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第11話:秋葉家への一歩
退院の日。病院のロビーで待っていたのは、真蓮と、彼の両親が運転する大きなミニバンだった。
児童相談所の職員との面談を終え、一時的に秋葉家で「里親委託」に近い形で生活することが決まった愛菜。小さなスポーツバッグ一つに詰め込まれた荷物が、彼女のこれまでの人生の全てだった。
「ほら、愛菜! 乗れよ!」
真蓮が、まだ少しぎこちない動きでドアを開ける。彼の肩の包帯は少し薄くなり、顔の傷も癒え始めていた。
車が走り出して三十分。到着したのは、閑静な住宅街にある、手入れの行き届いた一軒家だった。
庭には赤い花が咲き、玄関先には泥だらけのサッカーボールが転がっている。
「……ここが、秋葉くんの家」
「おう。今日からは、お前の家でもあるんだぜ」
真蓮に背中を押され、玄関に入る。
「ただいまー!」という真蓮の怒鳴り声に近い挨拶に、奥から「おかえりなさーい!」と二人の弟――|悠馬《ゆうま》と|朝日《あさひ》が飛び出してきた。
「ねえねえ、愛菜お姉ちゃん! 僕の部屋、見に来て!」
「ダメだよ悠馬! 愛菜ちゃんは疲れてんだから!」
わちゃわちゃと騒ぎ立てる弟たちを、真蓮の母・佳代が「はいはい、どいたどいた!」と一蹴する。
「愛菜ちゃん、まずはリビングへ。あんたの好きなもの、用意してあるから」
リビングに入ると、鼻をくすぐったのは、甘くて香ばしいバターの匂い。
テーブルの上には、山盛りの手作りクッキーが置かれていた。
「これ……」
「真蓮から聞いたの。愛菜ちゃん、クッキーが好きだって。……まだ温かいわよ。食べてみて」
愛菜は、震える手で一枚のクッキーを手に取った。
叔父の家では、食事は「与えられるもの」であり、味を感じる余裕なんてなかった。
一口、かじる。
サクッとした食感のあと、口いっぱいに広がる優しい甘さ。
「……おいしい……っ」
ポタポタと、クッキーの上に涙が落ちる。
「あーっ! 愛菜ちゃん泣いちゃった! 兄ちゃんがなんかしたんだろ!」
「してねーよ! なんで俺のせいなんだよ!」
真蓮が慌ててティッシュを愛菜の鼻先に突きつける。
「……バカ、ゆっくり食えよ。これからは毎日、好きなだけ食わせてやるから」
真蓮の少しぶっきらぼうな、でも震えるほど優しい声。
愛菜は涙を拭い、何度も頷いた。
窓の外は曇り空。けれど、秋葉家のリビングには、外の天気なんて関係ないほどの明るい「|エコー《響き》」が満ちていた。
「……私、ここに来られて、本当によかった」
愛菜が初めて口にした本音。
それは、彼女の心が「秋葉愛菜」へと生まれ変わるための、最初の一歩だった。
🔚