公開中
死神の手のひら
「君は本当に喋らないねぇ」
気がつけば彼は僕の目の前で酒をあおっていた。僕は俯いたままその問いには答えない。沈黙が僕の部屋の空気を貫き、青年は痺れを切らしたように最初の一杯を飲み干した。彼の成熟した低めの声が僕の耳をすんなりと通ってくる。
心臓が、きゅっとなった。
「で、いつまで俺のこと無視し続けるの?別に俺はお人形と酒飲む趣味はないんだけど…」
全開の窓辺に吊るしてあるカーテンがふわりと踊る。入ってきた涼しい風が僕の足元まで夜を連れてきた。
寒い。身震いすると、彼はため息をついてこちらに酒が満杯に入った盃を差し出した。
「酒飲んだらあったかくなるよ、ほれ一杯」
「……僕、未成年なんで」
盃と彼の満面の笑みを一瞥すると、少し悩んだ後に第一声を発する。長い間声を出さなかったせいで声が掠れた。できるだけ低く声を出した、つもりだった。
「……やっと喋った。君の声、思ったより高いんだね」
彼は微笑んだ。だがそう言われた瞬間、心の中にどんよりと暗い何かが広がる気配がした。
雲が退いたのか、満月の光が僕の部屋に差し込んでくる。僕はその暗い雲が自分の心の中に入ってきたように感じた。膝と前髪の間から見える青年の灰色の肌は鉛のように鈍く照らされている。
僕の憂鬱をそのまま体に移したような色。暗い雰囲気の部屋で一番明るい表情をした彼が一番暗い色をしていた。
「……ま、飲まないならいいや。俺がもらう」
彼は盃を自分の口元に持っていくと、またこくんと喉を動かす。漆黒のローブから覗く喉仏が美しかった。
そこで初めて、今度は僕が自分から口を開いた。
「……あの、早く終わらせてください」
彼は盃から唇を離す。そしてこちらを見ることもせず盃に酒を注いだ。液体と空気が瓶の中で心音のようにとくとくと音を立てた。
今度はそれを一気に飲み干すと、片膝に盃を持っている方の腕を乗せる。銀のまつげに縁取られた真っ黒な強膜と、グレー味のある白の瞳。それが改めて僕を捉えた。
「終わらせるって、何を?」
どくん、と心臓がなる。覚悟を決めたんだ。もう怖くなんかない。
「……僕を、です」
彼は『ふーん』と心底どうでもいいといった具合で僕の手元を見る。有線イヤホンと充電ケーブル、それをどういう目的に使おうと思ったかは僕も彼もわかっていた。
「そんなチンケな紐で終わらせられると思ったんだ」
「……終わりそうだったから、貴方が来たんじゃないんですか?」
「俺はただ酒を飲みたかっただけだよ」
彼は透明な瓶の蓋に盃を被せると、それをローブの中にしまう。ローブの中は黒いモヤが充満していて、瓶はその中に消えた。少し驚いたが、僕はそれをぼんやりと見つめているだけで特に何も言わなかった。
「まぁいいか。君、名前は?」
彼は立ち上がると、僕にそう尋ねた。言いたくない。僕は無言を貫いた。
窓際のカーテンがふわっと浮いて、また夜が入ってくる。裸足の足から寒さが襲いかかってきて、僕は膝を胸に引き寄せてまだ暖かい手で足を触った。
青年は手を前に出す。灰色の手はゴツゴツしていて僕の手より大きい。彼は手元に集まった黒いモヤを握ると、それは鎌に変化した。彼は鎌を僕に向けると、怪しげな言葉を口から紡ぎ出す。
あぁ、これは僕を終わらせるための儀式なのか。
「早く終わらせよう。名前は?」
「………|村田《むらた》、|莉子《りこ》」
どうせこの名前も今世で終わりだ。
僕がそう答えると、彼が鎌を両手で持って思いっきり振りかぶる。ローブはほとんどと風を巻き込み、部屋は空気を切る音に包まれた。喉元にやってきた刃物の気配に背筋が凍る。
「……うっ!?」
身体中に雷鳴が轟くような白色の痺れが広がっていく。
僕は電撃のような眩さと衝撃を全身に受け、部屋の端に吹っ飛んだ。ぶつかった棚から教科書が衝撃で雪崩れ落ち、体に当たる。
あまり感じたことのない種類の痛みに、頭がクラクラする。
「……やっぱり」
そう呟いた彼は、鎌を離す。鎌は水に錠剤を入れた時のように一瞬で消滅し、そこには黒いローブの青年だけが残された。
「君はまだ死ねないよ」
彼の白い瞳が無常感を連れてくる。冥界にすら拒絶されたという事実が心を伝っていった。僕は体の上に乗った教材を退けると、彼の元へ歩こうとする。
ふわっと足の力が抜けて、膝に硬い床の衝撃が渡る。僕はその場に座り込んだ。
「……なんで…」
死ねない。逃げられない。瞼が熱い。鼻の先がツンと痛い。唇と体が震える。
「………僕はまだ、僕になれないの…?」
平らな喉元、華奢な体つき、小さな手、膨らんできた胸元、そして先月始まった生理。全部“僕”には必要のないもののはずなのに。体が止まらない。僕はずっと僕でいたいのに。
来世は男に生まれられるように、来世に期待したのに。
熱を必死に堪え、熱い喉元がぐるぐると音を出す。慟哭を必死にこらえ、僕の荒い息遣いだけが夜に響いていた。心臓が突き裂かれてしまいそうなほど動いていた。
彼のローブが床につく音がした。彼が隣に腰を下ろす。
僕はただひたすらバラバラになってしまいそうな心を押さえ込んで、細い傷だらけの腕に自分の爪をかぶりつかせる。血が出そうな程な痛みだが、それ以外に方法が思いつかなかった。
彼の大きな手が僕の頭に遠慮がちに触れ、そのままわしゃわしゃと撫でられる。初めて触れた彼の手は、ぞっとするほど冷たかった。
「……ごめん、なさい。僕は……」
「……ん」
僕が言葉に詰まってしまうと、彼はぎこちないながらも僕の頭を撫で続ける。
大勢の人の命を奪い地獄の底を行き来したの手のひらは、変に緊張した不器用な優しさを放っていた。
僕はその日初めて、死神の手のひらで泣いた。