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『帰る場所は、まだある』
雨が降っていた。
細い雨のしずくが制服の肩や髪に当たるたび、ひんやりとした感触が胸まで伝わる。
夜の街は静かで、雨の音だけが大きく響いているみたいだった。
私は駅前の屋根の下に立っていた。
スカートの裾は少し濡れて、靴の先も水を吸って冷たい。
スマートフォンの画面を何度も覗くけれど、通知は何もない。
母からも、父からも。小さく息を吐いた。
「……別に、帰らなくてもいいし」
声にしてみたけど、心の中はまだざわざわしている。
夕方、家を飛び出した。
原因はいつもと同じこと。
勉強のこと、成績のこと、将来のこと。
母は心配して言っていたんだろうけど、
私には責められているみたいにしか聞こえなかった。
「 ちゃんとしなさい 」
その言葉が、頭の中で何度もリフレインする。
だから私は、傘も持たずに外へ出た。最初は勢いだった。
友達の家に行こうかと思ったけど、夜遅くて説明するのも面倒だった。
ただ歩き続けるだけで時間が潰れればいい、そう思った。
気づけばもう、夜中だ。電車も減り、街を歩く人もほとんどいない。
歩いているうちに、駅から少し離れた道に差し掛かった。雨はまだ降っている。
街灯の光が濡れたアスファルトに映り込み、ゆらゆら揺れている。
そのとき、端っこに光が見えた。自動販売機だった。
赤と白のネオンが、雨の夜の中でぽつんと光っている。
何でだろう、こんなに静かな夜なのに、そこだけが呼んでいるみたいに見えた。
私はなぜか、どうしてもそちらへ行かなければいけない気がした。
喉が渇いていたのもあるけど、それ以上に、ただそこに立ちたくなった。
ポケットをがさごそと探ると、幸い、小銭がいくつかある。良かった。
小さめのボトルのボタンを押す。
ガコン
取り出し口に手を入れると、冷たい缶ではなく、
小さく折られた紙が指先に触れた。
「……え」
ゆっくり開く。
そこには、一行だけ書かれていた。
『帰る場所は、まだある』
雨音の中で、文字が光に浮かんで見えた気がする。
「……なに、これ」
でも胸の奥に、じんわりと温かいものが広がるのを感じた。帰る場所。
スマートフォンを取り出す。母からの最後のメッセージが残っている。
「帰りは何時?」
返事はまだだった。そのまま、少しだけ指が止まる。
「……別に、帰りたくないし」
言ってみる。でもさっきより弱い声になってしまった。
家は、嫌いじゃない。普通の家だと思う。夕飯も出るし、誕生日にはケーキもある。
ただ今日は、少しだけ苦しかっただけだ。もう一度紙を見た。
『帰る場所は、まだある』
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなる。雨が少し弱くなっていた。
スマートフォンを握りしめ、母の名前を開く。
指が止まったあと、ゆっくりメッセージを打つ。
「今から帰る」
送信すると、数秒で既読がつく。そして、返信。
「よかった。気をつけて帰ってきて」
小さく笑った。
「……心配してたんじゃん」
紙を折って、ポケットにそっと入れる。雨はもう、それほど冷たくない。
遠くに並ぶ家々の明かりが、優しく揺れている。
私は歩き出した。
家までの道は何度も通ったことがあるはずなのに、今夜は少し違って見える。
ポケットの中で紙の感触を確かめながら、少しだけ歩く速度を上げる。
帰る場所は、ちゃんとそこにある――
そう思っただけで、夜の雨はもう、怖くなかった。