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ファミレス
私が彼を連れていったのは、近所のファミレスだった。赤茶色のレンガ風の壁と、そこに貼られた「秋の新作パスタ&和栗のアイスクリーム」というポスターを、彼は背中を反らしてしげしげと眺めた。私はそんな彼を見て、「ここ、初めて?」と尋ねた。ハスキーがかった抑揚のない私の声に、わずかに何らかの力が籠った。彼は私を見上げ、「うん」と頷いた。「そう」私は再び力の抜けた声で答え、彼の手を引いて店の中に入った。
店内は、ハンバーグのソースの匂いがして温かかった。平日の昼にしては混んでいて、私は伝票に名前を書いて少し待った。にこやかな笑顔の若い女性店員に案内されたのは、店の真ん中あたりの席だった。
「ラッキーだね」と私が言った。「なんで?」と彼は尋ねた。そして、自分が当たり前のように私の隣に座り、自然に質問を返したことに驚いた。警戒心は随分和らいでいた。
それは私が静かな低めの声で喋っていたからかもしれないし、突然怒鳴ったり暴力を振るったり、怪しいところに連れていったりしなかったからかもしれないし、繋いだ手が温かかったからかもしれなかった。
「暖房が」とメニュー表を手にとりながら私は言った。「暖房が真上にあるでしょ、この席。他のとこよりあったかいじゃん」
彼が天井を見上げると、確かに彼の真上に暖房があった。壁に埋め込まれ、縦長で細い穴が開いている。「たしかに」と彼は答えた。
「注文、何がいい?何でもいいけど」そう言いながら私は、メニュー表を彼にも見えるよう大きく開き、ぺらぺらとめくった。「好きなの頼んでいいよ」という私の声を聞きながら、彼は真剣な表情で表を覗きこんだ。
「ここはハンバーグでー、こっちはステーキ。あとパスタとー、ご飯系もあるね」
私は何にしよっかなーと呟きながら、ページをめくって説明する。最後のページにたどり着くと、彼は小さな声で「ケーキ」と言った。
「ケーキ?いきなり?主食は?」
私にこう尋ねられ、彼は驚いた。好きなのを頼んでいいと言われたから素直に言ったのに、まさかそんな風に問い返されるとは思わなかった。彼はますます小さな声で言った。
「…じゃあ、たらこパスタにする」
彼がたらこパスタと言ったのは、それを食べたかったからではなく、単にそのとき開いていたページの一番上に載っていたからだった。私はそれに気づき、「あ、いやまあ、いいんだよ別に、ケーキでも。パスタでもどっちでもいいけど、どうする?どっちがいい?」と言いながら、彼の顔を覗きこんだ。彼は私の顔を見ずにうつむいたまま、「…ケーキがいい」と答えた。
「ケーキね。どれがいいの?」私は表を見ながら聞いた。彼はチョコレートを選んだ。
「じゃあ私もチョコのパフェにしよ」結局私もチョコレートパフェを選んだ。
ケーキとパフェはほどなく届いた。チョコアイス、チョコクリーム、チョコウエハース、チョコ色に染まったコーンフレークが乗ったパフェを見て、彼は目を輝かせた。私はそれを見て「交換する?」と尋ねる。彼は首を横に振った。
「いい。ケーキ食べたいし…たぶん、パフェ食べきれないから」
「そう」
私は頷くとスプーンを取った。さくりとアイスにスプーンを入れ、持ち上げる。いらないと言いつつ、つやつやと甘い匂いのするアイスに彼は目を奪われる。私は食べづらくなって、そのまま彼の口元にアイスを持っていった。
「あげる」
「あ、いや」
「いいよ。アイスだけでも食べなよ」
私の声に不機嫌はこもっていなかったけれど、有無を言わさないような圧があった。彼はおとなしくスプーンを咥えた。冷たさと、鼻が馬鹿になりそうな甘い匂いが同時に来た。
「おいしい?」
「うん」
全く緊張のない溶けた彼の声が喉を滑って、私の膝あたりに落ちた。私はその声に、あるいは頬が緩んだ彼の顔に目元を綻ばせた。
彼がケーキを、私がパフェを食べる間、私たちは無言だった。彼はものを食べるときは話さないようにと躾けられていた。しかし、それを誰に教わったのかは思い出せなかった。
彼が皿に付着したチョコムースをスプーンで掬い取り、私がパフェの一番下の、チョコ味のパンナコッタを飲み込み終わるまでに、ざっと三十分かかった。私より早く食べ終わった彼は、私が食べるのをじっと見ていた。私の薄い桃色の唇がチョコレート色になっていくのを何となしに眺めていた。
食べ終わると、私はすぐに席を立った。彼も後に続こうとして、それから小さい声で「…トイレ」と言った。
「ああ、いいよ。そこの突き当たりにあるから。行っておいで」
突き当たりに消える彼を見送って、私は財布を取り出した。前に並んでいた老夫婦が、セルフレジに慣れない様子で会計をすませるのを待つ間、私はじっと彼の消えた方を見ていた。私の頭の中では、彼の走る背中が何度も再生されていた。
やっぱり、あの子は。
考えているうちに、老夫婦が「ごめんなさいね」とすまなそうな笑顔を浮かべて去っていったので、私は会計を済ませた。レシートを取ると同時に彼が戻ってくる。
「行こうか」私が言った。