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    「ぁ……もう朝か」
 閉め忘れていたカーテンの隙間から入り込む日光が、モルズの過去の残滓との決別を促す。
 この季節の朝にしては空気が暖かい。既に朝ではないことは明白だった。
 モルズは床から体を起こし、軽く伸びをする。全身の筋肉がほぐされるのが実感できた。
 しばらくそうしてストレッチしていたが、あるとき落ち着いて一言。
「里帰りするか」
 第三者視点からだと突飛な発想のように思えるが、モルズの中ではある程度筋の通った考えなのである。
 両親を奪った魔獣に類似する魔獣の大量発生。
 ある程度溜まった資金。
 もう数カ月間妹に会っていない。
 この三つの要素がモルズに里帰りを決意させた。
 そうと決まればあとは行動するだけ。
 モルズは元々必要最低限しか持っていない荷物をまとめ、宿を引き払う。
 こうして里帰りするとき、直前までいた街に戻ってくる可能性が低いからだ。
 宿の外に出たモルズは、空を見上げた。
 空が青い。当然のことだが、今日はいつもより美しく感じられた。
 背中には必要最低限の荷物。水と食料も入っているため重いはずだが、モルズの足取りはいつもより軽かった。
 鼻歌が出そうな足取りで、モルズは乗合馬車の停車場へ向かう。
 目指すは、村に最も近い街、カエド。
 ――停車場に着いたとき、ちょうど馬の|蹄《ひづめ》が地面を打つ音がリズミカルに響いた。来た方向からして、ちょうどカエドに向かう方向の馬車だろう。
 自分の運の良さに、モルズの頬が緩む。
 馬車が停まると、停車場で待っていた人々が馬車に群がった。モルズはその中をくぐり抜け、料金箱に銀貨一枚を投げ入れる。
 乗降口に一番近い席に座った。
 流石に馬車の中で帯剣しているわけにもいかないのか、傍らに立てかけられた愛剣の姿が見える。
 やがてすべての乗客が揃うと、馬車が動き出した。馬が駆ける音に合わせ、車内が揺れる。最初は気にならないほどの揺れであっても、馬車が加速しきった頃には少しばかり不快な揺れになっていた。
 ぼんやりと前を見ながら、モルズは思索にふける。
 村の人たちは元気だろうか。
 リーンは楽しくやっているだろうか。
 あの血狼の大群は何だったのか。
 次はどの街に行こうか。
 そんな、考えても仕方のないことを考えながら、モルズの体は馬車に揺られる。
 しかし、やがて考えることもなくなり、モルズはただぼんやりと前を見つめるだけとなっていた。
「――ん?」
 馬車の停止。ここ数時間で日常となった揺れがなくなり、モルズの意識が浮上する。
 カエドに着いたかと思えば、しかし見覚えのない風景が広がるばかりだ。
 遠くから響く蹄の音でようやく気づいた。
 馬を代えているのだ。長時間の走行は馬に負担がかかり、だんだん速度が落ちてしまう。
 そうと分かれば、中でゆっくりしておこう。モルズは起こしかけた体を背もたれにすがらせ、腕を組む。
 馬を代えれば、馬車はすぐに動き出した。決して心地よくはない揺れが車内に広がる。
 荷物を盗まれないように、起きているアピール。血の染み込んだ短剣を持ち歩く人間から物を盗むような|輩《やから》はいないとは思うが、念のためだ。
 ぼんやりと斜め四十五度ぐらいを見つめる。
 そのまま、しばしの間モルズは馬車に揺られた。
 ◆
「…………く、あぁ」
 馬車を降りたモルズは、大きく伸びをした。半日以上同じ様な姿勢をして馬車に揺られ続けるのは、いかに鍛えている傭兵とはいえど少しだけ疲れる。
「道、こっちだっけ」
 カエドから故郷の村に行くまでの道を思い出す。
 なるべく早く故郷に帰りたいからか、モルズは食事をとることを完全に忘れていた。
 モルズが向かった先は、道なき道が続く街の外側。続く道は何本かある中で、モルズは迷うことなく森の中へ続くものを選ぶ。
 ザリ、ザリ……と響く土を踏む音。途中で、それが草を踏む音に変わった。
 手にした短剣で伸びすぎた木々の枝や草花を切り払いながら、モルズは村に向かって進んでいく。
「おっ、ドゥルセの実だ。これ、みんな大好きなんだよな」
 森を進む中で見つけた木の実を摘む。
 ドゥルセの実。小さいが甘い実で、村の希少な甘味となる。リーンを含め、子どもたちの好物だ。
 小さな革袋がいっぱいになるまで詰める。それ以上摘まないのは、摘みすぎることによって森の生態系が崩れるのを防ぐためだ。
 森の中にはモルズ以外誰もいない。村人たちは基本的に村の中で自給自足しているので、行く途中ですれ違うこともない。
 ただ、風が木を揺する音だけが辺りを包み込んでいた。
 モルズは、それに心地よさを感じながら進んでいく。自分が生まれ育った村の近くの森だと本能が認識しているのか、懐かしさも感じていた。
 村に近づくにつれ、次第に道が開けていく。木の実や野生動物の肉など、森にしかない食料を求め、村人が採集や狩猟を行っているためだ。
 モルズは逸る気持ちを抑え、ゆっくり一歩一歩進む。走ると、近くの動物が驚いて逃げてしまうからだ。それでこの辺りに寄り付かなくなったら、申し訳なさすぎてまともに話すことすらできなくなるだろう。
 子どもたちの笑い声が聞こえた。
 村が近い証拠だ。
 平和な光景を想像し、モルズの口元が緩む。
 普段は魔獣が出没することも稀な街道に複数の魔獣が出現したのも、ひょっとすれば夢だったのではないか。そう思ってしまうほどに、村は平和そのものだった。
 森を抜ける。モルズの目の前に、故郷の村の相変わらず平和な様子が広がっていた。
 ここまでくれば野生動物に配慮する必要もあるまい。心の中で言い訳しながら、モルズは村まで駆けていく。
「訪問者なんて珍しいな。兄ちゃん、用件は? …………ぁ」
 普段は村人しか使わない村の出入り口を警備している自警団の青年が、モルズを来訪者と勘違いして声を掛ける。だが、言葉を言い切る頃には彼も気がついた。
「――モルズだ! モルズが、帰ってきた!!」
 大きく息を吸って、村中に知らせる。
「なんだって?」
「モルズが?」
「にーちゃんが!?」
 村中でそんな声が次々に上がり、それだけでどれだけモルズが村のみんなに愛されているかが分かるだろう。
 しかし、当のモルズはそんなことにはお構いなしで、村の中心部――孤児院がある方へ進んでいく。
 ――孤児院の中を、モルズと同じように駆けていく姿があった。
「帰ってきた……!」
「こらこら、走っては危ないですよ。……まあ、今は仕方がないのでしょうが」
 周りの大人にたしなめられても一切減速することなく、彼女は進んでいく。今の彼女には、聞こえていないのだ。彼女の頭の中は、兄のことだけでいっぱいだから。
 ――少しでも私にたくさん食べさせるために、自分は孤児院に入らなかった。
 ――少しでも多くのお金を稼ぐために、危険な傭兵になった。
 ――少しでも私にたくさん食べさせるために、孤児院に多額の寄付をした。
 兄への感謝が彼女の胸を満たしていく。
 階段を転がるように駆け降り、孤児院の入口の扉まで辿り着く。
 彼女の手が扉の取っ手に伸び――
 対するモルズも、自らに集まる人の波を全力で避けて進んでいく。
 途中で大きく跳躍し、屋根に飛び乗った。
 傭兵としての身体能力を最大限活用し、誰もいない道を疾走する。
 ――見えた。
 孤児院を視界に捉えた。
 勢いをそのままに飛び降り、危なげなく着地。残りの僅かな距離を限界を超えた速度で走る。
 孤児院の扉の前に辿り着き、二度、三度と深呼吸。
 意を決した様子で扉に手を伸ばし――――たところで、中から扉が開いた。
「お兄ちゃん!」
「うぉっと」
 中から勢いよく飛び出しモルズに抱きついたのは、何を隠そう妹であるリーンだ。
 モルズはよろめきながらもしっかり受け止め、リーンの頭を撫でる。
「おかえり!」
 リーンの笑顔を目にして、モルズは、
「ただいま」
 滅多に作らない満面の笑みを作って答えた。