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CASE1:家畜
嫌というほどに、聞かされた誰かの英雄譚だった。
教育部にて、黒板の中に書き込まれた忌々しい絶望と、崇め奉る英雄の姿。それを人々は常に|我が王《リーダー》だと言った。
静寂だけが、この世界の正解で、かつて空から降り注いだものは、命を祝福する雨でも、季節を告げる風でもなく、目に見えぬ死の微霧『|Vapor《ヴェイパー》』と呼ばれた紫の絶望だった。息を吸えば、肺胞は焦がされ、血は濁り、人は生きたまま内側から崩壊していく。街は瞬く間に沈黙し、青かったはずの空は、死の粒子が光を屈折させる呪わしい歪みへと変貌を果たす。人類という種族が重ねてきた数千年の歴史は、たった数節の呼吸の間に灰燼へと帰したのだ。
絶滅の淵で開かれた政治的な決断は、地に潜るための冷たい鉄の顎、地下巨大シェルター『|ARK《アーク》』として顕現された。
地上の死気から逃れ、重い気密扉を固く閉ざしたその日、かつての私たちは光を捨てたらしい。無機質な蛍光灯が照らす冷たいコンクリートの回廊と、絶え間なく響く循環ファンの駆動音。それが、人類に残された唯一の鼓動となった。
その小さな鼓動の暗闇に震える私たちを温めたのは、ただ一人の男の言葉だった。
「恐れることはない。私が君たちの呼吸を守ろう」
絶命の淵から命を繋ぎ止める奇跡のワクチン、|ARK《アーク》・|PROTECT《プロテクト》。変異を繰り返す死の牙から、その身を削って私たちを護り続ける絶対の庇護者。人々は男を敬愛し、ひざまずき、その言葉を神の神託のごとく信じた。過酷な配給、厳しい統制、定期的に失われていく誰かの存在……それらすべては、滅びかけた世界で生き残るための必要な犠牲なのだと。
だから、私たちは問いかけることをやめた。
鉄の扉の向こう側を想うことをやめた。
首筋に突き刺さる注射針の痛みにさえ、生を与えられた感謝の涙を流した。
そういう御伽話を今も信じている。
食堂には、相変わらず英雄譚という御伽話がびっしりとコルクボードに書き込まれていた。その脇では、コルクボードの内容が絵本になったものを大人が数人の子どもたちに読み聞かせている。
「よくできた家畜の話だ。耳が腐るぞ、フリーク」
シェルター内の共有食堂で、調理師が毒気を吐いた。この話だって、何回も聞いたものだ。
「今日のメインディッシュも、トッピングされた愚痴なのか?」
「Vaporでも添えてやろうか」
「衛生管理も地の底を掘り過ぎるよ。勘弁してくれ」
ARK内の一般居住者である僕は、そんな世界の英雄譚から作り出された日常を疑うことなく生きていた。三ヶ月に一度巡ってくる中和抗体ワクチンの接種を受け入れ、薄暗く無機質なアークの中で、ヘラヘラと笑いながら慎ましく日々の糧を得る。それがこの世界における正解だったからだ。この日も、いつもと変わらない静寂な日常のはずだった。食堂の金属臭い空気の中、いつものように名前も知らない調理師の彼が、軽口を叩いてスープの深皿を差し出したその時、腕の袖口から覗いた肌に、小さな朱色の発疹が浮かんでいるのが見えた。
彼は「ちょっと微熱があるだけさ、大したことない」と、どこか気まずそうに苦笑いを浮かべた。そして、小っ恥ずかしそうに「フリーク・ジャック」と僕の名前を呼んだ。
「あー……その、悪いことは言わないが、フリーク」
さらに、続ける。静かに小声で、まるで誰にも見つからないように秘密を隠すみたいに。
「あまり、あの話を真に受けすぎるなよ。……俺たちは、生かされているだけだ」
彼がぼそりと呟いたその言葉の意味を、僕が問い返す間すらなかった。直後に、けたたましい警告音が鳴り響き、食堂の人々が混乱した。
「……副菜は誰かの連行ってことか?」
「そんなもん見ながら食うな。味がしないだろ」
重厚な靴音が回廊を鳴らし、即座になだれ込んできた武装した警備隊だった。彼らは問答無用で調理師を取り囲み、冷酷な通告を叩きつける。
「Vapor感染の疑いあり。直ちに拘束し、特別医療隔離区画へ移送する」
「……あー…なるほどね…?」
調理師が警備隊の一人と話している。僕に銃口を突きつけた一人の警備隊は、僕と話もしなかった。
「移動を命じる。拒否権はない」
「……飯はどうすんだよ?」
「廃棄だが」
警備隊が僕に、「この調理師の食事は口に入れていないな?」と聞いた。首を縦に振った僕に、誰かが「危ねえ奴だな…」などと私語を話している。食堂の人々は落ち着きを取り戻して、作られたばかりの食事をゴミ箱に入れている。まるで計算された機械の作業工程のようにスープの中身が袋へ溢れていった。
「……調理師が感染なんて、楽園も落ちぶれたんだよ!理想郷なんて、どこにもありゃしない!」
「王は君主だ。民衆の全てを知っているわけではない」
「ああ、クソったれ!労働終わりだったのに!今度はスープの労働なんて!」
「ねぇ……いつ忌々しい霧は消えてくれるの?まさか私が死ぬまでじゃないでしょ?陽を浴びもせずに朽ちるなんて、女の恥よ」
誰も彼も自分のことばかりで、身近でもない人が連れて行かれようと助けもしない。当たり前と言われたら、当たり前だった。
「協力に感謝する」
警備員が告げ、冷たい鉄の拘束具が噛み合う音が調理師を連れて行く。人々に神のごとく崇められる双子のおかげで保たれていたはずの平和な日常が、たった一瞬の不協和音によって脆くも崩れ去っていく。連れ去られていく男の後ろ姿を前に、僕は差し出されたスープの器を握りしめたまま、ただ呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。
「……家畜、か……」
スープをゴミ箱に入れなきゃいけなかった。先程まで話してた彼が、箱の中に入るみたいに。