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海に溶ける僕の最後の一瞬を、きみの声が抱きしめた
前書きのところに一応記述しておきます。
長くなってしまったのですが、ご理解いただけると嬉しいです。
(本気で書いたらこうなった…)
ゆらり、と綺麗な世界が揺れた。
透き通った水の中で、|海月よる《くらげよる》は静かに浮かんでいた。
波に身を預け、ただ光を追って漂う。
目も、耳も、声も、本来は持たないはずの存在。
それでも。よるには、"感じる"ことができた。
__ここではない、どこかへ行きたい。
ぼんやりとした願いが、身体の奥でゆっくりと膨らみ続けていた。
海の底は静かだった。
深く、暗く、時折遠い船の振動が伝わってくるだけ。
仲間たちはただ揺れ、漂い、光を追う。
それだけで、生のすべてが出来上がっていた。
けれど。
よるだけは、ずっと見上げていた。
よるだけは、ずっと夢見ていた。
水面の向こうに広がる、知らない世界。
波間から差し込む光の帯が、どうしようもなく美しかった。
触れたい。昇りたい。もっと近くで見たい。
そんな衝動はクラゲという存在には不相応だったが、止めることはできなかった。
ある日。
水面近くに浮かんだ瞬間。
すれ違った人間たちの笑い声が、かすかな振動として海中に落ちてきた。
__それは、音の形をした、光だった。
生まれて初めて、"世界が色づく"という感覚を味わい、よるは確信した。
私は。
あそこへ、行きたい。
強く願った瞬間。
水面が淡い青に光り、海がよるを押し上げるように揺れた。
海の魔法とも、偶然とも言える不思議な力が働き、よるの身体は細かな光の粒にほどけていく。
__気づいたときには、もう水の中ではなかった。
砂浜に横たわる、小さな女の子。
長い前髪が風に揺れ、白い肌はうっすら透き通っている。
それが、海月よるの"人間としてのはじまり"だった…。
けれどその変化には、ひとつだけ厳しい制約がついていた。
**__人間の姿でいられるのは、一年間だけ。その一年を過ぎたとき、二度と人の姿には戻れない。**
波音の中でその声が聞こえたのか、心に刻まれたのかはわからない。
ただ、よるは本能としてそれを理解した。
それでも構わなかった。
一年だけでも、あの光の世界に触れられるのなら。
---
「名前は…海月よる、かな」
自然に名前を口にした。
__僕の名前は、よる。
何故かわからないが、一人称は"僕"だった。
海で漂っていた頃に「私」や「僕」の違いなど知るはずがないのに、よるの口はそう動いた。
人間の生活は、驚きに満ちていた。
空気の匂い。風の冷たさ。地面の固さ。時折鳴る音。
そして何より、言葉という色彩。
すべてが新鮮だった。
そして、少しだけ怖かった。
そのまま1ヶ月が過ぎ、よるは中学一年の春を迎えた。
見知らぬ街で過ごし、慣れない教室で、慣れない人間関係。
クラゲとして海にいた頃は想像もできなかった"集団"というものに戸惑いながら、それでも目に映るすべてが美しく思えた。
しかし、人間界の光は"きれい"だけじゃなかった。
中学校の美術部に入ったものの、よるは浮いた。
一人称が"僕"というだけで、人間たちはくすくすと笑う。
透明感のある肌質も「不気味」と言われる。
揺れるような歩き方さえ真似され、からかわれる。
よるにとっては、生まれて初めて味わう"痛み"だった。
__人間って、こんなに酷い言葉を使うの…?
海の中では、誰も傷つけなかった。
ただ漂い、ただ触れ、ただ生きるだけ。
だからこそ、人の言葉はよるには強すぎた。
それでも、辞めなかったのは__
「海月、絵上手いじゃん」
その声が、よるを支えていたから。
美術部の二つ上にいる、|日向あさ《ひなたあさ》。
落ち着いた目元と、静かながら優しい声。
よるが仲間外れにされた放課後、その日向あさが声をかけてくれた。
「僕は…そんな、上手じゃ…」
「いや、すごくいいよ。線が柔らかい。見てて落ち着く」
その言葉は、海の底に落ちる光みたいだった。
人間の世界の痛みを、そっと和らげてくれた。
あさは、よるが一人称を"僕"と使うことも笑わなかった。
よるの透き通った肌を「きれい」と言い、絵を描く姿を褒めてくれた。
__この人に、近づきたい。
その気持ちが少しずつ育っていくのを、よるは止められなかった。
でも胸の奥には、いつも小さなトゲがあった。
僕は、人間じゃない。
一年後には、この姿じゃなくなる。
あさになにも言えないまま、季節だけが静かにめくれていく。
桜が散り、雨の季節が来て、夏が近づく。
よるには、その流れがあまりにも早く感じられた。
__あとどれくらい、あさの隣にいられるんだろう。
一年のタイムリミットは、確実に迫っていた。
それでもよるは、あさの優しさに触れる度に思ってしまう。
もっと知りたい。
もっと、一緒にいたい。
それが、どれほど残酷な願いなのかを理解しながら。
そして迎える__花火大会の夜。
その夜が、よるとあさの運命を変える始まりになることを、まだよるは知らない。
---
四月の風は、まだ少しだけ冷たかった。
中学一年になったばかりのよるは、慣れない制服の襟を指で押さえながら、美術室の前で深呼吸した。
__ここで、僕はうまくやれるのかな。
扉の向こうから聞こえる雑談は、よるを迎え入れるやさしい音には聞こえなかった。
どこか鋭くて、触れたら切れてしまいそうな、細い音。
人間の声はまだ難しくて、聞き分けがうまくできない。
それでもよるは小さくノックした。
「失礼…します」
美術室は絵の具の匂いがして、窓から春の光が差し込んでいた。
天井は高く、机は広く、キャンバスに立てかけられた未完成の作品たちが静かに並んでいる。
「新しい一年生?あ、海月さんだっけ」
先輩たちが振り向いた。
その視線の中には興味もあれば、探るような色もある。
よるは少し肩をすくめながら、ぺこりと頭を下げた。
「よろしくお願いします…僕、海月よるです」
その瞬間、その場の空気がかすかにざわめいた。
「…僕?」
「女の子だよね?」
「なんで僕って言うの?」
声が小さく重なり合い、よるの胸に刺さる。
刺さる、という感覚も人間になって初めて知った痛みだった。
よるは戸惑いながら答えた。
「なんか…その方が、しっくりきて…」
「へぇー、変わってるね」
「ちょっと男の子っぽい?」
先輩のひとりが笑い、別の子がそれに続く。
笑い声は明るいのに、よるには少し冷たく感じられた。
海の底にいたころは、こんなふうに誰かに見られることはなかった。
ただ漂っていただけだったのに__人間の世界は複雑すぎた。
「まあ、気にしないでいいよ」
「変わってる子、多いしね」
そう言われても、よるの心は波のように揺れた。
よるは視線を落とし、指先を握った。
そのとき__
「新入生?絵、見せてもらっていいかな」
やわらかく落ち着いた声がして、よるは顔を上げた。
そこに立っていたのは、三年生の男子だった。
日向あさ。
よるはまだその名前を知らなかったけれど、光の中に立つ彼の姿は、どこか安心する色をしていた。
「あ…はい。こんなのしか描けないけど…」
よるが抱えていたスケッチブックを差し出すと、あさは両手で丁寧に受け取った。
ページをめくる指先は穏やかで、よるはそれを見ているだけで胸が少し軽くなる気がした。
「これ…すごくいい。線がすごく柔らかい」
あさの口から出た言葉は、よるの心にぽとりと落ちた。
「柔らかい…?」
「うん。透明みたいっていうか…なんか、海を思い出す」
海。
その言葉を聞くだけで、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
懐かしくて、寂しくて、でも嬉しい。
「ありがとう」
そのとき、美術室の空気がすこし揺れた。
ざわつきが、遠のいた気がした。
他の部員たちは、一瞬あさを見たが、すぐに雑談に戻る。
彼が言うと、雰囲気が変わる__そんな存在だった。
「海月、描くの好き?」
「…はい。好き、です」
よるが答えると、あさはふわりと微笑んだ。
「じゃあ、ここでいっぱい描こう。遠慮しなくていいよ」
その一言で、よるの胸の中の波がすっと静かになった。
海の底で揺れる静けさとは違う、あたたかい静けさ。
__この人は、僕を見てくれる。
そんな確信が、ほんの少しだけ芽生えた。
---
放課後の美術室には、夕日の光が差し込んでいた。
机の上の絵の具は橙色を帯びて、窓辺のスケッチブックは風に揺れた。
よるは自分のスケッチブックを開き、筆を走らせる。
色は淡く、線は揺れるように細い。
クラゲのころの「漂う感覚」が、無意識に手を動かしているようだった。
「海月」
あさが声をかけてきた。
よるは筆を止めて振り返る。
「困ってること、ない?」
「…なんで、そんなこと聞くんですか」
「今日、ちょっと様子が沈んでたから」
よるは一瞬迷った。
人間になってから、ほとんど誰にも"本当の気持ち"を話したことがなかった。
でも、あさの目はまっすぐだった。
逃げ場を奪うような強さじゃなく、支えてくれるような強さ。
「僕…人と、話すのがちょっと難しくて」
「そっか」
「一人称のことも、変だって言われるし…」
「うーん…変じゃないと思うよ」
即答だった。
よるは息を飲んだ。
「海月が使いやすいなら、それでいいんじゃない?」
あさは、まるで当たり前のことのように言った。
その言葉は、夕日の光みたいに柔らかくて心に染み込んだ。
「…ありがとう」
よるが絞り出すように言うと、あさは少し照れたように笑った。
「じゃあ、海月。これからよろしく」
その声音には、よるを仲間として迎える温度があった。
よるは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
海の底では決して得られなかった感覚。
そして気づかないうちに__
よるは、彼を目で追うようになっていた。
夕日の光。筆の音。
ふたりの距離は、静かに近づき始めていた。
---
五月に入ると、放課後の美術室には柔らかな風が通り抜けるようになった。
窓を開けると、遠くから運動部の掛け声と、花の香りのような空気が流れ込む。
よるはその匂いを深く吸い込んだ。
海の底では決して味わえなかった季節の気配。
それはよるにとって"一年しかいられない世界"の尊い証のように思えた。
「海月、今日はどんな絵を描くの?」
あさが声をかけてきた。
よるは少し考えてから、キャンバスに向いたまま答える。
「…今日は、光を描きたいな」
「光?」
「うん。海の中にも、きらきらして落ちてくるのがあって……それを思い出すと、なんだか落ち着く」
あさは目を細めてよるの横に立つ。
よるの筆が描くのは、白と水色を溶かしたような淡い色。
それはまるで、海の奥でゆらめく光そのものだった。
「きれいだね。海月の絵って、なんか呼吸してるみたい」
「呼吸…?」
「うん。風とか水とか、空気が動いてる感じがする」
よるは胸がくすぐったくなるのを感じた。
あさの言葉は、よるの世界を丁寧に撫でるようだった。
「…僕、もっと上手くなりたいな」
「なれるよ。海月の絵、見てる人の気持ちを揺らすから」
そんなふうに言われたのは初めてだった。
よるは照れて視線を落とし、指先をそっと握った。
__この人と話すと、僕の心は急に人間みたいに動く。
知らず知らずのうちに、よるはあさの言葉を待つようになっていた。
---
放課後の日課は自然と決まっていった。
あさは三年生で受験勉強もあるはずなのに、時間が空くと美術室に顔を出した。
よるはそれが嬉しくて、来てほしいと思ってしまう自分に気づく。
「海月、今日もここ?」
「う、うん。あさくんこそ、受験は…?」
「まあ、なんとかなるよ。それよりさ__」
あさはよるのスケッチブックを覗き込む。
「今日のこれは…うん、いい色だ」
さらりと言うその言葉ひとつで、よるの世界が少し明るくなる。
「ところでさ、海月って家、どの辺?」
「え?」
突然の質問に、よるは手を止めた。
「いや、送ってくとかじゃなくてさ。ただ気になって」
「…海の近く」
「海?」
「…うん。海から来たんだ、僕」
何を言っているのか、よる自身もよくわかっていなかった。
本当のことは言えない。
でも、嘘をつくのも少し苦しかった。
あさは軽く笑った。
「そっか。海月って名前、ぴったりだもんね」
__信じていない。でも、否定もしない。
その曖昧さがよるには救いだった。
---
六月。雨の季節。
よるは傘を忘れ、昇降口で立ち尽くしていた。
外は静かな雨の膜が張られ、灰色の空から落ちる音が地面を淡く叩いている。
「海月?」
あさが傘を持って現れた。
「帰らないの?」
「傘、忘れちゃって…」
「あー…じゃあ、一緒に帰る?」
「えっ」
「家の方向、途中まで同じでしょ?」
よるは胸の奥が急に熱くなるのを感じた。
「あ、あの…僕、歩くの遅いよ?」
「別にいいよ。ゆっくり帰ろ?」
その一言で、世界がほんの少し優しくなる。
雨の中、二人で並んで歩く。
あさが傘を傾けるたびに、よるの肩に落ちる雨粒が少なくなる。
「…あさくんって、誰にでも優しいの?」
「どうだろう。海月には優しくしてるかも」
その言葉は、よるの胸に深く沈んだ。
沈んで、沈んで、消えずに残った。
__僕は、この優しさを一生忘れられない。
でもその"一生の長さ"が、人間とは違うことを、よるは痛いほど知っていた。
---
七月に入り、蒸し暑い風が吹くようになったある日。
美術部の顧問が言った。
「今年も恒例のイベントな。夏の花火大会、みんなで行くぞー」
美術部が毎年楽しみにしている行事。
よるは一瞬だけ胸を弾ませた。
__あさくんも、一緒に行くのかな。
その日の帰り道。
あさは美術室の前でよるを呼び止めた。
「海月、花火大会さ」
「うん…?」
「一緒に回ろう。みんなで行くけど…海月が迷わないように」
よるは息を呑んだ。
「…僕のこと、迷子だと思ってるの?」
「いや、雰囲気がなんか…こう…ふわふわしてるし」
あさは少し照れながら笑う。
その笑顔は、夜の海みたいに優しかった。
よるは胸がぎゅっと締め付けられながらも、小さく頷いた。
「…うん。一緒に、まわりたい」
言葉にすると、よるの心はほんのり熱を帯びた。
その熱は、夏の空気よりも強くて、切なくて、愛おしかった。
__でも僕には、時間がない。
その事実だけが、いつも心の底でざわめいていた。
---
七月の空気は、まるで透けたガラスの向こう側にいるみたいに、熱と光がゆらゆら波打っていた。
よるは昇降口の影に立ち、少し息を整えてから歩き出した。
放課後の美術室へ向かう道は、湿った風と夏の匂いが満ちている。
よるは胸の奥で静かに灯り続けるものを指先に感じながら、ゆっくり階段を上った。
美術室の扉を開くと、絵具の匂いがふわりと漂い、夕日の光が机を照らしていた。
「あ、海月。今日も来たんだね」
あさの声だった。
光の中に立っている彼は、どこか海で見る“揺れ”に似ていた。
まっすぐで、静かで、それでも触れたら形を変えてしまいそうな脆い優しさを持っている。
「うん。…なんか、ここにいると落ち着く」
よるが答えると、あさは少し笑った。
「わかるよ。俺もそう。家よりこっちのほうが落ち着くとき、あるから」
その言葉に、よるは胸がふわりと揺れた。
海の中では、誰かと心を通わせるなんて存在しなかった。
人の言葉も、感情も、痛みも、ぬくもりも知らなかった。
だけど今は、あさと話す時間が、よるの心を確かに変えていた。
「そういえばさ」
あさは筆を置いて、軽く机に手をついた。
「花火大会、来週だよな。美術部で行くやつ」
「うん…聞いた」
「楽しみ? 海月はあんまり、こういう人の多いとこ来ないイメージだけど」
その言葉に、よるは一瞬だけ手を止めた。
「…うん。ちょっと、慣れてなくて。人が多いと、どう動いたらいいのかわからなくなる」
「そっか。まあ、初めてだとそうだよな」
あさはそれを“普通のこと”みたいに受け止めてくれた。
「でもさ」
あさはふっと柔らかく笑った。
「歩くときは、俺の後ついてきていいから。海月のペースでいいよ」
「…いいの?」
「当たり前だろ。はぐれたら困るし」
その自然な言い方が、よるの胸にあたたかく沁みた。
「…ありがとう」
よるの声はほんの少し震えたが、あさは気づいていないようだった。
「んで、今日の絵は何描くの?」
「今日は…風、描こうかな」
「風?」
「うん。風って、柔らかくて、目に見えない綺麗さがあるから。一度、絵で描いてみたかったんだ」
あさは目を柔らかく細めた。
「海月の描く風、ちょっと見てみたい」
その一言に、よるの心は静かに満たされてゆく。
---
部活動が終わり、夕暮れどきの校舎をふたりで歩く。
窓の外には、夏祭りの準備をする人たちの姿が見えた。
赤い提灯がゆらゆらと吊るされ、風に揺れている。
「ねえ、海月」
あさが突然言った。
「花火ってさ、音だけでもきれいだよな」
「音だけ?」
「うん。遠くで"どん"って鳴るだけでも、胸がすっとする」
よるは立ち止まった。
花火はまだ見たことがない。
海の底では、そんな音は一度も届かなかった。
「…どんな音なの?」
「んー…重くて、でも柔らかい」
あさは空を見上げる。
「海月も気に入ると思うな。光、好きだろ?」
よるは小さく笑った。
「うん。…光は、好き」
海の底で、唯一触れられた"世界の上から落ちてくる色"。
あの光を追って生まれた願いが、自分を人間にした。
花火も、きっと__
「きれいなんだろうな」
「うん。一緒に見ような」
あさの声は、夕焼けの色みたいにやわらかかった。
よるは、胸の奥のどこかがじんと痛むのを感じた。
痛みはあのころ知らなかったもの。
でも今はもう、この痛みがどこか愛しくなってしまっていた。
__でも、僕には一年しかない。
その現実だけが、心の奥に小さく刺さる。
---
そしてついに、花火大会の前日がやってきた。
よるは家(と呼んでいいのか迷う程度の小さな海辺の住処)で、浴衣を広げていた。
淡い青に白い水紋のような模様。
どこか海を思わせるそれは、よるにとって初めての"人間の祭りの衣装"だった。
鏡に映る自分が、ふわりと薄い光の膜を纏っているように見えた。
「似合うかな…」
誰に見てほしいのか、もうわかっていた。
その瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
__明日は、楽しみ。でも怖い。
__あの人を、もっと好きになってしまいそうで。
だけど止められない。
海の底で光に惹かれたあの日のように、よるの心はあさに惹かれ続けていた。
その気持ちがどれほど残酷な終わりへ繋がるとしても。
---
花火大会の当日、夕方の空は少しだけ茜色を残しながら、ゆっくりと群青へ沈みつつあった。
風は弱く、浴衣の袖をそっと揺らす程度。
よるは胸元を整え、鏡の前で深く息を吸った。
「…大丈夫。大丈夫」
小さく呟いてみたが、心臓の鼓動は落ち着かなかった。
人の多い場所は得意ではない。
でも今日は、逃げたくなかった。
__あさくんと、みんなと行く初めての行事だから。
足元を確かめるように一歩踏み出す。
外に出ると、風が浴衣の裾をすくい上げた。
その感触はどこか新しくて、くすぐったかった。
---
集合場所の公園に近づくと、すでに大勢の人の声が重なり合っていた。
とんとん、と太鼓の音が遠くで鳴り、屋台の明かりがゆらゆらと揺れている。
よるは立ち止まり、少しだけ呼吸を整えた。
胸の奥で、緊張が波のように寄せてくる。
「あ、海月!」
聞き慣れた声がして、よるは顔を上げた。
あさがこちらへ手を振っていた。
部員たちも数人近くにいて、賑やかに話している。
あさはよるの近くまで来ると、ぱっと目を見開いた。
「浴衣…似合ってるじゃん」
その言葉に、よるは一瞬だけうつむいた。
「…ありがとう」
あさは気づかないふうで、自然に笑った。
「じゃあ行くか。みんな、そろそろ出るって」
よるは頷き、あさの後に続いた。
人混みが迫るたび、不安が胸に影を落としていく。
けれどあさが前を歩き、時々振り返って「大丈夫?」と目で合図してくれるだけで、少しずつ肩の力が抜けていった。
屋台の光が水面の反射みたいに揺れて、風鈴の音が遠くで鳴っていた。
色とりどりの匂いが漂ってきて、よるは思わず足を止める。
「…これ、全部食べ物?」
「そうそう。祭りってこういうの多いよな。食べたいのある?」
よるはきょろきょろと見回しながら、そっと首をかしげた。
「わかんない…けど、匂いがすごい」
「じゃあ、ちょっとだけ回ってみる?」
あさが言うと、部員のひとりが笑って声を上げた。
「おー、あさが引率か? まじめかよ~」
「ほっとけって。海月、初めてなんだから」
その言葉がなぜか自然で、よるは胸の奥が柔らかくなった。
「あの…あんまり離れないようにしたい」
よるが小さく言うと、あさはすぐに頷いた。
「いいよ。じゃあ近くにいよ」
それは特別でも何でもない、当たり前の気遣い。
でもその“当たり前”が、よるにはどこか温かかった。
---
やがて、花火の打ち上げが始まる時刻が近づく。
部員たちは河川敷の芝生に集まり、レジャーシートを広げた。
空気が少し冷えて、よるは浴衣の袖を軽く握った。
「あ、寒い?」
あさが気づいたように視線を向けてきた。
「…大丈夫。ちょっと風があるだけ」
「そっか」
あさは空を見上げる。
「そろそろ始まるな」
人々のざわめきが遠くで揺れる。
風に乗って川の匂いがふわりと漂う。
ぱん、と小さな音がして、よるは思わずそちらを見た。
夜の空に、白い光が線を引いた。
そして、開く。
視界いっぱいに広がる大きな花。
色、光、音__どれも海では知らなかった世界の形だった。
「…きれい」
思わず零れた声に、あさは横で笑った。
「だろ?」
花火が次々と夜空に大輪を描いては消えていく。
そのたびに、人々が息をのんだり歓声をあげたりする。
よるは光に目を奪われながら、胸の奥にあたたかいものが満ちていくのを感じていた。
__こんな景色があるなんて、知らなかった。
そう思った瞬間、後ろのほうから小さな声が聞こえた。
「ねえ、あの子…海月って言ったっけ」
「なんか変じゃない? 全然人と話さないし、表情薄いし」
「そうそう、なんか雰囲気怖くない? あさってああいう子がタイプなのかな」
ひそひそとした声なのに、妙にはっきり耳に届いた。
心臓が強く跳ねる。
何か冷たいものが背中を滑り落ちた。
「…あっ」
呼吸の仕方がわからなくなるような感覚。
胸の奥の余白に、ざらりと黒い何かが染みていく。
あさが振り向いた。
「海月? どうかした?」
その声は届いているのに、耳の奥がきゅうっと塞がっていく。
「…だいじょ…ぶ…」
言葉が震える。
自分でも、どんな顔をしているのかわからなかった。
花火の音、人のざわめき、光__
すべてがいっきに遠くへ押しやられていくようだった。
「海月?」
あさが手を伸ばした気配がした。
けれど、よるの足は反射的に後ろへ下がっていた。
逃げたかった。
何からか、はっきりはわからない。
でも、この場所で息をするのが苦しくてたまらなかった。
人の流れが押し寄せる。
視界が人影と光と暗がりで揺らぐ。
「あ…」
足がすべって、人にぶつかり、また離れていく。
気づいたときには、あさの姿がもう見えなかった。
けれど、探そうという気持ちすら、今はどこかに消えていた。
ただ__胸が痛くて、苦しくて。
よるは、光から離れるように、ふらりと人混みの外へ歩きだした。
夜の影が濃くなり、灯りの届かない道へ吸い込まれるように。
---
夜の灯りが遠ざかるにつれ、花火の音も薄れていく。
人々のざわめきが遠くなり、よるが歩く足音だけが小さく響いた。
知らない道。
知らない街灯。
知らない家の並び。
胸の奥がじんじんと痛む。
息を吸うと、湿った夏の夜気が肺を満たし、その重さに涙がこぼれそうになった。
「…どうしよう」
そう小さくつぶやいた声も、誰にも届かない。
よるはふらふらと歩き続け、やがて小さな公園にたどり着いた。
人気のない場所で、ブランコだけがぽつりと並んでいる。
光からも、人からも遠い場所。
ここなら、泣いてもいい気がした。
よるはブランコに腰を下ろし、うつむいた。
花火の残り香のような音が遠くで響き、涙がぽたりと落ちた。
「…っ」
肩が震え、視界がぼやけていく。
あさが悪いわけじゃない。
誰が悪いわけでもない。
ただ__胸が苦しかった。
どれくらい時間が経ったのかわからない。
ふいに、砂利を踏む足音が近づいた。
「…海月」
その声に、よるは顔を上げた。
街灯の下に、息を切らしながらあさが立っていた。
額には汗がにじみ、呼吸も少し荒い。
探してくれた__その事実に気づいた瞬間、よるの胸の奥が強く揺れた。
「あっ…あさくん…」
声が震えてしまう。
涙がまた溢れ、よるは袖で拭った。
「あちこち探した。…大丈夫?」
あさはそっと近づいてきた。
責めるような口調ではなく、ただ心配している声だった。
よるは言葉にならなくて、首を横に振った。
その仕草が幼い子どものようで、あさは一瞬だけ迷ったように視線を伏せた。
「戻ろうか。みんなのとこ」
そう言われた瞬間、胸がぎゅっとなった。
戻れば、また光と人の中に紛れてしまう。
あさの隣にいても、どこか遠くに感じてしまいそうで。
「…ここに…いたい」
かすれる声を押し出すように言った。
「え?」
「あさくんと…ふたりで…」
言ってしまってから、よるの頬が熱くなった。
夜風が浴衣の袖を揺らす音まで聞こえてしまうほど、静かだった。
あさは驚いたように目を瞬かせ、少しだけ視線をそらした。
でも、すぐに小さく息を吐き、よるの隣のブランコに腰を下ろした。
「…じゃあ、少し休も」
それは特別な言い方ではなかった。
けれど、よるの胸に静かに灯がともるようだった。
---
花火の音が遠くで消えていき、公園は夜の静けさをすっぽりと取り戻していった。
ふと顔を上げると、雲の切れ間に淡い月が浮かんでいた。
あさもその月を見上げていた。
少しして、ぽつりとあさが言った。
「…月が綺麗ですね」
その言葉は、夜の中で静かに響いた。
よるは思わずあさを見つめた。
「それ…」
よるは以前クラスメイトが話しているのを聞いた。
"告白するときに使う言葉なんだよ。直接言えないとき、『月が綺麗ですね』って。"
まさか、自分がその言葉を言われるなんて__。
驚きで胸がいっぱいになり、よるはしばらく声が出せなかった。
けれど、あさの横顔がどこか真剣なのを見て、よるはゆっくり、こくりと頷いた。
言葉にはできなかった。
でも、気持ちは伝えたかった。
頷いたとき、よるは小さく微笑んだ。
あさは、その表情を見てほっとしたように息を吐いた。
こうして、ふたりは付き合うことになった。
性格も、名前も、まるで正反対。
それでも毎日は静かに、温かく進んでいく。
あさのおかげで、よるの日々はゆっくり色づいていった。
しかし__時間は、確実に進む。
よるには"1年"という限りある季節しか残されていないことを、あさはまだ知らなかった。
---
すっかり秋になった頃。
美術室は夕方になると少し肌寒くなり、窓際には秋の光が差し込んだ。
よるはスケッチブックを開き、落ち葉の色を丁寧に描いていた。
「海月。最近の絵、季節感じるよな」
あさが隣に座りながら言った。
「…季節って、こんなに色が変わるんだね」
「海月の色の捉え方、好きだな。海の色みたいで」
よるは筆先を止めた。
海。
心の奥が、不意に揺れた。
「海月?」
「…ううん。なんでもない」
あさが呼ぶ声は優しくて、その優しさに少しだけ心が痛んだ。
秋が近づくほど、よるの残り時間も静かに減っていく。
でも、もう止められなかった。
あさと過ごす時間が、今のよるにとってなにより大切だった。
その気持ちが、これからの季節を変えていく。
---
__もうすぐ、秋の文化祭。
よるたちが通う中学校では、毎年部活の展示メインで文化祭を進めていた。
九月の終わり、校内がそわそわと色づきはじめた。
廊下には看板作りの絵の具の匂い、体育館からは吹奏楽部の調整音。
季節の変わり目の風は涼しくて、少しだけ胸が軽くなる。
よるやあさがいる美術部は小さな展示と写真スポットを作ることになり、美術部のよるは飾り付けの色彩デザインを任された。
放課後。段ボールや色紙が机いっぱいに散らばる教室で、あさが後ろから声をかける。
「海月、これ、どこ置けばいい?」
「それは…光が当たるところの方が綺麗に見えると思う」
「了解。じゃあ窓側な」
軽い返事とともに、あさは迷いなく動き始めた。
その背中を見ていると、よるも自然と手が動いた。
しばらくして、作業の手を止めたあさがふと呟いた。
「こういうの、なんか楽しいよな」
「うん。みんなでひとつのもの作ってる感じ、好き」
あさは少し驚いた顔をしたあと、柔らかく笑った。
「海月がそう言うの、なんか嬉しい」
その一言が、よるの胸の奥をふわりと温める。
この時間がずっと続けばいいのに、とほんの一瞬だけ思った。
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秋晴れ。空の青がやけに澄んでいて、風に乾いた木の葉の匂いが混じる。
展示は思っていたより人が入り、忙しさに圧倒されるほどだった。
写真スポットに使われた色紙の装飾は光を反射し、来客の子どもたちが嬉しそうにはしゃいでいる。
ふと、あさがよるの方を指で合図した。
「ちょっと外、空いてる。休憩行くか?」
「…行きたいかも」
二人は中庭のベンチに並んで座った。
遠くから聞こえる笑い声と音楽が、どこか祭りの余韻みたいに空に溶けていく。
「海月のデザイン、好評だったな」
「ほんとに?」
「ほんと。みんな見てたぞ。光の使い方が綺麗だって」
よるは少しだけ照れくさくなって、顔を伏せた。
「…ありがと」
そのとき、ふいに風が吹いて、よるの髪が揺れた。
あさが何か言いかけたように見えて、けれど言葉を飲み込む。
「どうかした…?」
「いや。なんでもない」
ほんの一瞬だけ、あさの視線が真っ直ぐよるに向いていた。
その目の色がいつもより少しだけ深く見えたのは、気のせいだろうか。
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文化祭が終わり、校内はまた落ち着きを取り戻す。
美術室の窓から差し込む光は柔らかく、秋の午後は時間がゆっくり流れているようだった。
よるが絵筆を動かしていると、あさが隣の椅子に腰掛けてくる。
「海月、最近顔色悪いけど、大丈夫か?」
心臓が跳ねた。
「えっ…そんなに悪く見える?」
「うん…少しだけ。無理してない?」
よるは一瞬だけ迷う。
本当は、最近立ちくらみが増えていた。朝起きると胸が少し苦しい日もある。
でも、それを言うと、あさが心配する。
「…大丈夫。季節の変わり目だからかな」
あさはしばらくよるの顔を見てから、ため息をつく。
「心配なんだよ」
その言い方があまりにもまっすぐで、よるは胸がぎゅっと締めつけられる。
「…ありがとう」
小さく呟くと、あさはいつものように微笑んだ。
「寒くなるし、あったかくしとけよ。海月、冷えると弱いだろ」
どうして、そんな当たり前みたいに知っているんだろう。
どうして、こんなに優しいんだろう。
よるは筆先を見つめたまま、そっと息を吐いた。
秋が深まるほど、よるの残された時間も静かに進んでいく。
どうしようもないその気持ちを抱えて、ふと静かに窓の外へ目をやった。
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__もうすぐ11月。
美術室の窓から差し込む光は少し弱くなった。
夕方の冷たい空気が入ってきて、絵の具の匂いもどこか落ち着いて感じられる。
よるはいつもの席でスケッチブックを開き、あさは向かい側でキャンバスに下書きをしている。
特別な会話はない。
鉛筆が紙をすべる音だけが、静かな空間を満たしていた。
「あ、ここ間違えたかも」
あさが独り言みたいに言うと、よるは手を止めて少しだけ覗き込み、
「薄く重ねれば、大丈夫だよ」
と、短く助言する。
褒めたり教え込んだりしない、ただ淡々としたやり取り。
でもそれが妙に心地よかった。
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寒さが増してきた頃、美術室は暖房の音が小さく響くようになる。
窓の外はもう薄暗くて、帰りのチャイムより早く夜が来る。
よるは寒さに少し弱いらしく、指先をこすり合わせながら絵を描く日が多くなった。
あさは何も言わないけれど、パレットを渡すとき、よるの手が冷えているのに気づいて、ほんの少し心配そうな目を向ける。
その視線だけで、よるは「あ、ばれてる」と思って気まずそうに笑う。
でも、それ以上の会話はない。
空気の中にだけ、微かな気遣いがあった。
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冬休み前の放課後。
美術室の窓の外では雪がちらついていて、光の粒が静かに落ちてくるのが見える。
「雪、積もるかな」
あさがぼそっとつぶやき、よるは窓の外を眺めたまま「どうだろ」と返す。
そのあと、また二人は作業に戻る。
時間だけがゆっくり流れていく。
チャイムが鳴ったあとも、少しだけ片づけが遅くなる。
離れがたいわけでもなく、理由もなく、ただ"今の空気がちょっと好きだから"というだけで。
そんな冬の始まり。
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今日は、クリスマスだ。
町の明かりがいつもより静かで、澄んだ空気に白い吐息が溶けていく。
よるとあさは、商店街へ向かう道を並んで歩いていた。
イルミネーションの光が、ガラスに反射して揺れている。
ふたりは特別なことを話すわけでもなく、ただ「きれいだね」とか「寒いね」とか、そんな短い言葉を交わすだけだった。
それでも、よるにとっては十分だった。
途中、あさが少し戸惑ったようにポケットを探り、小さな包みを取り出した。
「これ、渡したかったんだ」
よるが受け取ると、中には白地のハンカチが入っていた。
端には、淡い糸で"クラゲと月"の模様が刺繍されている。
「よるが好きかなって思って…」
あさは照れたように視線をそらす。
よるはハンカチを胸に抱きしめるようにして、小さく「すごく…きれい」と言った。
嬉しさが胸いっぱいに広がるのと同時に、その奥にひっそりと冷たい痛みが差し込んだ。
(僕、来年はいないのに…)
心の中で言った言葉は、息に乗せることもできない。
言ってしまえば、きっと壊れてしまうから。
あさはそんなよるの気持ちを知らないまま、よるの横顔を見て少し笑った。
「海月と過ごすクリスマス、いいなって思ってさ」
よるはその言葉に、また胸がぎゅっとした。
返事をする代わりに、「ありがとう」とだけつぶやく。
その後は、あたたかい飲み物を買って手を温めたり、ゆっくり冬の町を歩いたりした。
笑ったり、黙ったり、風を感じたり。
そんな小さな時間の積み重ねが、よるには何より尊く思えた。
夜が深まる頃、あさが言った。
「来年も…また一緒に過ごそうね」
よるは、喉がつまってうまく言葉が出なかった。
ほんの少しだけ顔を上げて、静かにうなずいた。
そんな仕草で精一杯だった。
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クリスマスの次の日。
窓の外には、夜のうちに降ったらしい淡い雪が、まだ屋根に残っていた。
よるは、机の上に広げたままのハンカチを見る。
白い布に、クラゲと月の刺繍。
それを指先でそっとなぞっていると、胸の奥が少し痛んだ。
__嬉しいのに、苦しい。
あさくんに触れられる時間は、もうそんなに長くない。
わかっているのに、昨日はその現実から目をそらしてしまった。
笑っていた自分の横で、時間だけが静かに、確実に進んでいた。
よるは、布を胸に抱きしめて小さく息を吐いた。
「…僕、どうしたらいいんだろう」
答えはない。
ただ、少し冷たい冬の空気だけが、部屋の中で揺れていた。
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冬休みに入っても、よるはときどき学校に行った。
美術室にだけは、なぜか足が向く。
窓から射し込む午後の光が、冷たい空気の中で白くぼやけて、よるの座る机の上にやわらかく広がる。
そこは、人間の世界に来てから一番長くいた場所だった。
絵の具の匂い、机のざらざらした手触り、あさのスケッチブックのページをめくる音。
全部、ここに残っている。
「また…来ちゃった」
よるは、苦笑しながら椅子に腰を下ろした。
人がいない美術室は静かで、かえってあさの気配が近くにあるように感じられた。
冬休みなのに、たまにあさもふらっと来る。
「よる、また描いてたの?」
「うん。…あさくんは?」
「まあ、なんとなくな。家だと落ち着かないし」
__あさは、最近になって、ようやく僕のことを「よる」と呼ぶようになった。
ふたりで、「名前で呼び合おう」と約束したのだ。
そんな約束すら、胸の中で切なく光ったのだけれど。
会話を交わして、ふたりはしばらく同じ空間にいた。
恋人同士というより、同じ場所にいることを自然に受け入れる"仲間"のように。
よるはその時間が好きだった。
静かで、温度がゆっくりで、何も言わなくても、そばにいるだけで安心できる。
でも、その安心が、じわりと怖かった。
手放したくなくなるからだ。
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冬休みが明け、学校に生徒の声が戻った。
1月の空気は鋭く冷たくて、校庭の土はまだ冬の匂いをしていた。
あさは受験の追い込みに入り、部活にはあまり来られなくなった。
よるはいつもひとりで絵を描いた。
あさの机の上には、受験用の参考書や赤いペンが置きっぱなしになっている。
それを見ると、よるの胸はきゅっと縮んだ。
(…あと少しで、あさくん、卒業なんだ)
その現実が、じわじわと距離を詰めてくる。
よるの"終わり"と同じ日に向かって。
ある日の帰り道。
空はもう薄暗く、街灯の下に雪が溶け残っていた。
「あさくん、最近忙しいよね」
歩きながら、よるがぽつりと言った。
「まあな。でも…よると話す時間は、ちゃんとつくるよ」
その言葉は嘘じゃないとわかる。
けれど、よるの胸は晴れなかった。
“時間をつくる”ってことは、いつかはつくれなくなるってことでもある。
「…ありがとう」
声はちゃんと出たのに、胸の奥にあった言葉は、喉でほどけずに消えた。
__僕、あさくんに言えないままでいいのかな。
その迷いは、冬の重さみたいに、日々積もっていった。
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卒業式の前日。
夕方の美術室は、赤い西陽が差し込んでいた。
よるは、机の上に広げたハンカチをじっと見つめる。
刺繍の月は夕陽で金色に光っていた。
(あした…なんだな)
1年の期限は、ほとんど残っていない。
身体の奥で、時々小さく波のような違和感が走る。
それでも、よるは思った。
__最後の日くらい、泣かずにいたい。
__あさくんと、一緒に笑っていたい。
よるは、そっとハンカチを折ってポケットにしまった。
それが、自分の決意みたいだった。
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春の匂いが、ほんの少しだけ混ざった冷たい空気。
よるは制服の襟を整えながら、鏡の前で深呼吸した。
__今日が、あさくんの卒業の日。
胸の中に重く沈んでいる"終わり"を確かめるように、よるはポケットの中のハンカチにそっと触れた。
それだけで、心がぎゅっと縮まる。
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体育館には人のざわめきが満ちていて、ステージの上には卒業生が整列していた。
よるは1年生の列に並びながら、前の方に立つあさの背中をずっと目で追ってしまう。
卒業証書授与の名前が一人ひとり読み上げられ、拍手が体育館の空気を震わせていくたびに、よるの喉はきゅっと硬くなった。
(もう…これで、最後の行事なんだ)
あさが名前を呼ばれると、よるは無意識に手を強く握っていた。
「日向あさ」
その声に合わせて、あさが前へ歩く。
背筋を伸ばしたその姿に、よるは胸が熱くなった。
誇らしくて、寂しくて、息の仕方が一瞬わからなくなる。
卒業生の歌が始まった。
知らないはずの歌詞なのに、よるの心の奥にはなぜか痛いほど響いた。
__この1年、早すぎるよ。
涙はこぼれなかった。
こぼしちゃいけない気がした。
泣いてしまったら、全部終わってしまうような気がして。
ただ、胸の奥が、静かにしぼむように痛んだ。
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卒業式が終わり、外へ出ると、柔らかな春の光が差し込んでいた。
あさは友達に囲まれていて、笑いながら写真を撮られていた。
その表情を見ると、よるは胸の奥がじんわりあたたかくなる。
(あさくん、ちゃんと笑ってる…よかった)
でも同時に、
「この場所が、僕の世界じゃなくなる日がもうすぐなんだ」
そんな現実が、砂みたいに音もなく積もっていく。
友達と別れたあと、あさは少し疲れたような笑顔でよるに歩み寄ってきた。
「待たせた。…行こっか」
その一言が、よるの胸にすっと沁みた。
「うん。あのね…行きたい場所が、あるんだ」
よるが言うと、あさは少し驚いた顔をしてから、優しく頷いた。
「いいよ。どこ?」
よるは小さく息を吸った。
「…海に、行きたい」
あさの瞳が一瞬だけ揺れて、すぐに笑みに変わる。
「いいよ。行こう」
その言葉に、よるはほっとしたような、でもどこか怖いような感覚を覚えた。
自分で望んだのに、その先に待っているものを知っているからだ。
---
ふたりで足を進める。
外の景色は春の準備を始めていて、よるはそれを見るたびに胸がじんわり締めつけられた。
だって、季節は続いていくのに__
僕だけがこの先へ進めない。
そんな思いが、雪解け水のように静かに流れていく。
隣であさが言う。
「…卒業した実感、まだないな」
「そうなんだ」
「でもさ、よるが隣にいるからかな。なんか、落ち着く」
その言葉に、よるは一度だけ瞬きをした。
笑顔を返すことはできた。
でも胸の奥の切なさは、ごまかせなかった。
風が冷たかった。
春が近いとはいえ、まだ3月の海風だ。
砂浜までの道を並んで歩きながら、よるはポケットのハンカチにそっと触れた。
あの日の刺繍は、変わらずそこにあった。
けれど__
それを持つ手は、もうすぐ透明になっていく。
よるは、あさを横目で見つめた。
胸の奥で、静かに、静かに波が立った。
---
海に着いた頃には、風は少し冷たくなっていた。
白い波が規則的に寄せては返し、その度に砂がさらさらと形を変える。
よるは、手に持ったハンカチをそっと開いた。
刺繍の月は淡い光に照らされて、かすかに揺れている。
(あさくんにもらったもの…最後まで、ちゃんと持っていよう)
「寒くない?」
あさが横で言う。
「ううん。大丈夫だよ」
よるは首を振った。
本当に寒くなかった。
むしろ胸の奥にある痛みのほうがずっと強くて、それが風の冷たさを消していた。
ふたりは、砂浜をゆっくり歩く。
学校では話せなかったことをぽつりぽつり言い合って、時々沈黙を挟みながら。
「…1年って、早かったね」
歩きながら、よるがつぶやいた。
あさは少し考えるように空を見た。
「うん。気づいたら、終わりが近づいてた」
その言葉に、よるの喉がきゅっと締まる。
"終わり"を口にするのは、あさのほうなのに、まるで自分の秘密に触れられたようで、胸が痛んだ。
「でもさ」
あさが続ける。
「よると過ごした日、全部覚えてるよ。たぶん、忘れない」
よるは、少しだけ足を止めた。
忘れないと言われることが嬉しくて、同時に、悲しかった。
よるは__忘れられない存在ではいられない。
もうすぐ終わる。
海に戻れば、もう会えない。
---
砂浜の真ん中あたりまで来たとき。
あさが急に歩みを止めた。
よるは驚いて、あさの顔を見上げる。
「…あのさ」
あさの声が、風に少しだけ消される。
でも、はっきり聞こえた。
「言ってなかったけど…今日、よるに伝えたいことがあったんだ」
胸が跳ねた。
悪い意味でも良い意味でもなく、ただ、逃げられない運命を見るような感覚だった。
よるは、ほんの少しだけ息を吸った。
「…なに?」
あさは、ゆっくりとよるの方に向き直った。
まるで言葉を慎重に選ぶように、一拍置いてから言う。
「ありがとう、よる。この一年、すごく楽しかった」
その言葉は、よるの心に直接届いたみたいに温かかった。
よるは、ほんの一瞬笑って、それから、胸が痛くて視線を落とした。
(ああ…だめだ。泣いちゃいけない)
泣いたら、終わりを受け入れることになってしまう。
そんな気がして。
---
あさは、よるの表情を見て、何か言おうと口を開いた。
その瞬間__
よるは、自分の指先がふっと軽くなるのを感じた。
心臓が跳ねる。
身体の奥で、波に似た何かがひろがる。
(…来た)
波紋みたいに、身体がじんわり薄くなる。
風と海の音が急に遠くなる。
ハンカチを握る手に力が入らない。
(ああ…もうだめだ)
よるは、あさの顔を見つめた。
夕暮れの光の中で、あさが少しだけ眉をひそめている。
よるの異変に気づいたのだ。
「よる…?顔、真っ白だよ。大丈夫?」
心配そうな声。
その声を最後に聞けたことが、嬉しくて、苦しい。
よるは、震える唇で、たった一言だけを選んだ。
「…ありがとう」
その言葉は、風に乗って消えそうなくらい小さかった。
でも、確かにあさに届いた。
あさが目を大きく見開いた瞬間__
よるの身体は、光の粒のように薄らいでいき、その場から静かに消えた。
手から滑り落ちたハンカチだけが、砂浜の上でふわりと舞った。
---
よるが消えた場所を、あさは信じられないというように見つめていた。
「…よる?」
呼んでも、返事はない。
風の音だけが、波と一緒に流れてくる。
よるのいた場所に膝をつき、落ちていたハンカチを拾った瞬間__
あさは、声を押し殺すこともできずに泣いた。
子供のように、ぐしゃぐしゃに。
「…っ、ありがとう…!」
声は震えて、涙で途切れた。
それでも、その言葉だけはどうしても言いたかった。
よるが最後に残してくれたものが、その言葉しかなかったから。
夕日が沈む砂浜で、あさの涙だけが静かに落ち続けた。
---
あれから、十年の月日が流れた。
春の光が差しこむ水族館のバックヤードで、白衣を羽織った青年が、水槽に浮かぶクラゲを見つめていた。
日向あさ。
二十代半ばになった彼は、この水族館でクラゲの飼育を担当している。
淡い光を受けて、ゆっくりと脈打つように漂うクラゲたち。
水槽の中では時間の流れが違うようで、ふわり、ふわり、と規則のないリズムで揺れる姿は、何度見ても美しかった。
__よるも、こんなふうに生きているのだろうか。
そう思うたびに胸の奥が静かに痛んだ。
あの日、砂浜で消えた小さな影。
手の中から落ちそうになっていた、刺繍入りのハンカチ。
あの瞬間が始まりであり、終わりだった。
けれど、その終わりが、あさに道を与えてくれた。
よるを探すように、よるの痕跡を手繰るように、あさは進路を選び、今この場所に立っている。
クラゲの説明パネルを磨きながら、ふと視線を水槽に戻す。
ゆらゆら漂う姿を見ると、長い時間のすきまから、やわらかな記憶が浮かんでくる。
美術室の夕方の匂い。
よるの描く青い絵。
たどたどしい言葉。
小さな笑顔。
そして、最後に聞こえた「ありがとう」。
胸の奥に触れれば、まだ温度を持って思い出せる。
そんな日々の積み重ねの中で__
ある夜、突然、よるが夢に現れた。
眩しいくらいの光の中で、中学生のままの姿のよるが、笑っていた。
海の水面のようにきらめく目でこちらを振り返り、クリスマスにもらったあのハンカチを握りしめて、まるで、時間なんてなかったかのように。
無邪気に、やさしく微笑んでいた。
呼ぼうとしても声が出なかった。
嬉しくて、切なくて、胸が詰まって。
言葉がどこにも見つからなかった。
ただ、夢の中のよるが笑うだけで、十年分の季節が一気にほどけていくようだった。
__気づけば、涙が頬を伝っていた。
あさは、そのまま目を覚ました。
部屋にはまだ夜明け前の薄い青が漂っている。
枕元に手を置くと、さっきまで夢の中に確かにいたはずの気配が、まだほんの少しだけ残っている気がした。
静かな部屋で、あさはぽつりとつぶやいた。
「…ありがとう。大好きだよ」
返事はない。
けれど、心の奥のどこかで、水の向こうの世界から、ほんのかすかな笑い声が聞こえたような気がした。
あの日と同じ、やさしい響きで。
ここまで読んでくださってありがとうございます…!
長かったですよねw
でもそれ以上に感動できる物語になっていればと思いながら書き進めました!
皆さんがそう感じてくださったのなら私自身とても嬉しいです…!
見つけてくれてありがとう。
ゆら姉の飼い猫