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🗝️🌙第一話 白ごはんとお味噌汁
東京・下町。朝の空気はまだ春の冷たさを含んでいたが、陽射しは柔らかく、路地の植木鉢に並ぶ菜の花がわずかに揺れている。
千代田こはるは、小さな鍵を手に立ち止まっていた。古びた木の扉。飾り気のない看板。かつて祖母が一人で営んでいた食堂、「しろつめ草」の前である。
鍵を差し込み、ゆっくりと回す。扉がぎいと音を立てて開くと、ふわりと漂ってきたのは、油と味噌と乾物の匂いが混ざった、どこか懐かしい匂いだった。
――何年ぶりだろう。ここに入るの。
そう思いながら、こはるは一歩足を踏み入れた。
店の中は、祖母が亡くなったあの日から、何も変わっていなかった。木製のカウンター、こぢんまりとしたテーブル席が二つ、小さなキッチン。壁には、古びたメニュー札が並んでいる。「焼き魚定食」「かぼちゃの煮物」「豚の生姜焼き」…すべて手書きだ。
亡くなる前、祖母は電話で「そろそろ店を畳もうかと思ってる」とぽつりと言っていた。こはるはその言葉に返す言葉も見つからなかった。都内の広告代理店に勤めて五年、日々の忙しさにかまけて、祖母はろくに会いにも行っていなかった。
訃報が届いたのは、それから数日後のことだった。店の常連客からの電話だった。祖母が突然、心臓の発作で倒れたという。
「おばあちゃん…。」
呟いて、カウンターに手を添える。ひんやりとした木の感触が、思い出を呼び起こす。
小さかった頃、夏休みのたびにこの店に来ては、祖母の作る味噌汁を何杯もおかわりした。湯気の中で笑う祖母の顔が、今もはっきりと思い出せる。
店を継ぐかどうか。迷わなかったと言えば嘘になる。料理経験は、家庭科の授業と、一人暮らしの簡単な自炊程度。だが、会社を辞めたいと思っていたのも本当だった。
「ここで、何かを始めたいんです。」
葬儀のあと、手続きを進める中で、そう伝えたとき、行政の担当者は少し驚いた顔をした。でも、「そういう若い人が増えてますよ」と言って、温かく背中を押してくれた。
そして今日が、その"何か"の始まりの日だった。
――でも、何から始めればいいの?
こはるはキッチンの前に立ち、冷蔵庫を開けた。中はほとんど空だったが、ふと、冷凍室の奥に、白い米袋と、味噌のパックを見つけた。米袋には祖母の文字で「秋田こまち」と書かれている。
――まずは、あれを作ろう。
こはるは静かに決意した。祖母の味噌汁。あの味から始めよう。
炊飯器に米を研いでセットし、出汁用の昆布を水に浸す。祖母がよくしていたように、手の甲で昆布の表面を撫でて、汚れを取る。
そのひとつひとつの動作が、記憶の中の祖母をなぞるようで、どこか安らぐ。
味噌汁の具は、冷蔵庫の野菜室に残っていた大根と油揚げ。それを切りながら、祖母の包丁捌きを思い出す。
「包丁は、音が教えてくれるんだよ。」
祖母の言葉がふと蘇る。トントントン、と、木のまな板に響く音が、こはるの緊張を少しずつほぐしていった。
やがて炊き上がったごはんと、湯気の立つ味噌汁を盆に乗せて、カウンターに座る。時計はまだ午前十時。客が来るには早すぎる。
誰もいない店内で、こはるは初めての「しろつめ草のまかない」を口に運んだ。
「…あ。」
言葉にならなかった。
味は、決して完璧じゃない。出汁が少し薄いし、大根も煮えきってない。でも、それでも…どこか懐かしい味がした。
――祖母の味噌汁には、やっぱ敵わないな。
そう思った瞬間、不意に涙が込み上げてきた。
「ごめんね、おばあちゃん…もっと早く、ここに来ればよかった」
箸を置いて、うつむいたこはるの頬に、ひとしずく、涙が落ちた。
「開いてる?」
突然、店の扉が開いて、声がかかった。
顔を上げると、入り口には一人の中年女性が立っていた。パーマ頭にエプロン姿。手には買い物袋を提げている。
「あ、あの、今日はまだ――」
「いいのいいの、ちょっと様子見に来ただけだから。」
女性はずかずかと中に入り、こはるの作った味噌汁を見て、ふんと鼻を鳴らした。
「あんた、ツヤさんの孫娘だね?」
「はい…千代田こはると申します。」
「しのぶよ、青山しのぶ。ずっとここの常連だったのよ。」
名乗ると、しのぶはカウンターに座り、盆の上の味噌汁をじっと見つめた。
「味噌汁、作ったの?」
「はい、でも…まだ全然、うまくは…。」
「ふん。じゃ、ちょっともらってもいい?」
「え、あ、はい!」
こはるが慌てて味噌汁をよそうと、しのぶはすっと手を出した。
「その椀でいいのよ。あんたが飲んでたやつで。」
「えっ。」
「ツヤさんの孫の味なら、それが一番正しいんじゃない?」
そう言って、しのぶは湯気の立つ味噌汁を口に運んだ。
…しばしの沈黙。やがて、ふうっと息を吐いて、ぽつりと言った。
「…ツヤさんの味とは違うわね。でも」
しのぶは、ゆっくり笑った。
「悪くない。あんたの味も、嫌いじゃない。」
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その日から、「しろつめ草」はゆっくりと再び歩き始めた。
白ごはんと味噌汁。たったそれだけの定食が、店の最初のメニューになった。
こはるは、まだ何もわからない。ただ、祖母が残してくれたこの場所で、自分なりの味を探していこうと、そう心に決めた。
"レシピは心でできている"
いつか祖母がぽつりと口にした言葉の意味を、彼女はこれから、料理とともに学んでいく。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
次回は「おにぎりにこめた言葉」。
亡き夫を思い、毎日同じおにぎりを買いにくる老婆。そこに秘められた想いと、こはるが挑む"初めての塩加減"。涙とぬくもりのおにぎり物語。
ぜひ読んでくださると嬉しいです。