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第12話:境界線のワルツ
目を覚ますと、そこは病院のベッドではなかった。
柔らかな陽光が降り注ぐ、あの金木犀の木の下。
「|新《あらた》くん、遅いよ」
聞き慣れた、鈴を転がすような声。
振り返ると、そこには二十二歳のままの|永莉《えり》が立っていた。あの日と同じ、お気に入りの白いワンピースを着て、悪戯っぽく笑っている。
「永莉……? なんで……。僕は、あそこで倒れて……」
「ふふ、そんなに難しい顔をしないで。ここはね、昨日と明日が交ざり合う場所。新くんが一生懸命歩いてきた、ご褒美の場所だよ」
新は自分の身体を見下ろした。
点滴の管も、酸素マスクもない。痩せこけていたはずの腕には力が戻り、呼吸は驚くほど軽い。
新はたまらず永莉を抱きしめようとした。けれど、指先が彼女の身体をすり抜ける。
「まだだよ、新くん。まだ、触れられないの。……だって、新くんの『今』は、まだ終わってないもの」
「どういうこと? 僕はもう、全部伝えたよ。本も書いたし、みんなに感謝も……」
永莉は静かに首を振って、新の背後を指差した。
そこには、現実の病室の光景が、霞んだ鏡のように映し出されていた。
ベッドに横たわる、死を待つばかりの自分。
その傍らで、新が書き上げた本を抱きしめ、必死に涙を堪えている陽葵(ひまり)の姿があった。
そして、病院の談話室で、その本を回し読みし、「明日、もう一度だけ頑張ってみようかな」と呟く見知らぬ誰かの姿も。
「新くん。あなたが遺した言葉が、今、誰かの心の中で動き出してる。……それを見届けるのが、あなたの最後の仕事だよ」
「……永莉……」
「大丈夫。私はどこにも行かないよ。……いつか失うのがわかっているから、今を大切にしようって、新くんは書いたんでしょう? だったら、その『今』を、最後まで愛してあげて」
永莉が優しく微笑み、その姿がゆっくりと光の中に溶けていく。
金木犀の香りが、一気に強まった。
「あ……」
新が目を開けると、視界に飛び込んできたのは、ひどく霞んだ病室の天井だった。
身体を焼き尽くすような痛みが戻ってくる。けれど、不思議と恐怖はなかった。
「……にいちゃん。……おにいちゃん……」
弱々しい声が聞こえる。
視線を落とすと、車椅子に乗った陽葵が、新の骨張った手を握っていた。
新は残されたすべての力を振り絞って、彼女の小さな手を、わずかに握り返した。
(ああ、そうだ。僕は、まだ生きてる)
一分、一秒。
心臓が刻む鼓動が、愛おしくてたまらない。
新は、傍らにいた看護師に、かすれた声で言った。
「……陽葵ちゃんに、……お話を。……物語の、続きを……」
それは、本には書けなかった、新が今この瞬間に感じている「本当の結末」だった。
🔚