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法廷にてアリアは嘘を愛す。 第五話
朝の鑑識室は、いつも通り静かだった。
だがその静けさは、今日は異質だった。
「……あり得ない」
鑑識担当の男が、資料を握りしめたまま立ち尽くしている。
「どうした」
久城玲の声は低い。
男は震える指で、画面を指した。
「この“目撃者”、記録が……存在しません」
玲の目が細くなる。
「存在しない?」
「はい。住民票、通話履歴、入出国記録……全部確認しましたが、この人物――」
一拍。
「最初から“いなかった”ことになっています」
沈黙。
玲は一歩近づく。
「供述書は?」
「あります」
「誰が取った」
「……それが」
男は唾を飲み込む。
「担当者の記録がありません」
部屋の空気が変わる。
冷たい、嫌な感覚。
「もう一度言え」
「証言者が誰なのか、追えないんです。記録上、この供述は“突然存在している”」
玲はゆっくりと息を吐いた。
そして、静かに言う。
「証言だけが、そこにある」
***
拘置所。
アリアは椅子に座ったまま、何もない空間を見ていた。
まるで、そこに“誰か”がいるかのように。
「気づきましたね」
彼女は小さく笑う。
「ようやく、“最初の違和感”です」
指先を組む。
「証言者は、重要じゃないんです」
静かに続ける。
「“証言があること”が重要なんです」
***
検察庁。
玲は資料をすべてテーブルに広げていた。
「この事件には三種類の情報がある」
誰にでもなく言う。
「物証、証言、そして記録」
ページをめくる。
「物証は整っている」
次。
「証言は完璧に一致している」
最後。
「そして記録は――“存在しない”」
沈黙。
玲は椅子に座る。
「普通は逆だ」
低く呟く。
「証言が曖昧で、記録が残る」
「だがこれは……」
一拍。
「証言が完璧で、記録が欠落している」
指先が机を叩く。
「構造が逆転している」
***
夜。
玲は再び現場の路地に立っていた。
何も変わらないはずの場所。
だが、もう以前と同じようには見えない。
彼はしゃがみ込み、地面に触れる。
冷たいコンクリート。
ここで何が起きたのか。
誰が見ていたのか。
――いや。
そもそも。
「……誰が“見たことにした”んだ」
その瞬間、背後に風が吹いた気がした。
振り返る。
誰もいない。
だが確かに、“誰かの視線”だけがそこにあった。
***
拘置所。
アリアは窓の外を見ていた。
夜。
光はない。
だが彼女には見えている。
完成された構図が。
「順調です」
静かに言う。
「証言は揃い、記録は消え、真実は浮かび上がる」
彼女は目を閉じる。
「もうすぐ、“一つの結論”にたどり着く」
そして、微笑む。
「でもね、久城さん」
誰もいない空間に語りかける。
「それはあなたが望んだ“真実”じゃない」
***
検察庁。
玲は机の上の資料を見下ろしていた。
証拠はある。
証言もある。
だが――
「……足りない」
低く呟く。
何かが決定的に欠けている。
それなのに、事件は成立している。
まるで。
「最初から“完成している事件”を、あとから解いているみたいだ」
その言葉に、自分で違和感を覚える。
解いている?
本当に?
玲はゆっくりと目を閉じた。
そして、静かに気づく。
――自分は今、「事件を調べている」のではない。
――「事件に参加している」。
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
***
拘置所。
アリアは微笑む。
「気づきましたか」
小さく、優しく。
「あなたはもう、観測者じゃない」
目を開く。
その瞳は静かだった。
「あなたも、この事件の一部です」
***
夜の路地で、玲は立ち尽くしていた。
風が通り過ぎる。
証拠はある。
証言もある。
だが真実は――
「……どこにもいない」
その言葉だけが、静かに夜へ溶けていった。