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第一話:夜明けの算術と、空駆ける下駄
「――おい。三百五十四足す、六百七十二は」
まだ意識が微睡の淵を彷徨っているというのに、無情な数字の羅列が頭上から降ってくる。
冬灯 灯(ふゆともし アカリ)は、布団の中で「むにゃ……」と眉を寄せ、芋虫のように丸まった。
「……せん、に……じゅうろく……。正解、寝かせて、紅……」
「寝るんじゃねぇ。さっさと起きねぇと、朝飯のうどん、紺炉が『食べる』って言ってたぞ」
その声の主――第7特殊消防隊大隊長、新門 紅丸は、呆れたように灯の襟首を掴み上げた。
「……うそつき。紺炉さんは、そんなこと言わないもん……」
「チッ。いいから立て。ほら、襟が曲がってんぞ」
紅丸は舌打ちしながらも、手慣れた手つきで灯の防火服を整え始めた。
彼女が着ているのは、第7の男物で最小サイズの防火服だ。腕まくりをしてもまだ少し大きい。
紅丸は大きな手で彼女のベルトをぐいと締め直し、最後に襟元を叩いて整える。
幼い頃から続く、第7の日常。一等消防官としての威厳など、紅丸の前では霧散してしまう。
「……紅、苦しい」
「しゃっきりしねぇお前が悪い。今日は……そうだな、買い出しついでに『20分コース』だ」
その言葉に、灯の目がカッと見開かれた。
「20分!? 上等じゃない、今日は絶対に逃げ切ってやるんだから! ついでに魚政さんのところで干物、買ってきちゃうからね!」
言うが早いか、灯は寝起きのダルさを「脱力」で消し去り、窓から屋根へと跳ねた。
カラン、と下駄の音が一つ。
次の瞬間には、彼女の姿は浅草の屋根伝いに消えていた。着地音すらさせないその身軽さは、第7の中でも随一だ。
「……ったく、逃げ足だけは一丁前だ」
紅丸は口角をわずかに上げると、纏の代わりに指先を鳴らし灯を追う。
浅草の街を舞台にした、最強の男と「完封」を誇る女の鬼ごっこ。
その様子を、大隊本部の縁側で眺めていた相模屋 紺炉は、茶をすすりながら深くため息をついた。
「……『紺炉が食う』なんて一言も言ってねぇんだがなぁ、若」
🔚