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第5話:物語の産声
|陽葵《ひまり》と出会ってから、|新《あらた》の病室には、小さな来客が頻繁に訪れるようになった。
「ねえ、おにいちゃん。きょうも、あの『おなまえのノート』、よんで?」
治療の合間のわずかな時間、陽葵は新のベッドの横にちょこんと座る。
新は、抗がん剤の副作用で震える手で、|永莉《えり》との『未来のノート』を開いた。
「……いいよ。今日は、この公園の話をしようか。ここはね、永莉――僕の恋人が、いつか子供と一緒にピクニックに行きたいって言っていた場所なんだ」
新は、ノートに描かれた拙いスケッチをなぞりながら、言葉を紡いだ。
不思議なことだった。一年前までは、このページを開くたびに胸が締め付けられ、呼吸ができなくなっていたのに、陽葵に聞かせるために口を開くと、思い出の中の永莉が、悲劇のヒロインではなく、ただの「愛らしい一人の女性」として蘇ってくる。
「その公園にはね、大きな滑り台があって、春になると一面がシロツメクサで白くなるんだ。そこで冠を作って、子供にプレゼントするんだって、彼女は笑ってたよ」
「わあ……! わたしも、そのかんむり、ほしい!」
陽葵の瞳がキラキラと輝く。
その時、新の胸に、今まで感じたことのない感情が芽生えた。
(僕たちが叶えられなかった未来は、ただ消えてなくなるだけじゃないのかもしれない)
永莉と話した「子供の名前」、行きたかった場所、教えたかったこと。
それらは、二人がこの世に生きて、誰かを愛した証だ。
それを、今ここに生きている陽葵のような子供たちに語り継ぐことができれば、永莉の想いは、別の形をして「今」を生き続けるのではないか。
その日の夜。新は、病院の売店で新しい原稿用紙とペンを買った。
「……書こう」
新は、ベッドの上で震える指先に力を込めた。
自分に残された時間は、もう長くはない。医師の顔を見れば、それが残酷なほどよくわかる。
新が書き始めたのは、悲しい死の物語ではなかった。
『|新太《あらた》』と『|永美《えみ》』という、かつて自分と永莉が考えた子供の名前を主人公にした、冒険の物語だ。
二人が行きたかったキャンプ場、海、動物園。それらを舞台に、まだ見ぬ我が子たちが元気に駆け回る物語。
一文字書くごとに、全身を倦怠感が襲う。
けれど、ペンを動かしている間だけは、新は病を忘れ、失った絶望を忘れ、永莉と共に「新しい未来」を創造しているような感覚になれた。
「永莉。僕、決めたよ。君との思い出を、この世界に遺していく」
暗い病室で、手元のランプだけが白く原稿用紙を照らしている。
かつて絶望して投げ出したペンを、新は今、自らの命を削るようにして走らせ始めた。
それは、新が初めて「自分の死」ではなく「誰かの今」のために、前を向いた瞬間だった。
🔚