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第3章:神の奪還、砂塵の追撃
紀元前322年。アレクサンドロス三世の死から一年余りが経過した。 世界を統べる王がいなくなり、人々の嘆きが野心へと変質し始めた頃、一体の「神」が静かなる旅に出ようとしていた。
バビロンの喧騒を離れ、地平線の彼方へと続く埃っぽい街道。黄金と宝石で装飾された、高さ数メートルにも及ぶ壮麗な霊柩車(カタファルク)が、数千の精鋭歩兵と騎兵に守られながら、イシュタル門をゆっくりと潜った。車輪が石畳を噛む鈍い音は、帝国の葬送曲のように響く。
その中には、蜂蜜と香料、そして最高級の蜜蝋で防腐処置を施されたアレクサンドロスの遺体が、厚い金箔を貼った石棺に収められていた。摂政ペルディッカスの公式な命令によれば、行き先はマケドニアの王家の聖地エガイ。しかし、その葬列の行く手には、ナイルから吹き寄せる熱い砂塵が待ち構えていた。
**聖なる葬列の転換――シリアの決断**
シリアの燃えるような陽光の下、黄金の霊柩車は熱気を孕んで輝いていた。 葬列の責任者である将軍アルリダイオス(王と同名の異母兄とは別人)は、馬上で絶えず周囲を警戒していた。彼の任務は、この「帝国の正統性の象徴」を無事にマケドニアへ送り届けることだ。しかし、ダマスカスを越えたあたりで、先行する斥候から、信じがたい報告がもたらされた。
「前方に軍影! 砂漠の端に、エジプト総督プトレマイオスの旗印が見えます!」
アルリダイオスは眉を顰め、喉の渇きを覚えた。プトレマイオスが任地のエジプトを離れ、これほど北まで軍を動かしているなどとは聞いていない。間もなく、砂塵の中から青いマントを翻した一団が現れた。先頭に立つのは、アレクサンドロスの乳兄弟であり、かつての側近護衛官プトレマイオスその人であった。
「プトレマイオス殿、これは何の真似か」 アルリダイオスが馬を寄せ、声を荒らげる。 「王の遺体は本国エガイ、先王フィリッポスの傍らへ帰るのだ。貴公の任地とは方向が百里も違うはずだ。道を空けられよ」
プトレマイオスは、落ち着き払った様子で愛馬の手綱を緩め、黄金の霊柩車をじっと見つめた。その瞳には、哀悼ではなく、冷徹な計算が宿っている。
「エガイか。あそこは今、王を憎む者や、王の死を利用せんとする野心家の巣窟となっている。王の魂が求めているのは、マケドニアの寒空ではない。自らをゼウス・アモンの子と宣言し、自身の神性を確信した地――エジプトの聖なる砂だ」
「戯言を! これは摂政ペルディッカス殿の命だぞ!」
「ペルディッカスは王を自分の権力の道具にしようとしているだけだ。私は友として、アレクサンドロスを『神』として祀る場所へ連れて行く」
プトレマイオスの背後から、数千の青銅の盾が太陽の光を反射させ、一斉に前進を開始した。それは明らかな「略奪」の布陣であった。アルリダイオスの護衛兵たちは、かつての戦友であるエジプト軍を前にして、剣を抜くことを躊躇った。何より、プトレマイオスは莫大な賄賂と、「これこそが王の真の遺志である」という巧みな宣伝工作を事前に兵士たちの間に浸透させていた。
「この遺体は、私が預かる。異論があるなら、バビロンにいる摂政に伝えよ。アレクサンドロスは、今日、私の客となったのだと」
血は流れなかった。プトレマイオスは力ずくの衝突を避けつつ、圧倒的な兵数と政治的威圧感、そして「神を奉る」という大義名分を使い、黄金の霊柩車を強引に南へと転進させた。神の器を載せた車輪は、シリアの荒野を離れ、ガザの砂浜を抜け、ナイルのデルタ地帯へと消えていった。
**摂政の激昂と、セレウコスの冷徹な計算**
この報がバビロンに届いたとき、摂政ペルディッカスは宮殿の広間で獣のような咆哮を上げた。
「プトレマイオス……あの狡賢い狐めが! 私を、そして帝国を公然と辱めたか!」
ペルディッカスにとって、この強奪は単なる窃盗ではなかった。アレクサンドロスの葬儀を主宰することは、後継者としての地位を法的に、そして宗教的に完成させる儀式である。それが奪われたということは、彼の摂政としての威信が根底から崩壊し、帝国の求心力がプトレマイオスのエジプトへと移動することを意味していた。
「直ちに軍を編成せよ! 北のアンティゴノスなど放っておけ! 全軍をもってエジプトへ乗り込み、あの反逆者の首と王の棺を取り戻すのだ!」
周囲にいた将軍たちは、ペルディッカスのあまりの激しさに息を呑んだ。その中に、冷静な眼差しを崩さない千人隊長セレウコスの姿があった。 セレウコスは、荒れ狂うペルディッカスを眺めながら、密かに状況を整理していた。プトレマイオスはこの一年の間、エジプトの肥沃な大地から上がる富を使い、傭兵を募り、ナイルの河畔に堅固な要塞群を築き上げていた。一方、ペルディッカスの軍は長年の遠征で疲弊し、何より指揮官への忠誠心が揺らいでいる。
「……セレウコス、何を考えている」 影から声をかけたのは、ペルディッカスと激しく対立し、アジアを離れようとしていたアンティゴノスであった。彼は、遠征の準備を命じられたセレウコスの横顔を、隻眼でじっと見つめていた。
「ペルディッカスは、王の死体という影を追って、自ら地獄へ向かおうとしています」 セレウコスは、周囲に聞こえない程度の声で答えた。 「アンティゴノス殿、貴公はエジプトへは行かないのでしょう?」
「ああ。俺は自分の領地(アジア)を守る。ペルディッカスがナイルの泥に足を取られている間に、な」 アンティゴノスは不敵な笑みを浮かべた。 「セレウコス、お前も気をつけることだ。沈みゆく船に乗っているのは、勇気ではなく愚行だからな」
セレウコスは答えず、ただ深々と頭を下げた。彼の心には、ペルディッカスへの忠誠など欠片も残っていなかった。彼は、この遠征が帝国の秩序を破壊する終わりの始まりであることを予見していた。
**ナイルへの行軍――帝国崩壊の序曲**
紀元前321年。ペルディッカスは自ら指揮を執り、十万に近い大軍を率いてエジプトへと南下を開始した。 その軍列には、マケドニアの誇る精鋭「銀楯隊(アルギュラスピデス)」や、セレウコス率いる精鋭騎兵隊も含まれていた。しかし、行軍は困難を極めた。砂漠の熱、水不足、そして何より、自分たちが戦おうとしている相手が、かつて共にペルシアを滅ぼした戦友であるという事実が、兵士たちの士気を削いでいた。
「我々はなぜ、エジプトへ向かっているのだ?」 焚き火を囲む兵士たちの間で、不満が囁かれる。 「プトレマイオス様は、王の遺体を大切に祀っているだけではないか。摂政殿は、ただ自分のメンツのために、我らを無駄死にさせるつもりか」
これらの噂は、プトレマイオスが放った間者が組織的に広めていたものであった。プトレマイオスは戦う前に、すでに敵の心を折る工作を完了させていたのである。
時を同じくして、帝国の北と西でも包囲網が完成しつつあった。 トラキアのリュシマコスは、ペルディッカスが南方へ去った隙を見逃さず、黒海沿岸の都市を次々と支配下に収め、自身の基盤を盤石にしていた。 さらに、マケドニア本国のカッサンドロスは、父アンティパトロスを説き伏せ、プトレマイオスやアンティゴノスと結ぶ「反摂政同盟」を正式に締結した。
「アレクサンドロスを殺したのは未知の熱病だが、ペルディッカスを殺すのは、彼自身が抱える過大な自尊心だ」 カッサンドロスは、マケドニアの海岸線から南方を見つめ、冷ややかに呟いた。
**カシウス山の対峙**
ペルディッカスの軍勢がエジプトの国境に近いカシウス山へと到着したとき、目の前にはナイルの広大な流れが、巨大な障壁として立ちはだかった。 対岸には、プトレマイオスが完璧な布陣を敷いて待ち構えている。黄金の輝きを失わないアレクサンドロスの霊廟は、今やメンフィスに安置され、エジプトの民からは新たなファラオの守護神として崇められていた。
ペルディッカスは、ナイルの分流を渡河する強行突破を命じた。 しかし、流れは速く、水深は兵士たちの予想を超えていた。さらに、川底にはプトレマイオスが仕掛けた杭や罠があり、溺死する者が続出した。無惨にも、アレクサンドロスの精鋭たちは、敵の矢ではなく、ナイルの濁流と、川に生息するワニの餌食となっていった。
「進め! 退く者は反逆罪に問う!」 ペルディッカスの怒号が虚しく響く。 その背後で、セレウコスは静かに剣の柄を握りしめた。彼の隣には、同じくペルディッカスの独断専行に愛想を尽かした将軍ピュトンが並んでいた。二人は言葉を交わさずとも、互いの意志を確認し合った。
帝国の屋台骨を支えるべきマケドニア軍が、ナイルの泥濘の中で自滅していく。 この無益な殺戮に終止符を打つのは、もはや敵の剣ではなく、身内の決断しかなかった。
夜の帳が降りる頃、ペルディッカスの天幕へ向かう影があった。 それは、帝国の未来を「一つの国家」として維持しようとした最後の男の、あまりに惨めな終焉への足音であった。