行け。奴は俺が食い止める」
「でも国木田さん、自分の異能になんて勝てるわけが……」
勝てるかどうかではない、と国木田君は立ち止まる。
「戦うべきかどうかだ」
敦君は足を止め、うつむく。
流石は国木田君だな。
そんなことを思っていると、彼は毅然と告げた。
「俺は己に勝つ。いつだってそうしてきた」
宣言と共に、国木田君は壁に掛けられた掛け軸の奥の壁を叩く。
“天は人の上に人を造らず”と書かれた福沢さんの掛け軸が揺れ、天井から隠し棚が下りてくる。
棚に並べられているのは、いくつもの重火器。
「これって……」
「うちは“武装”探偵社だぞ」
茫然とする敦君に、国木田君は堂々と答えた。
拳銃とマシンガンを取り、慣れた手付きで装填する。
ジャキンと、硬質な音が室内に響いた。
持ってけ、と国木田君が敦君達に拳銃を渡す。
鏡花ちゃんは「私はいらない」と即答したから受け取ったのは敦君だけだけど。
国木田君に云われ、僕も少し物色することにした。
銃弾が少し足りない気がしたから助かる。
ついでにライフルも借りることにした。
背負うには少々大きいけど、使い慣れたタイプだからこの霧でも多少は狙撃できると思う。
「奴の能力では手帳のサイズを超えた武器は作り出せん。俺が引き付けている間に、裏口から逃げろ」
国木田君の選んだ武器はスライド式散弾銃、レミントンM870。
一米近くある銃を持ち、弾を込める。
「……彼奴らのこと、頼みました」
「君は一人で大丈夫?」
小声で聞かれたから、小声で返す。
すると国木田君はフォアエンドを引いて銃を構えた。
そして、小さく笑う。
「問題ないです。それに、事件の解決の方が優先なので」
国木田君らしいと云えば、国木田君らしい回答だ。
彼の理想の為にはこれが最適解か。
「……Good luck」
僕は先に裏口へと向かい始めた。
「ルイスさん!」
「急げ!」
緊迫した国木田君の声に押し出されるように、二人も駆け出した。
🍎🍏💀🍏🍎
再び車に乗り発進した僕達は、背後で大きな爆発音がしたことに気がついた。
「国木田さん!」
振り返ると、赤煉瓦のビルの煙が上げているのが見える。
ちょうど探偵社が入っている四階のあたり。
暗い夜に炎が煌めいている。
「……国木田さん、大丈夫かな」
弱気に呟いた敦君に、爆発音にも動揺せず車を走り続ける鏡花ちゃんが答えた。
「今の私達にとって最優先事項は、澁澤龍彦の排除」
排除、ね。
改めて探偵社に渡された任務を思い出す。
敦君には少々荷が重いかな。
「鏡花ちゃんは排除って云うけど……澁澤龍彦ってやつがどんな悪いやつでも、必ず殺す必要はないよ。捕まえれば良い」
「……本当にそう思うのかい?」
「え……?」
何でもない、と僕は霧の中燃える炎を窓から眺めた。
---
3-1
武装探偵社を出てから、さほど時間は経っていない。
車は濃い霧の中を猛スピードで爆走し、中華街をすり抜けていく。
速度を落とさずに曲がるから、カーブのたびにドリフトでタイヤが悲鳴を上げた。
「よくこんなスピードで走れるね」
「大丈夫なの?」
「ヨコハマの地形は全て頭に叩き込まれている。暗殺のスキルは異能力とは関係ない」
個人の持つ知識や技能は残るから問題ないってことか。
なるほどねぇ、と僕は欠伸をした。
そういえば最近、まともに睡眠取れてないんだった。
流石に仮眠取れないよな。
「ルイスさん」
「ん? どうかした?」
鏡越しに鏡花ちゃんと目が合う。
「目を閉じるだけでも違うと思う。国木田さん程じゃないけど、出血が凄かった」
よく見てるな、この子。
まぁ、確かに彼女の言う通りかもしれない。
休めるかは判らないけど、目を閉じておこうかな。
暫くの間、二人は僕を気にしてか小声で話しているようだった。
「……来たね」
「来た」
僕と同時に鏡花ちゃんも気が付いたらしい。
直後、車の天井を刀が突き破ってくる。
「わっ……と!」
どうやら、刀は敦君の方に刺さったらしい。
鏡花ちゃんが思いきりハンドルを切ったけど、夜叉白雪は降り落とせないだろうな。
とりあえず窓を開けて、腕を出す。
建物の窓を鏡代わりにして場所を掴めた。
夜叉がもう一度刀を刺すと同時に、僕は引き金を引く。
僅かとはいえ、抜くために要する時間で鏡花ちゃんは敦君の首を掴んで車を飛び出した。
僕も急いで外に出ると、身体が地面に叩きつけれた。
受身を取れたけど、痛いものは痛い。
誰も人が乗っていない車は暴走し、電柱に激突して爆発していた。
爆風が吹き、土煙が上がった。
身軽に着地した鏡花ちゃんが素早く短刀を構えているのが、視界の端に映る。
僕達の見据える先には、土煙を剣圧で散らす夜叉の姿。
車の爆発で損傷は与えられなかったらしい。
夜叉が襲いかかり、彼女はその刃を短刀で弾く。
攻防が続き、刃が撃ち合う。
援護に入ろうとすると、風の切る音が聞こえた。
振り返ると同時に、目の前に鏡が現れる。
「……マズい」
どうにか防御の姿勢を取るも、また僕は地面を転がった。
なんで攻撃だ。
腕は折れてないけど、もろ食らってたら暫く立てなかっただろう。
「高所から落下し、鏡の転移を使ってエネルギーを横に使う。僕の昔の戦い方そっくりだ」
ねぇ、と僕はアリスに向かって微笑む。
鏡花ちゃんの状況は、この一瞬で悪くなっていた。
鍔迫り合いをしていて、押し負けそうになっている。
助けに入りたいけどアリスをすぐに倒すことは出来ないよな。
銃を構えると、僕とアリスの間を何か飛んでいった。
そして、そのまま夜叉白雪へと激突する。
「……何が起こって」
確認する間も与えず、アリスは蹴りを入れてきた。
今度は片腕で受け止めて、その手に持っていた銃を手放す。
逆手とはいえ、引き金を引くことぐらいはできるだろう。
問題なく掴めた拳銃で撃つも、赤い結晶は破壊できなかった。
少しズレて、欠けた程度。
早くどうにかしないといけないのに。
そんな焦りばかりが僕の中で膨れ上がった。
「ルイスさん、マフィアの秘密通路へ逃げるからついて来て」
いつの間にか背後にいた鏡花ちゃんが告げる。
「彼処はマフィア上層部だけしか使えないけど?」
「芥川と敦が先に行ってる」
それならいいか。
僕はアリスを蹴り飛ばして鏡花ちゃんを抱える。
急いで伏せれば、夜叉の刀は当たらない。
「悪いけど、このまま行くよ」
道を進む途中で虎と何かが戦っている。
芥川君が近くにいるなら、あれは“羅生門”か。
早く合流して情報共有したいな。
---
3-2
鏡花ちゃんを抱えながら街を駆ける。
未だ夜叉の攻撃は絶えない。
秘密通路までの道のりは、残りわずか。
「ルイスさん! 鏡花ちゃん!」
僕がドアを壊して入ると同時に、そんな声が聞こえた。
街中にある何の変哲もない中華料理店。
ここにマフィアの秘密通路への扉が隠されている。
もう、二人は扉の向こうにいる。
すぐ後ろにいる夜叉白雪が刀を振り回す。
狭い店内で刀なんか振り回すもんじゃないね。
食器も建物もボロボロだ。
「はい、よろしく」
鏡花ちゃんを敦君へ向けて投げると同時に、僕はナイフを取り出す。
刃の交わる音が店内に響き渡る中、隠し扉が閉まり始める。
どうにか押し返して転がり込んだ瞬間、夜叉が刀を投げてきた。
僕に当たりそうだったが、鏡花ちゃんが跳ね返す。
夜叉の顔面に当たる直前まで見ることができ、隠し扉は閉ざされた。
「……痛い」
転がり込んだ際に逆さまになったまま呟いたのと、部屋が動き出すのは同時だった。
🍎🍏💀🍏🍎
隠し扉の向こうにあったのは、|昇降機《エレベーター》。
業務用なのか、普通の昇降機より随分と広く、殺風景だった。
金属網の床からはワイヤーが見えて、ゆっくりと地下に向かって動いているのが判る。
橙色の照明が金属の床に反射していた。
機械の稼働音が聞こえ続けている。
「異能者襲撃を想定した非常通路だ。霧もここまでは入れぬ」
「先代の時は無かったのにな……」
芥川君の言葉にそんなことを考えながら、僕は首を回したりしていた。
転がり込んだ時に痛めた。
いつもならここで「莫迦ね」とアリスが云ってたけど、今日は何も聞こえない。
「あの霧は一体、何なんだ?」
「……あれは龍の吐息だ」
「龍?」
敦君は、芥川君の回答に眉をひそめる。
まぁ、予想外なんだろうな。
「鏡花……お互い異能が無い今なら、お前の暗殺術で僕を殺れるぞ」
芥川君の挑発に、鏡花ちゃんは何も答えない。
こんなところで戦われても困るんだけど。
普通の昇降機より広くても、ワイヤーとか切れたりしたら面倒以外のなんでもない。
「どうした? 僕との因縁を断ち切りたかったのではないのか?」
「鏡花ちゃんは、もうお前のことなんか何とも思ってない!」
嗤う芥川君に、敦君が苛立つ。
二人の視線のぶつかり合いは冷たい。
芥川君は完全に殺気を向けている。
こんな時でもよくいつも通り喧嘩できるね、この二人。
「……異能が戻っていないこの状態で決着をつけるか?」
異能を取り戻してから決着をつけるべきだ、と告げているような云い方。
この感じ━━。
「異能を戻す方法を知っている?」
「戻す方法は知っている」
鏡花ちゃんの質問に、芥川君は頷く。
「異能を撃退し倒せば所有者に戻る。この程度の情報すら探偵社は知らないのですか?」
「残念ながらね。僕も対峙してから気づいたから」
「……撃退方法の目処は」
立ってる、と僕は拳銃を取り出して弾を入れる。
「君が見たかは知らないけど、異能に赤い結晶がある。アリスと夜叉に確認できたし、それを完全に破壊すればいいだろうね」
芥川君は顎に手を添えて、少し考え込んでいる。
彼の異能力『羅生門』には結晶があったのだろうか。
あるとしても、彼一人で勝てるのだろうか。
「……芥川、お前の目的は何だ」
「多分、私達と同じ」
「同じって……」
澁澤、と敦君は呟く。
「奴の臓腑を裂き、命を止める。他に横浜を救う方法はあるか?」
「僕たちは殺しはしない」
敦君が即座に云う。
探偵社はそういう仕事はしない、ねぇ。
彼の言葉に、芥川君は鼻で笑う。
「笑止。おめでたいな、人虎……鏡花、何か云ってやれ」
「……何のことだ?」
まぁ、排除と云われても普通は理解できないか。
「鏡花は仕事の趣旨を理解しているぞ。元ポートマフィアだからな」
「私はもう陽の当たる世界に来た。探偵社員になるために、ポートマフィアはやめた」
硬い声で、鏡花ちゃんは覚悟を込めて続けた。
「……マフィアの殺しと探偵社の殺しは違う」
「鏡花ちゃん?」
敦君の上ずった声が昇降機内に消えた。
混乱しているのに、芥川君は無慈悲に告げる。
「太宰さんが敵につく前であれば、異能無効化で殺さず霧を止められたかもしれぬが、今ではそれも叶わぬ」
そうだね、と僕は欠伸をする。
「敵についた? 太宰さんが?」
敦君は、驚愕していた。
ま、信じられないんだろうな。
「しかり……あの人は自らの意思で敵側に与した」
「太宰さんがそんなことするわけない!」
「かつてポートマフィアも裏切った人だ」
声を荒げた敦君に、芥川君は冷めた声で告げた。
もう、疑ってすらいないんだろう。
確信が彼の瞳に見えた。
「太宰さんは僕が殺す」
「……お前に、太宰さんが殺せるのか?」
「他の者の手にかかるよりは、この手で殺す」
芥川君らしい執着だな。
「……太宰さんを殺させたりしない!」
敦君は拳銃を掲げ、芥川君に銃口を向ける。
それを僕はただ眺めていた。
緊迫した空気を壊すかのように、昇降機がようやく動きを止めた。
複雑な絡繰を備えた扉が開き、ダクトに囲まれた地下通路への道が開かれる。
芥川君は何も云わずに足を進めた。
かつん、と硬質な音が響く。
彼の背に銃を向けたまま、敦君は告げる。
「お前とは一緒に行けない」
昇降機の扉が、再び閉まりはじめた。
芥川君の背が見えなくなる寸前。
僕と鏡花ちゃんの手が、扉を止めた。
「一緒に行く」
「僕も同意だ」
「えっ!?」
僕達の短い言葉に、敦君は大声を上げるのだった。
---
3-3
金属音を響かせ、芥川君の背についていく。
結局、四人で行動を続けていた。
ダクトが通る地下通路が終わり、広い空間へと出る。
これまで見てきたダクトが集結し、コンテナや機械へと繋がっていた。
工場か何かの地下なのだろう。
「鏡花ちゃん」
歩きながら、敦君は問いかける。
「何でこんな奴と一緒に行くの?」
「情報を持ってる……このマフィアの秘密通路も使える。なにより、異能力を取り戻した彼は、戦力になる」
目的は同じとはいえ、あまり敦君は良い気分じゃないだろう。
何回か殺し合っているし。
「鏡花。母親の形見の携帯は、まだ大切にしているようだな」
「母親?」
形見、か。
僕もあの懐中時計は形見だ。
何があっても、捨てることなんて出来ないよな。
「そんなことも聞いてないのか」
「……聞いてない」
芥川君は敦君を蔑んでいる。
しかし、会話がそれ以上続くことはなかった。
「最短ルートは」
「……ゼロゴーゼロゴーだ」
「確かに骸砦ならそうか」
僕の発言に、少し芥川君が瞠目する。
「ご存知なのですか?」
「どっかの|幼女趣味《ロリコン》に、この通路を作る時の手伝いをさせられてね。当時、完成まで見届けられてるから、図面は頭に入ってるよ」
マフィア上層部しか使えない、とは云ったけど僕も使えるんだよな。
一回も使ったことないけど、あの昇降機。
それにしても、昇降機に乗っていた時間とかで考えると結構地下なのかな。
澁澤の霧が届かないとか、凄すぎでしょ。
「……ルイスさんって偉い人だった?」
「いいや、ただの雇われだよ」
「ほとんど首領と変わらなかった、と中也さんから伺ってますが」
ま、“銀の託宣”を貰っていたから構成員も幹部も動かせた。
動けない先代や、エリスと遊んだり闇医者で忙しい森さんの代わりに仕事もしてたからね。
「あくまで地位は雇われた他の人と変わらない。仕事内容とか、交友関係はおかしかったけど」
幹部の紅葉と友達で、期待の新人だった太宰君と中也君とも仲が良い。
しかも、普通に首領や幹部と変わらない業務をこなすと来た。
改めて思い返すとヤバいな。
🍎🍏💀🍏🍎
細い通路から下水道へと進入し、汚水の臭いに閉口しつつも足を進め、ようやく僕達はマンホールから地上に出る。
マンホールを開けると、鼠が数匹、逃げていくのが見えた。
芥川君を先頭に地上に上がると、濃い霧の向こうに、沢山の太いパイプや金属で覆われた巨大な建築物、白い煙を上げる幾つもの煙突がうっすらと見える。
やっぱりここに出たか。
先に周囲を警戒していると、芥川君が何かに気付いたようだ。
工場の方を、ジッと見据えている。
「どうやら……待っていたようだな。僕の存在を感じられるのも道理か」
僕も彼と同じ方を見て気付く。
前方の工場、溶鉱炉らしき煙突のそばに、黒い影が立っている。
「……『羅生門』か」
芥川君の分離した異能は、黒い布を生き物の如く蠢かせ、此方を見下ろしている。
正確には、彼を狙っているのだろうけど。
分離した異能は、持ち主である能力者が何処にいるか感じられる能力でも待っているんだろうな。
じゃなかったら先回りはされない。
「手伝う」
「要らぬ!」
「そう」
緊急事態とはいえ、一人で挑むか。
「……己が力を証すため、あらゆる夜を彷徨い、あらゆる敵を屠ってきた。だが盲点だった。戦い倒す価値ある敵が、こんなに近くにいたとはな━━……」
霧の向こうに芥川君の姿が消えていく。
こんな時でも自分の力を証明するために敵と戦うとは、流石だね。
「彼の力は異能力だけじゃない。心配はいらないよ」
「確かに……今はそれぞれ、すべきことがある」
振り返った鏡花ちゃんの視線の先に、『夜叉白雪』が降り立つのが見えた。
敦君が銃は手を伸ばす間に、鏡花ちゃんは短刀を抜いて斬り掛かる。
あの速攻は受けたくないなぁ、と僕は心の中で苦笑いをしていた。
夜叉は簡単にいなすし、この街は凄い人が多い。
「鏡花ちゃん!」
「あなたも、すべきことをして」
「確かに、加勢なんてしている暇はないね」
『羅生門』は待ち伏せしており、『夜叉白雪』も追いかけてきた。
もちろん、アレも追いかけているだろう。
「……っ」
獣の低い唸り声が耳をつく。
素早く振り返ると、予想通りだ。
美しい毛並みの虎『月下獣』がいる。
「当然、君もいるよね」
カキン、と何度聞いたか判らない刃の交わる音。
長い金髪が揺れる。
「ねぇ、アリス」
僕のすべきことは、とても単純だ。
|『鏡の国のアリス』《目の前の異能》も、|『不思議の国のアリス』《僕本来の異能》も取り戻す。
だから━━。
「……僕と、久しぶりに|戦おう《踊ろう》じゃないか」
---
4-1
あまり敦君達に心配をかけていられないから、彼らの元を離れる。
分離した異能はやはり、元の持ち主を殺すことしか頭にないらしい。
異能に意思があるか、と考え出したらキリがないから今はやめておこう。
ただ、今は最高の|戦場《ステージ》を探す。
「……さて」
力いっぱい踏み込み、僕は装填しながら宙を舞った。
アリスの額の赤い結晶を狙い撃つも、鏡に塞がれてしまう。
やっぱり直接砕くしかないのかな。
同じ力量の相手にどこまで通じるのか判らないけど。
「異能がないのって不便だな、本当に」
|異能空間《ワンダーランド》に入れられたら、こっちの勝ちなのに。
そういえば“不思議の国のアリス”見てないな。
え、迷子にでもなってるの?
さっさと現れてくれないと異能が戻らないんだけど。
「いや、やっぱり来ないで」
普通にアリスで手一杯だわ。
異能ありならまだしも、本気を出さない状態じゃ勝てないって。
「……ぁ」
ズサァ、と音を立てて僕は着地する。
そこそこ開けた場所。
ここならば、敦君達に心配されることなく戦える。
幾つか出来たかすり傷に、先輩からもらった薬を塗っていたら10秒ほどでアリスが来た。
鏡がこの辺になくてよかった。
じゃなかったら休む時間なんてない。
まぁ、戦場じゃ何時間もぶっ通しで戦闘とか普通だけどね。
「━━っと」
鏡を使った瞬間移動で、少し反応が遅れる。
こういうのは先読みが大事なんだけど、僕の思考なんて相手は判り切ってるわけで。
「……どうしようかな」
とりあえず傷を最小限に抑えながら、好機を待つ。
いつもより体が重いのは、武器を全部持ってるからか。
特に背負ってるライフルが凄く邪魔。
重いし、動きにくいし、絶対すぐに使わない。
仕方ないから、下ろして振り回してみた。
数枚だけ鏡は割れたけど、普通のものならすぐに生成できるし意味がない。
鏡を割ることに力を使わないほうがいいけど、少しでもアリスの攻撃を減らしたい。
「……っ、クソッ」
疲労からか、荷物を下ろしたのに動きが変わらない。
体が重く、思うように動かない。
軽傷しかなかった筈なのに、重傷が増えていく。
血は止まることなく流れて続けていた。
このままだと━━。
━━死ぬ。
きちんと地を踏めなくなった僕の視界は、ぐるりと回転した。
お陰でアリスの持っていた刃が心臓に刺さることはなかったけど、動けない。
疲労と、血を流しすぎたか。
本気のアリスを相手にするには、今の僕は弱すぎた。
僕が死んだとしても、大した問題はない。
この街の異能者達に澁澤は止められる。
アーサーとかエマには申し訳ないけど、先にロリーナとゆっくり過ごしてようかな。
「……。」
多分十秒も経たないうちに、僕は殺されるだろう。
僕の拳銃がアリスの手にあって、銃口が額に突きつけられている。
人はこういう時に走馬灯を見ると聞く。
でも、僕は何も見えなかった。
頭の中にあったのは、ただ一つの名称。
「……ぉ……」
アレは『不思議の国のアリス』で作った空間の中にある。
異能を取り戻せていない僕の手元に来るわけがない。
そんなことは判っていても、出ているか判らない声で呟く。
「━━“ヴォーパルソード”」
視界の隅で何かが輝いて見えた。
それはまるで、夜空で輝く星のようだった。
濃い霧で空なんて見えないから、気のせいかもしれないけど。
諦めていた僕へ、アリスが引き金を引こうとする。
しかし、その一秒にも満たない時の中で赤い結晶にひびが入った。
パリンと音を立て、結晶は地面に倒れている僕へと四散して落ちる。
「なっ……!?」
僕は驚きを隠せなかった。
アリスの頭に、剣が刺さっている。
久しく見ていなかったものの、その青い剣身を見間違えるはずがない。
「“ヴォーパルソード”が、なんで……」
結晶が消えたアリスは霧散し、僕の体へと戻った。
同時に、剣は地面へと音を立てて落ちた。
「……考えるのは、後かな」
とりあえず動けない。
このままじゃ大量出血で死ぬ気がする。
早く『不思議の国のアリス』の方も取り戻さないと。
いや、いけるか。
「──ルイスさん!?」
「……僕って運が良い方なのかもしれないな」
とりあえず説明してる間に死にそうだから、助けて貰うことにした。
僕はどうにか指を鳴らして、芥川君の手元に薬を出す。
先輩が調合し終わってすぐに|異能空間《ワンダーランド》に入れていたからまだ使用期限が大丈夫な飲み薬。
蓋を開けて飲まして貰おうと思ったんだけど、まさかの握力不足。
時間もないので『羅生門』で蓋の部分を切って、良い感じに口へ流して貰った。
「あの、大丈夫ですか?」
「この薬ね、小瓶一つ分は飲まないと意味がないんだけどめちゃくちゃ不味いの」
はぁ、と芥川君は僕を見て少し困っていた。
不味いと顔が歪んだりすると思うけど、この薬はもう反応できないほど不味い。
でも効果は確かだから、すぐに傷は塞がってきた。
「凄いですね、その薬。流石は英国軍異能部隊の専属軍医といったところでしょうか」
傷が治るのに疲れて動けないから、今のうちに説明することにした。
敦君達と分かれてアリスと戦ったこと。
そして、聖剣“ヴォーパルソード”のこと。
「異能を斬る剣……!?」
「因みに、人を殺すためには鈍器として使うしかないよ」
「取り戻した異能は『鏡の国のアリス 』だけ。しかも、その時はどちらも使用不可の筈では?」
鈍器ってところ無視されちゃった。
じゃなくて、確かに芥川君の言う通りだ。
「もしかしたら聖剣は異能空間に入れてたつもりだけど、どこか時空の狭間とかなのかもしれないね」
“ヴォーパルソード”はそれでいい。
問題は僕本来の異能だ。
今も『不思議の国のアリス』は戻ってない筈なのに、異能力が使えた。
普通に考えたら二つではなく一つにまとめられた。
でも──。
「どうかされましたか?」
「……いや、なんでもないよ」
アリスなら何か、知っているのだろうか。
「さて、足を止めさせて悪かったね。骸砦は僕達が元いた方だし、ついでに二人の様子も見てみようか」
「……ルイスさんは、人虎と鏡花が己の異能に負けたとは考えないのですか?」
芥川君も、多少は気にしているのだろうか。
一応、好敵手と元部下だし。
「このぐらいの時間で死ぬなら、とっくの昔に君に殺されてるよ。そうだろう?」
芥川君は結構な時間悩み、小さく肯定した。
🍎🍏💀🍏🍎
まだ戦っていると思っていたが、パイプに囲まれた敷地には静けさが戻っていた。
無事に異能を倒せたのだろう。
「……大丈夫?」
「問題ありません」
僕も結構ダメージを受けているが、芥川君も傷だらけだ。
元から身体が弱いこともあって、少し苦しそうに呼吸をしている。
「……ルイスさん」
ふと、霧の向こうから声が聞こえた。
少し歩を進めれば、敦君と鏡花ちゃんがいる。
鏡花ちゃんの着物は少し汚れているが、大きな怪我はなく見える。
問題は敦君かな。
「……お前も異能力が戻ったのか」
芥川君はわざわざ敦君の目の前に立っていた。
この場にいる全員が自身の異能と戦い、勝利を収めた。
しかし、敦君の傷は塞がることなく血が流れる。
虎の治癒能力が戻っていないのだ。
「どうして僕だけ、戻らないんだろ?」
「愚者め。まだ判らぬのか!」
突然の罵倒に、敦君の身体がこわばる。
この感じ、まだ判ってないな。
「……何だ」
敦君は茫然と呟く。
「何なんだ!」
苛立ちと、焦燥感。
敦君の纏う気配を横目に、芥川君は外套を揺らめかせ骸砦へ向かい始める。
「芥川! どういう意味だ!? おい!」
「……。」
どれだけ敦君が怒鳴ろうと、芥川君は振り返らない。
そして、霧の中へ姿を消してしまった。
それまで黙っていた鏡花ちゃんも、きゅっと唇を引き結んで敦君へ話しかける。
「怪我が酷い。貴方は此処で休んでいて」
「え?」
ぽかん、と口を開ける敦君。
鏡花ちゃんは芥川君と同じ方向へ歩いていく。
「……鏡花ちゃん?」
「黙っててごめんなさい……知られたくなかったの」
「何を?」
「携帯で動く『夜叉白雪』を」
僅かに躊躇ったあと、ちらりと敦君の方を鏡花ちゃんは振り返る。
「本当は嫌いたくなかったことを」
二人の会話を見届けてから、僕は踵を返す。
向かうは、骸砦とは真逆の方向。
「多分、そろそろだよな」
白い霧に囲まれた中、見えない星空へ手を伸ばしながらそんなことを呟いた。
---
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未投稿分
澁澤の件は、この街の異能者達だけでどうにかなる。
あの三人は本当に強いから。
それにしても、異能力を取り戻すだけでこんなに行動範囲が広がるものだろうか。
やはりチートではないか、と改めて考えさせられた。
鼻歌混じりに飛び跳ねる。
飛び跳ねた先に鏡を出して踏み込み、また飛び跳ねる。
それを何十回も繰り返しているうちに、僕は霧が届かないほどの高度まで上がっていた。
「……これ、また霧に触れたら異能力奪われるのかな」
呑気なことを考えながら、欠伸をする。
そろそろ、とは云ったものの少々早かったらしい。
今頃、魔人君が異能力で遊んでいる頃だろうな。
鏡を出して見ると、ちょうど龍の姿形が創られていくところだった。
「“龍こそが異能の持つ本来の混沌の姿”ねぇ……」
なら、“すべての異能に抗う者”は──。
そこまで考えたところで、僕の思考は遮られた。
骸砦を守護するように現れた、巨大な龍による咆哮。
猛々しく威圧を振り撒く姿を見た僕は、笑みを浮かべる。
アレにも“ヴォーパルソード”は効くのだろうか。
「……今も昔も、強大な敵に心は踊るか」
そんなことを考えていると、遠くから轟音が聞こえてきた。
振り返ると、そこには異能特務課の機密作戦用輸送機“鴻鵠”が此方へ向かって飛んできていた。
ゆっくりとハッチが開けられる前に回転翼の風で飛ばされそうだから、先に鏡だけ入れさせてもらう。
「やぁ」
「ルイスさん!?」
ハッチが完全に開くと、丸い月が見えた。
改めて空を見ると雲はなく、澄み切った夜空に浮かぶ月はただただ美しい。
「あの、貴方は──?」
「初めまして。僕はルイス・キャロル」
ただの異能者だ、と云いながら中也君の隣に立つ。
「やぁ、安吾君。僕の声聞こえてる?」
『……ご無事でしたか、ルイスさん』
「何とか異能は取り戻せたよ。澁澤の方は敦君達に任せようかと思ったんだけど──」
流石にアレはね、と僕は苦笑いを浮かべる。
龍を討ち取ることができるのなんて、神ぐらいだろう。
異能を取り戻してるし、僕が動くのでも構わないけど後処理が面倒くさい。
だからと云って、このまま中也君を死なせるわけにもいかない。
「そういえば、中也君はどうして受けたの?」
『報酬に僕の命を渡すことを約束しました』
わぉ、と僕は普通に驚いてしまった。
『中也君、報酬である僕の命をまだ受け取っていませんが……』
「思い上がんなよ、教授眼鏡。六年前の手前は下っ端の潜入調査員だ。澁澤の投入に反対しても、受け入れられなかったんだろう?」
『……。』
通信の向こうで、安吾君は言葉を詰まらせているようだった。
二人が話しているのは龍頭抗争のことか。
これは俺の戯言だが、と中也君は独り言のように呟いた。
「太宰のポンツクはあの中にいる。間違いねぇ」
中也君の視線の先には、暴れ回る龍の姿。
彼は直感で龍の中にいると感じ取っているのだろう。
「一発殴らねぇと気が済まねぇんだよ」
ルイスさんに代わるぞ、と中也君は通信機を押し付けてきた。
『──……頼みます』
己の無力を噛み締め、悲痛さえ滲ませた彼の祈りにも似た言葉は、届いたのだろうか。
そんなことを考えながら、“鴻鵠”の中へ歩いて行った。
「現在、僕を含めて四人が異能を倒して異能を取り戻しているよ」
『……澁澤は排除できそうですか』
「どうだろうね」
でも、と僕は冷静に告げた。
「もしもの場合は僕が殺す。そして死ぬ」
『……依頼は探偵社の補助です』
安吾君の言葉を聞いてから、僕は説明を始めた。
魔人のやることなんて、おおよそ想像が付く。
そして龍を倒したら、次は澁澤龍彦自身をどうにかしないといけないだろう。
霧が拡大でもし始めたら、あの女は蔓延を防ぐためにヨコハマを焼きかねない。
「僕を止めるかい?」
『……いえ、僕にはその資格がありませんので。でも僕の我儘を受け入れてもらえるのなら、死なないでください』
僕は少し驚き、そして笑った。
「何かあった時の最終手段だから、そんなに心配しなくていいよ」
僕は今、命を懸けて戦う迷ヰ犬達を信じている。
🍎🍏💀🍏🍎
「よいしょ」
そう呟きながら、僕はとある場所に鏡を通って来ていた。
「あれ、ルイスさん」
「元気そうで何よりだよ」
「今度こそ死ぬことが出来たと思ったんですけどね」
あーあ、と太宰君はため息をつく。
彼の長い足には、折り重なるように中也君が乗っていた。
あれだけのことをやり遂げたのだから当然であるが、中也君は気絶している。
太宰君は頭へと手を置き、異能力が分離しないようにずっと触れているようだった。
「龍は消えたのに、霧は消えないね」
「やはり読んでいた通り、フョードルが澁澤を特異点にしたんでしょう」
敦君達、大丈夫かな。
そんなことを考えていると、太宰君が声を掛けてくる。
「そういえばルイスさん、一度霧の外に出たと云うことは異能力が再分離してるんじゃ……」
あぁ、と僕は思い出したかのように笑う。
「今倒すよ」
そう云って指を鳴らすと、“ヴォーパルソード”が手元に現れる。
掴むと同時に回転して僕が剣を投げると、太宰君の頬スレスレを飛んでいった。
そのまま太宰君の奥にいたアリスの額の宝石へ剣は刺さり、彼女の姿は消える。
「……殺されるのかと思いました」
「君は僕のことを何だと思ってるんだ。それに、あの剣じゃ撲殺しか出来ないよ」
「それは痛そうですね」
殺されるなら痛くない方法がいい、といつものように呟く太宰君。
僕は彼に近づいてしゃがむ。
「━━お疲れ様、中也君」
「ルイスさん、中也だけ送れたりしません?」
「もちろん可能だよ。でも、君も一緒に転送させるね」
僕が指を鳴らすと二人の姿は消えた。
アリスはまだ覚醒していないのか、二人を任せることはできない。
とりあえず太宰君は着替えたいだろうからいつもの衣服を用意してあるエリアへ。
中也君はアリスがいる休憩所に送っておいた。
彼のことは、目が覚めたアリスが色々とやってくれると思う。
「……。」
改めて、僕はこの力について考えた。
秘密を知るのは怖いけど、いつかは知らなければならない。
その日が来るのは、いつなのだろうか。
「━━!」
先程まで白かった霧が、毒々しい赤へと変色していく。
その時、ふと懐に入れていた鏡から音が聞こえた気がした。
僕は手鏡を取り出し、そっと耳元に当てる。
オペレーターであろう声が響いていた。
それに、計器が悲鳴を上げている。
『異能特異点の変動値、計測不能!』
『拡大速度、毎時20粁、現状の速度が続いた場合、約1時間35分で関東全域、約12時間36分で日本全土、地球全土が覆われるのは約168時間後です!』
中々に大変そうな状況だなぁ、と思っているとすべての雑音を黙らせるように、けたたましい音が鳴る。
この音は━━。
『ご機嫌麗しゅう……』
通信が繋げられたのか、そんな声が聞こえた。
人の騒々しさが消え、あの女の声がよく聞こえる。
やはり、“時計塔の従騎士”か。
『欧州諸国を代表して、貴国の危機的状況に同情いたしますわ』
アガサの声は気品と欺瞞に満ちており、機械音声と異能力の二つを倒している筈なのに絶対者の風格を感じる。
『つきましては、世界への霧の蔓延を未然に防ぐため、焼却の異能者を派遣して差し上げました』
『焼却の異能者……!?』
『発動予定時刻はきっちり30分後。夜明けと共に……』
そこて通信は切断されたようだった。
想像通りの提案━━否、宣言にため息すら出ない。
だけど、予想よりずっと早い。
近くに鏡は見当たらないから走っていくしかないけど、時間はもう30分しか残されていない。
このわずかな時間で赤い霧を消すことが出来なければ━━。
『……ヨコハマが焼かれる』
安吾君の茫然とした声が聞こえた。
誰も何も答えられず、猥雑な機械音だけが鳴り続けていた。
とりあえず僕は鏡を『鏡の国のアリス』で浮かせながら移動を開始する。
入り組んでいる工場地帯。
上手く隙間を潜り抜ければ時短は可能だろう。
場所も骸砦があった方に行けば良いから判りやすい。
「おーい、安吾くーん」
『━━!』
「鏡を机か何かに置いておいてくれてありがとね。お陰でそちらの状況は……っと、大体理解してる」
『ルイスさん、再び霧の中で異能に襲われたりしましたか?』
うん、と僕は鉄パイプの間に飛び込む。
そのまま手で床を押して跳ねた。
「すぐ取り戻したから問題はないよ。にしても、やっぱり|アイツ《焼却の異能者》を出して来たか、あの女」
『30分以内に澁澤を倒すことは可能でしょうか……』
僕はやっと物の少ない空中へ来れたので、鏡を出しながら走っていく。
「敦君達が倒せたら一番、だけどね。霧の中は夜明けが分かりにくいから、5分前に教えて。それだけあれば充分」
『……本当にすみません』
「想定内だから気にしないで。あ、太宰君と中也君は無事だよ」
『━━……良かった、です』
さて、ここからどうなることやら。
🍎🍏💀🍏🍎
ヨコハマごと澁澤を焼いたとして、消えていた一般人はどうなるのだろうか。
焼けた土地に放り出され、何百万の悲鳴が聞こえるのだろうか。
それとも澁澤と共に消滅してしまうのだろうか。
「……。」
正直なところ、“澁澤をここで消したほうがいい”という点に関しては時計塔の従騎士に同感している。
手に負えないと判断した時点で消した方が楽だから。
戦場でも独断専行が多かったりと、制御できない兵士は処分した。
話を戻して、仮に澁澤以外の異能者全員をワンダーランドに詰め込んだとする。
そして澁澤だけを燃やし尽くして、その大地もワンダーランドに詰め込む。
熱と燃えている大地が消えているなら、そこに一般人が戻っても死ぬことはない。
否、元いた場所から安全なとこまで削った大地までの高低差で全員落下死か。
「……やっぱり人を守るのは難しい」
そして|大きな理想《全員助ける》を叶えることも。
「……!」
やっと三人の戦う戦場が見えてきた。
黒い繭のようなものがあって、芥川君も鏡花ちゃんも満身創痍だった。
気配でわかる。
あの中に、敦君と澁澤はいる。
「ねぇ、夜明けまであと何分」
『5分半です!』
「……安吾君」
『な、何でしょうか……?』
足を止めて小さく微笑んだ。
「僕は、どうやらまだ生かされるらしい」
黒い繭の隙間から蒼い光が溢れ、澁澤のつくった霧を飲み込んでいった。
毒々しい赤い霧が消え、夜明け前のヨコハマに青白い光が広がっていく。
すべてを浄化するような、美しく優しい光。
光がすべての赤い霧を消し終わった頃には、もう闇が薄くなってきている。
空を見ると東の方が白み始めていた。
━━長かった夜が終わり、朝日が昇ろうとしている。
「本当にこの街の人達は最高だよ」
「私もそう思います」
おや、と僕は鏡の上にいるのをやめて地上へ降りていく。
「アリスが気がついたんだね」
「えぇ。中也も目を覚ましたそうです。もう少し寝てても良いのに」
「まぁ、今は彼らの元へ行ってあげたら?」
「芥川君が居ませんけどね」
そう、太宰君は笑うと敦君と鏡花ちゃんの元へ向かった。
僕は逆方向へ歩いていく。
「やぁ、無事終わったようで何よりだよ」
「……ルイスさん」
傷だらけの芥川君がうろうろとしている。
「太宰君なら無事だよ。ついでに引き取ってもらえない?」
「中也さん、ですか?」
「大正解。良く判ったね」
「龍の彼奴を倒せるのは中也さん、それにルイスさんぐらいだと思いまして」
ははっ、と僕は笑う。
とりあえず中也君を運んでもらうことにして、骸砦の跡地へと向かった。
武装探偵社の面々が集まりつつあるのは鏡で確認できていた。
僕は正式な社員じゃないから、とは思った。
でも、2人の旅路に少し関わったから顔は出しておいた方がいい。
「そういえばルイスさんは……」
「ここにいるよ」
背後からそう声をかけると、敦君はものすごく驚いていた。
「無事でよかったです」
「よく過去を乗り越えたね。本当に君は凄いよ」
「ルイスさん……」
「乱歩も待っている筈だし、探偵社に帰ろうか」
僕はそう云って探偵社員として、大切な今の仲間たちと歩いていった。
---
epilogue(No side)
赤い霧の夜から数日が過ぎ、ヨコハマの町には平穏が戻りつつある。
仕事に向かう社会人や楽しげな親子、笑顔をかわす学生らの声は雑踏から聞こえてくる。
けれど異能特務課では、いまだ事件の処理が終わっていない。
「これだけの事件が起こって一般市民に被害が出なかったのが不幸中の幸いでした」
指令席で呟いた安吾は、ふと、近くのデスクに座る部下の動きが怪しいことに気付く。
部下の辻村は、勤務中であるにもかかわらず舟をこいでいた。
辻村の頭が液晶画面にぶつかり、目が覚めたのか悲鳴を上げる。
「ふが……いだっ!」
安吾はため息をつきつつ、手元のファイルを広げた。
「仕事してください、辻村君。まだ徹夜四日目ですよ」
「いや、休みなよ」
十分働いてるでしょ、とルイスは安吾の机に置かれている栄養ドリンクの空き瓶を回収する。
机には他にも『DEAD APPLE報告書』と書かれているファイルが書類の山の上に置かれていた。
「やっぱりルイスさんもそう思いますよね! 本当に無理ですよぉ、情報規制なんて……デカブツがあれだけ街を壊したんですよ」
辻村が嘆くが、安吾は答えない。
諦めて、眠い目を擦り仕事を再開する。
「……先輩。結局今回の事件って、何だったんでしょうね」
「判りません。三人の首謀者の複雑な思惑が絡まって、未だに全体像も把握できません。太宰君はいつもの調子ではぐらかすし、魔人フョードルの動機など読みようがありません」
淡々と紡ぐ安吾の言葉に嘘はない。
「ですが……」
息を止めて、安吾がファイルから視線を上げた。
「もしかしたら、全ての策略や騙し合いを取り払うと、意外と根は単純な事件かもしれませんね」
「え?」
「二人とも、自分に似た人間を見にきただけ、なのかもしれません……」
安吾の脳裏に浮かぶのは、かつての友人の姿。
「他人が異星人に思える程の超人的な頭脳。それを持つ澁澤が、どう行動し、どう滅びるのか。あるいは……救われるのか。世界にたった三人きりの異星人。その隔絶と孤独……我々には想像もつきませんがね」
苦笑を浮かべて、安吾は誤魔化すように辻村を見る。
しかし、ごまかそう露した相手はなぜか安吾の前には見当たらなかった。
「辻村さんなら、少し前から眠っているよ」
それもしばらく起きなさそうなぐらい熟睡してる。
ルイスがそう云うと、安吾はため息をついた。
ここで一人失うのは痛手だが、報告書は意外とすぐに終わりそうだった。
霧の中で奮闘し、元英国軍ということでこういう書類の作成にも慣れている。
そんなルイスが手伝いに来てくれているからだ。
「……何故、ルイスさんは依頼していないのに手を貸してくれるのですか?」
「唐突だねぇ」
「ふと、気になったもので」
答えてもらえないなら、それはそれで構わない。
そんなことを考えながら安吾は机上の栄養ドリンクに手を伸ばそうとする。
しかし、安吾の手は宙を切った。
「ただの気まぐれ、と云っても君は信用してくれないだろうからね。正直に話してあげるよ」
ルイスは指を鳴らして毛布を現実へ持ってくる。
「僕は大切な人を守るために戦っていた。でも組合戦があって、この街でみんなと過ごして。ここも大切な場所になったんだよ」
「……。」
安吾の反応はなかった。
ルイスはそっと毛布をかけて、キーボードに手を置く。
そして、数分でほとんど完成させた。
あとは安吾が報告作成者の代表欄に名前を入れるくらいだ。
んー、と背伸びをしたルイスは辺りを見渡す。
殆どが机に伏せて気持ちよさそうに眠っている。
「……See you again」
🍎🍏💀🍏🍎
ふわぁ、とルイスが欠伸をしながら異能特務課の建物から出てくる。
久しぶりに外へ出たルイスは、太陽の眩しさに思わず目を細めた。
雲一つない青空が広がっている。
遠くからは街の音が聞こえてくる。
「また、敦君は街を守ったんだね」
英雄だ、とルイスは小さく笑った。
そのままヨコハマの街へ向かい、人々に紛れる。
もう戦闘の跡などは残っていない。
情報統制がされたからか、それとも魔都と呼ばれる街だからか。
霧で消えていた一般人の生活は特に変化がない。
「……。」
ふと、ある店の前でルイスは足を止めた。
老人の経営する、小さな煙草屋。
ジーッと眺めていると老人が此方に気がついた。
「残念だがアンタみたいなガキに売れる煙草は無いよ」
「僕はこれでも26歳だよ、ご婦人」
おやまぁ、と老人は目を丸くする。
「それは悪かったねぇ」
「大丈夫。言われ慣れてる」
「……吸う人なのかい?」
「まぁ」
なら、と老人が手招きをする。
ルイスは不思議に思いながらも煙草屋へ近づく。
「一箱あげるよ。間違えたお詫びにね」
「別に気にしなくても大丈夫だよ」
「じゃあ、ただの老人の気まぐれと思うといい」
諦めず銘柄を聞いてくる老人の押しに負け、ルイスはある箱を指差す。
🍎🍏💀🍏🍎
出航を知らせる汽笛が港に響きわたった。
強い日差しが吊り橋と海面に反射する。
潮風がそよぎ、鴎が鳴き声をあげて飛んでいく。
遠くで清らかな鐘の鳴る音がしていた。
近代的な高層ビルと重厚な煉瓦造りの建物とが混在する港湾都市・ヨコハマ。
そのヨコハマの街を見下ろす丘にルイスはいた。
階段を降りる途中で、ふと立ち止まる。
見つめるのは、緑に囲まれた墓地だ。
まだ数年しか経っていないだろう。
整然と並ぶ無数の白い墓石が太陽に照らされて橙色に輝く。
ルイスは木の下にある墓の前で立ち止まり、そっと手を合わせる。
ちらりと墓石に目を向けると、『S.ODA』の文字が見えた。
「数日ぶりだね。|現世《こちら》では色々とあったよ」
そう、ルイスは先程の煙草屋で貰った箱を開ける。
一本だけ取り出し、|異能空間《ワンダーランド》からマッチ箱を取り出す。
火を付け、ルイスは一口吸う。
「……この銘柄、君が好きだったよね」
墓石の前にしゃがみこみ、煙草の箱を見つめる。
「やっぱり僕は好きじゃないや」
箱を墓石へ置き、もう一口吸う。
吐いた煙は空高くへと上っていった。
ゆらゆらと揺れる煙を眺め、ルイスは煙草と火を付けたマッチを吸い殻入れにしまった。
それじゃ、とルイスがゆっくり立ち上がる。
優しい風が頬を撫でた。
「僕も彼のいる今の居場所へ戻ることにするよ」
背伸びをしながらルイスは歩いていく。
「……ん、電話だ」
『やっと出たな、ルイス』
「そんなに掛けてた? ごめん、気づかなかった」
『特務課の手伝いが忙しかったのだろう』
まぁ、とルイスは目を擦る。
軽く睡眠不足ではあるが、別に体調に問題はない。
『いつ頃終わりそうか聞きたかったのだが──』
「もう終わったよ。これから帰るところ」
『……そうか』
福沢が優しそうな表情をしているのは見なくても判る。
「すぐ帰るよ。それじゃあ、また後で」
ルイスの姿は墓から遠くなっていった。
ヨコハマに乾いた風が吹く。
墓石の近くに彼は立っていた。
その男は赤毛が特徴的だ。
黒地にストライプのシャツ、ベージュの外套を着ている。
男は置いてある煙草を拾って呟く。
「──ありがとな」
いつの間にか火の付けられていた煙草を口に加えて、彼は願った。
親友達の幸せを。
そして、ヨコハマの街と暮らす人々の平和を。
強い潮風でベージュの外套が揺れた。
次の瞬間にはもう彼の姿はどこにもなかった。
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--- おまけ ---
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『僕ら』
神様ならさっき出て行ったよ
誰も傷つかないなんて願い祈りはきっと届かない
だからもうやめにしよう
何も守れず空っぽの手のひらを強く握りしめた
足りない何かに気付く度に情けない自分が嫌になる
震える足を動かして息を吸い込んで
心が知ってる進むべき道へ歩いていくしかない
戦え迷ヰ犬達今顔を上げて
新しい彼らになってゆく
空っぽの手のひら君の手を握って
それだけで僕らは行ける
後悔なら数えきれないほどしてきたから
もう後悔しないように生きてたいと思っている
自分を騙すのはやめにするよ
過去から目を背けることはもうやめにするよ
相変わらずの平和な日々の裏に隠れた
悲しみも嘆きもなくならないなら
一緒に越えて行こう
一人じゃないならそれだけで高く飛べる気がしてる
涙流すのは弱さじゃなくて乗り越えるため
その助走になる
泣けるだけ泣いたらまた笑えるかな
そうやって僕達は生きていく
きっと誰の胸にだって数えきれない程の
たくさんの傷があるのでしょう
みんな平気なフリをしていて
僕も笑ってごまかしている
でもその傷も連れて未来へ飛び立とう
誰も置いてかないように一緒に歩いていこう
その方が、幾分か素敵だから。
戦おう僕達今顔を上げて
成長した僕達になってゆく
空っぽの手のひら君の手を握って
心が知ってる進むべき道へ
最初の一歩を踏み出す
いつだって僕は強くなれなくて
少しずつ迷いながらでしか進めないから
不安になることしかない
ずっとこれからもそれは変わらない
それでもきっと大丈夫
僕は彼らとこの街で生きると決めたから
この度は「英国出身の迷ヰ犬」の総集編である「Chapter.3 死の果実」を読んでくださり、誠にありがとうございます。
作者の海嘯です。
予定していたDEAD APPLEの総集編をやっと投稿することができました。
そもそも投稿して読んでくれるのかな、ってところではありますが。
そんなこんなでとりあえず「英国出身の迷ヰ犬」はここで終わります。
第一話を投稿してから約一年半(違うかも)
沢山ファンレターも貰って、とっても幸せです。
今は「天泣」として活動しているので、良かったらそちらでもよろしくお願いします。
それじゃまた。